シンデレラになれなくて


その19 戸惑いの中の会話



「はい」

大きく息を吸い込み、自分の胸に手を置くことで勇気を掻き集めた愛美は、やっとのことで、その短い言葉を口から押し出した。

ハッとしたように息を吸う音がくぐもって聞こえ、続いて安堵のこもった吐く息が聞こえた。

『もう出てもらえないかと、不安に思っていました』

彼の声を胸に受け入れ、愛美は天井を見上げて目を閉じた。

「すみません」

愛美の謝罪の言葉の後、沈黙が続き、彼女が戸惑っていると、やっと彼の声がした。

『何を話せばいいのか…わからなくなってしまった。すみません』

「い、いえ…」

『私のことを、覚えていらっしゃいますか?あの時のことを…』

あの時とは、あの庭園でのことだろう。

「は、はい。あのお酒のせいだと思うんですけど…思い出せなくて…けど…思い出しました」

さすがに百代のまじないが…などとは、口に出来ない。

『酔いが醒めて、わたしのことをすべて忘れてしまわれたかと…思い出していただけてよかった』

深い安堵の言葉だった。
彼の思いが伝わってきて、愛美の胸が切なく疼いた。

『成島の小母の言葉を聞かれたのでしょう?』

「成島?」

『ええ、藤堂橙子さんと私のことで、結婚を匂わせた婦人のことです。彼女の言葉を、貴方もお聞きになったのでは?』

「あ…」

愛美の短い問いで、彼は悟ったようだった。

『あれは、事実無根の話しです。私と彼女はそういう関係ではない』

その言葉はもちろん素直に受け取れなかった。
今日、彼は、橙子と会う約束をしていたのだから。

『成島の小母は、縁談を取り持つのが好きなのです。その白羽の矢が、今回、私と彼女に向けられたらしい』

愛美は何も言えず、相槌も打たずに黙り込んでいた。

『早瀬さん?』

その呼びかけに、愛美はどきりとした。
そう言えば、彼は愛美の名を知っていると言っていたが…

あの庭で、彼女は彼に名を…告げただろうか?
その記憶は曖昧で思い出せない。

『早瀬さん?』

不安そうな呼びかけが繰り返された。

「は、はい。き、聞いています」

『貴方は、蘭子さんの知り合いの方のようですね、彼女とは?親しいのですか?』

「はい」

愛美は口ごもりつつ答えた。
彼は、どこまで愛美のことを知っているのだろう?

『私とのことを、彼女には?』

「…話していません」

『そうですか。良かった、その方がいい』

言葉には、ひどくほっとしたものが混じっていた。

『私たちのことを聞けば、彼女のことです、そっとしておいてくれそうもないですからね』

彼の声に、微かな笑いが混じった。
私たちのこと、と言う言葉に、愛美はどぎまぎして言葉を返せなかった。

彼女が何も言わないせいで、彼の笑いはすぐに消えた。

『…私ばかりが話してるな』

ひとり言のような彼の小さな声が聞こえた。

『…もしかして、迷惑に感じていらしゃいますか?』

「そ、そんなことは…」

『本当に?』

「はい…」

どうして私を?そう尋ねようと思った。
けれど、電話でふたりが繋がっているいま、それはひどく愚かしい質問だとしか思えなかった。

説明しがたいものがあるのだ。

繋がりを断ち切りたくないと言った時の、彼の思いが、いま愛美にもはっきりと理解できた。

いまこのとき、彼女は、そっくり同じ思いでいる…

『明日の午後…会えませんか?』

彼の言葉は、ひどく固く強張っていた。まるで…

緊張?しているのだろうか?彼ほどのひとが…たかが愛美相手に…?

まさか…

電話の向こう側で、彼が息を詰めて愛美の言葉を返事を待っているのが気配で分かる。

「…明日?」

『ええ。明日の午後しか…空いていないんです。…もし、午前中の方が都合がよいとおっしゃるのでしたら…なんとかします』

なんとかなるというような、声の雰囲気ではなかった。
信じられないことに、その声には、必死さまで感じ取れた。

愛美は考えのまとまらない頭に手のひらを当てると、自分をなだめて心を落ち着かせた。

明日の昼くらいまでと父は言っていた。
午後なら会えるだろう。

…けれど、彼女の中で抗議の声が響く。

彼と会うことは間違いではないだろうか?
二度と会わない方が…お互いの…

『その携帯も、その時に…』

彼が付け加えた言葉に、愛美は無言で小さく笑った。

そうだった。手にしているこの携帯を、彼に返さなければならないのだ。

「でも…あの、どこで?」

『場所は、貴方の都合のよいところで構いません。そこまで私が出向きます』

あの黒くて目立つ、車でだろうか?それも運転手付きの?

「わたし、明日の朝、出掛けるところがあるんです。少し遠くて…」

『では、何時くらいなら、よろしいですか?』

「午後くらいには…」

『それならば、迷惑でなければ私がそちらまで伺って…帰りは貴方の家までお送りしましょう』

愛美は唇を噛んだ。

家は困る。

「か、帰りは、父の車で帰ることになってますから…」

嘘をつく後ろめたさに、声が跳ね上がった。

父には、ゆっくりして帰りたいからと、先に帰ってもらうしかない。

『父上もご一緒ですか?…私が伺って、貴方は困りませんか?』

「大丈夫です。しばらくの間なら、抜け出せます…」

『では、待ち合わせる場所を教えていただけますか?』

愛美は少し考え、河原沿いの公園の名と場所、そして時間を告げた。
あそこならば、下り道の先だし、自転車で三十分と掛からない。

駅とは正反対の方向でもあるから、あそこならば愛美を知る人に出会うこともないだろう。

彼と別れたら、そのまま自転車で駅に向かい、電車で帰ってくればいい。
駅長さんとは顔見知りだし、頼めば自転車を預かってもらえるだろう。

『それでは…明日、必ず』

彼は必ずという言葉に力を込めた。
約束を現実にという、彼の強い思いが伝わってくるようだった。

「はい」

通話は終わったものと愛美は携帯を耳から離した。
そして、おろおろしながら人差し指を向け、通話を切るためのボタンを探した。

『早瀬さん』

電話から聞こえた彼の声に、愛美は慌てて携帯を耳に押し当てた。

「は、はい」

『あの…おやすみなさい』

「はい。おやすみなさい」

愛美がそう言った数秒後、電話は切れた。

いまさら気づいたが、のぼせたように頭が熱い。

その熱をなんとか冷まそうと、深い呼吸を繰り返していた愛美は、携帯の画面に浮かんでいる文字に気づいた。

不在着信十二件…

愛美は目を見開いた。
彼ひとりが、12件もの電話をよこしたとは思えない。

蘭子も掛けたのかもしない。蘭子の姉、橙子も…

愛美の胸は、強烈な罪悪感に打たれた。





  
inserted by FC2 system