白銀の風 アーク


第一章
第一話 予兆



アークは手のひらに載せた玉に魔力を込めた。

意志の力を注ぎ込まれ、玉はまばゆい光を発し始める。

アークは玉をじっと見据えているが、光と同化している彼は、眩しさを感じない

どこに飛ぶのかわからない期待感と高揚感、そして微かな恐怖に煽られて、みぞおちの辺りがきゅっと引き締まる。

一番参るのは、極寒の地とか、海原のど真ん中だ。

野蛮なラグ族やバッシラ族、獰猛な動物と相まみえることなど、彼にはたいした事ではない。

問題は、頭の中をからっぽにすることだ。

そうしなければ、知り尽くした場所に飛んでしまう。

彼が求めているのは、未知の世界、未だ誰も目にしたことのない場所だった。

珍しい植物や、動物、そして魔法。そんなものを我が目にし、我がものとしたい。

彼はこれまでに、かなりな成果をあげてきた。

そのことでは賢者たちはむろんのこと、聖賢者の地位にある、彼の父までも評価してくれている。

「アーク様、あまりご無体は…」

側で気懸かりそうに見守っていたウライが、おずおずと諫めるように言った。

そのため、空っぽの頭に、ウライの声が侵入してしまった。

アークは顔をしかめて顔をあげた。

「賢者ウライ。頼むから黙っていてくれませんか。何かに集中するのは簡単だが、頭の中を完全に空にするのは酷く難しいんですよ」

「ならばせめて、服を乾かしてからになされたら、いかがなものでしょう」

ウライの指摘に、アークはびしょぬれになっている自分の衣服に、いまさら目を落とした。

その拍子に、前髪の先から水滴がポタポタと落ちた。

言われてみれば気持ちが悪い。

今しがた海水に浸って来たばかりだった。

ずっぽりと海中に沈み込んでしまい、慌てて浮揚の技で浮かび上がったが、有り難くない塩水まで飲んでしまった。

アークはべたべたと張り付いている衣服ごと、ウライから手渡された桶で水を被った。

春とはいえ井戸水はかなり冷たく、彼はブルブルっと身を震わせた。

「そうだ。さっきの海は南方だったようだ。そんなに冷たくなかったな…」

「う、海…! アーク様」

ウライの顔が心配で歪み、アークは言葉を濁して頭の後ろを撫でた。

「危険などありませんよ。防御は万全ですから…」

アークは火の魔力から発した熱で全身を包んだ。

ややあって、身体から蒸気が立ち始め、全身が白い湯煙で覆われた。

そのとき、ウライの隣に緑のぼんやりとした光が立ち始め、アークは喜んだ。

これでウライの小言から解放されるだろう。

現れたのは、背が高く胴回りもかなりなウライの師、ポンテルスだった。

老齢の彼の歳をアークは知らない。

ただ、彼がアークの数多い知り合いの中で、もっとも長命だということだけは知っている。

ウライはかしこまって頭を下げ、師を迎えた。

そしてさっそくとばかりに、アークの所業について語り始めた。

ポンテルスはウライの愚痴に鷹揚に耳を傾け、白い煙に巻かれた様子のアークを見て、大らかに笑った。

「そう心配せずとも、アーク様は自分が何をなさっておいでかぐらい、理解しておられるに」

「ポンテルス様は気楽にお考え過ぎます。アーク様に何事かあれば…」

ポンテルスが神妙に頷いた。

「何が起こるやもしれん。それは世の定めよの。それだからとて、わしらに何が出来るというのじゃ。新たなことに挑むことも、新しい魔法を編み出す事も、後に聖賢者と定められしアーク様にとって、必要な事だからの」

ウライは何か反論したそうなそぶりだったが、黙ったまま口を噤んだ。

ポンテルスはあっさりと話を変えた。

「ウライ、ことは起こるべくして起ころうぞ。心せよ」

まるで世間話のように、笑みまで見せてポンテルスはそう口にしたが、言葉を受けたウライの表情には、極度の緊張が走った。

「…はっ」

「怖れは不要じゃ。鷹揚に、のう、ウライ」

ポンテルスはウライの肩から荷を降ろそうとでもするように、彼の肩を軽く叩き、すっと撫で降ろした。

ウライの固い表情はあまり溶けなかったが、その肩からは、いくぶんか力が抜けたようだ。

ポンテルスはウライに微笑んだ。

アークは、そのふたりの様子を、深く考え込みながら見つめていた。

何かが起こる…?

ポンテルスは大賢者だ。

彼は何か予知したのに違いない。

もっと先になれば、ポンテルスの言葉の意味もおのずとわかることだろう。

そう考えたところで、アークはポンテルスに腕を取られた。

「さあ、アーク様、参りましょうぞ」

ポンテルスは、アークの了解もとらずに片手を微かに動かした。

その瞬間、二人の姿は光に埋もれた。

その場には、取り残された白い蒸気が、束の間たゆたった。





木の根っこにどっしりと腰を落ち着けたポンテルスに、アークは向かいあって立った。

三本の巨木がちっぽけな二人を見下ろしている。

木の根が絡まり合い、織り成し遂げたポンテルスの風変わりな住まいは、何度訪れようとも、そのたびごとに人を圧倒させずにおかない。

「大賢者ポンテルス。私に何の用ですか?」

「予知者のもとへお行きなされい」

ポンテルスの言葉にアークは眉を上げた。

「誰の事です。マリアナ? キラタ、それともジェライドですか?」

アークは、この国でもっとも高名な予知者、三人の名をあげた。

「それはアーク様が選択なさらねば…」

「誰でも好きに選んでいいということかな?」

アークは、軽口を叩いた。

けれど、どちらも言葉の意味の深さを感じている。

「むろん。お好きになされい」

「わかりました。…ところで、何が起こるんです?」

「すでに理解しておられるはず」

アークは、口元に笑みを浮べた。

賢者達もだが、大賢者はさらに口にする言葉が少ない。

「よいことですか? それとも悪いこと?」

「それは、受け取る者の時と考えによりましょう」

アークは笑いを口に含めたが、思わずため息をつきそうにもなった。

大賢者との会話は精神に重く、疲れる。

普通の相手ならば、意識を放つことで相手の心を探ることもできるが、大賢者相手では、そんなワザは通用しない。

「分かった」

彼はポンテルスと視線を合わせた。

ポンテルスの眼差しから、いまはまだ理解不能な多くのものが読み取れる。

それらはアークの思考にばら撒かれた種のようなものだ。

いつか必要な時に発芽して彼を助けてくれるだろう。

アークはこのところ、何かに急かされているような、妙な落ち着かなさを感じている。

それが彼を、あの、ウライの言うところの無謀なテレポへと駆り立てていたのだ。

大賢者が、それがアークであっても、他者と意識を交わすことは稀なことだ。

何かとても重大な何か。が、起こるのだ。

それは数ヶ月先かもしれないし、数年、数十年先のことかもしれない。

そして、いまは予知者のもとへ…

アークはポンテルスに小さく頭を下げると、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

馴染んだ感覚から、テレポの玉を探り当て、彼は軽く握りしめた。

アークは予知者の顔ぶれを思い浮かべ、微かに聖なる光を、手の中の魔力に滲ませた。

「ル・シャラの恩寵と導きを…」

周囲で馴染みの光が渦を巻くなか、アークはポンテルスの微かな声を聞いた。






  
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