シンデレラになれなくて


その38 刻まれた答え



教室で待っていたのは百代だけで、蘭子は、すでに帰った後だった。

「櫻井君、いったいなんだったの?」

校舎を昇降口に向かって歩きながら、百代が聞いてきた。

「なんか…」

そう口にしてから、愛美は話していいものか迷ったが、相手が百代であることと、ことさら櫻井は口止めしなかったことを思い出して、口を開いた。

「一年の音楽の先生に誤解されちゃって、その誤解を解くためにわたしを連れてったみたい」

「誤解?」

「うん。好意を持ってるって思われたとかって…」

「櫻井君、誤解されるような何をしたのか聞いた?」

期待しない顔で百代はそう聞いてきた。
愛美は、櫻井の言葉を思い出そうと眉を寄せた。

「捜査とかって…言ってた気がする。取材ってことなんだと思うけど…接触しすぎたとか…」

「ふーん。でもなんで愛美を連れてったのかしら?」

「助けてやった借りを返すチャンスだぞって言われたわ」

「ああ、そっか」

「櫻井君、今度わたしたちが行くお芝居に行きたそうだったわよ。あのチケットっていったいいくらぐらいするの?櫻井君の話では、かなり高いみたいなこと言ってたけど…」

「普通だと二万五千円くらいなんじゃないかな? わたしもはっきりと知らないんだけど…」

「に、二万五千円?」

「蘭子の用意しているチケットは特別席の筈だから、実際の値段は分かんないけどね」

「特別席?」

「藤堂家がちょっと声掛ければ、普通じゃ手に入らないチケットも手に入るってことなのよ。そうでなきゃ、こんなに間近になって手に入るチケットじゃないもの」

そう言えば、櫻井もいまからじゃ手に入らないと言っていた。

「でも、それじゃあ、奥谷さんだって手に入れられないんじゃないの?彼女が来なかったら…」

「来るって」

「え?」

「どんなことをしてでもチケットを手に入れるわよ。彼女の蘭子に対する執念は、そりゃあ、すさまじいんだから」

ふたりは、昇降口にから外に出た。朝方は良く晴れていたが、少しずつ雲の層が増しているようだ。

風もあって、ちょっとした突風が不意を付くように彼女たちを襲い、愛美の髪が後方になびいた。

百代は、少し愉快そうに愛美の揺れる髪を見つめていたが、また口を開いた。

「めったにないチャンス、みすみすふいにしたりしないって。蘭子もそれが分かっていて、わざわざチケットが手に入り難い芝居の場を、次の舞台に選んだのよ。まあ、蘭子も蘭子ってとこだわね」

髪を垂らしたままだったことに気づいた愛美は、百代の言葉を聞きながら、僅かな意識を使って髪を結おうと手を掛けた。

「どうして奥谷さんは、そこまで蘭ちゃんを目の敵にするのかしら?」

「髪、そのままでいいじゃん。きっちり三つ編みにしてるのなんて、愛美くらいなものだよ。かえって目立つよ」

「で、でも、落ち着かないし…目立つ?」

愛美は不安な眼差しを百代に向けた。

「うん。まあ、あんたの場合、垂らしてても目立つだろうけど…どっちかというと、三つ編みの方が目立つかな」

えらく微妙な言い回しだ。
愛美は髪に手を掛けたまま、どうすればいいのか分からず唇を尖らせた。

「わたし、愛美の髪が揺れてるのみるの好きだよ」

彼女は友の言葉に目をきゅっと上に向け、熟考してから手を放した。

百代の目じりに、やさしい温かなものが滲んだ。
ふっと微笑むと、百代は語りだした。

「まずひとつには、奥谷静穂の父親の会社は藤堂家の経営してる会社のひとつのライバル会社なの。親に吹き込まれたんだと思うけど、幼稚園の頃から静穂は蘭子をライバル視してたわ」

愛美はそれを聞いて、唇をすぼめた。

なんだか胸がむかむかした。
親の確執を、幼い子どもの意識に植えつけるなんて…

「で、それからは、同じようなことが繰り返し起こったわ。決定的だったのは、静穂の好きだった男の子が、蘭子の誕生日パーティーに行った事。でも、それって小三の時のことなのよ」

当事者は、やはり他者とは違うだろうが…なんとも…

「馬鹿馬鹿しいよね」

百代の言葉が、心にあった言葉そのままだったために、愛美は思わず「うん」と頷いてしまった。

百代が愉快そうに笑い出した。

「蘭子を出し抜いてトップに立つことだけを考えてる…いまはもう、憑りつかれてるって言った方がいいかもね」

愛美はなんだか哀しくなった。
静穂は、自分の選択ひとつで、もっと楽しい生き方が出来るはずなのに…

「可哀想…心が休まらないわね」

「それも彼女の自由な選択の結果。同情は、かえって彼女に失礼だよ」

初め反論しようとした愛美だったが、百代の眼差しを受け止めて自分が恥ずかしくなった。

「そうだね」

反省を込めて、俯きがちにそう呟いた愛美の顔を、百代が笑いを浮かべて覗きこんできた。

「百ちゃん、何?」

「彼のこと好きなの?」

愛美は唐突な質問にぎょっとして固まった。

「ちゃんと話した?」

「何を?」

「自分のことよ。歳は十七歳で、名前は早瀬川愛美ですって」

愛美は無言のまま首を振った。

「強引な人?」

愛美はしばらく俯いたままだったが、ほんの形だけ頷いた。

「そうかも…」

「どうして、彼と会ったの? 彼が強引すぎて、会うことになったの?」

愛美は無意識に立ち止まった。
じっと地面を見つめていた彼女は、やっと顔を上げて百代と視線を合わせた。

「逢いたかったから…」

ささやきに近い声で愛美は言った。

「そう。なら、何も心配しない。保志宮さんの方は断らなくちゃね。蘭子に、そのひとのこと言って…」

「だ、駄目なの!」

「どうして?」

「どうしても。それに…そのひととは、もう逢わないから」

蘭子に、不破とのことなどとても話せない。

百代からいぶかしげな視線を投げかけられて、愛美はその視線を受け止められなくて顔を逸らした。

「釣り合わないの」

愛美はぼそぼそと言った。

「愛美の自由だよ」

百代にそう言われて、愛美の胸にすっぱいものが込み上げてきた。

静穂の、幸せとはいい難い選択の末の生き方と、愛美の選択がぴたりと重なってゆくようだった。

百代の自由という言葉は、ずっしりと心に重いものを、愛美の心に残した。

「あの、君」

その声に、愛美は初め気づかずに、俯いたまま声の主の前を素通りした。

「ち、ちょっと、君」

張り上げた大きな声が耳にも届き、愛美は驚いて顔を上げた。

ひとりの男子生徒が立っていた。

「ね、一緒にお茶でも飲まない?」

「はい?」

愛美は呆気に取られて相手を見つめた。そして隣にいる百代に視線を向けた。

「この子、彼氏いるから。誘っても無理だよ」

「なんだ、そうか…」

男子学生は肩を落とし、愛美に心残りな一瞥を向け、仕方なさそうにその場から去って行った。

愛美は眉を寄せて首を捻った。

「あのひと、なんだったの?」

「愛美を気に入ったのに決まってんでしょ。眼鏡と髪型のせいね。まあ、当たり前か、いまの愛美、本来の愛美全開一歩手前だもんね」

「なに?その…全開一歩手前って…」

愛美は怪訝な顔で尋ねた。

「あんたが制服の中に隠してる、そのおいしそうなおっぱい見たら、昇天してひっくり返る輩が大勢いるだろうねぇ。見て見たい気もするけど…」

「も、百ちゃん!」

「そう喚きなさんな。生だししろなんて言ってないわよ」

百代が拗ねたように言った。

愛美は目眩に襲われた。





その夜、不破との約束の時間、愛美は携帯を手に、畳に直接座り込んでいた。

不破に会うべきではない、電話での会話もするべきではないと、理性がガンガン叫んでくる。
愛美は理性の声に耳を塞いだ。

不破の声が聞きたい…

それは、そんなに悪いことなのだろうか?

彼が望むまでだけ…

それが言い訳なことは分かっていた。
でも、どうしても押さえられない思いというのは、存在するものなのだ。


「九時ぴったりでしたね」

不破の嬉しげな声は、心に心地よく響いた。
愛美は彼のこの一言だけで、耐えられないほどの切なさを味わった。

「良い一日でしたか?」

「悪い一日ではなかったです」

不破の小さな笑い声が聞こえた。心がほんのりあったまった。

「不破さんは?」

「忙しい一日でしたよ。今日はやたらあちこち飛び回ってました」

「大変だったんですね」

「ええ。でも、いつものことではありますね」

彼との会話はとてもゆっくりと進む。
もしかすると、愛美と同じように、不破も彼女の声と言葉を味わっているのだろうか?

「まなさんは、まだ、学生ですか?」

彼は大学生という意味で言ったのだろう。
愛美は一拍遅れて「はい」と答えた。

「私のことは、どのくらい知っておいでですか?」

「不破さんのこと?」

「ええ」

「知りません。何も」

「不破の家は?」

「ごめんなさい。知りません」

「謝ることではないですよ。私に対して何も質問なさらないから、すでに知っておいでなのだろうかと思ったんです。…ですが、私のことを知りたがってくださらないのは、いささか淋しいですね」

「わたしは不破さんのこと知ってます」

「…そうなんですか?」

「不破さんの家のこととか、不破さんのお仕事のこととかは何も知りませんけど…不破さんがどんなひとかは、もう知ってます」

「どんな人間と思って下さっているのか、知りたいですね」

「やさしさと思いやりのある方です」

「それだけ?」

不破の言葉に、愛美は戸惑った。

「それだけって…?」

「私のことを考えると、鼓動が速まったりしませんか? 切なかったりは…?」

冗談など欠片もない、ひどく真剣な声だった。
愛美は息を止めた。

彼に答えるまでもなく、愛美の心臓は、不破の声を耳にしたときから、狂ったように鼓動を速めているし、胸は切なさに押しつぶされそうになっている。

「…答えられません」

愛美は唇を噛んだ。
こんな答えをしては、愛美の胸の内を暴露したようなものかもしれない。

「キスを拒まないのはどうしてですか?抱き締められて、私の腕から逃げ出さないのはなぜですか?」

彼女は真っ赤になった。
それがなぜかなど、とても口に出来ない。

「実を言うと、答えをもらおうとは思っていないんです。その答えはすでに知っていますからね」

黙り込んだままの愛美に、不破が言った。

「私は、その答えを、あなた自身の胸に、はっきりと刻んで欲しいんですよ」

そんな必要はなかった。
その答えはすでに、愛美の心に刻ざまれているのだから…





  
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