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第十一話 深夜の語らい
瞼に優しい銀色の光をあびて、アークは目を覚ました。
カーテンが開いている隙間から、光が長い線となり、眠っていた彼のところにまで届いたのだ。
聖なる地で眠りこけ、戻ってきたのは西の空が茜色に染まった頃だった。
ルィランは本来の職務に戻っていたが、ジェライドは彼が目覚めるのを待ってくれていた。
明くる日も聖なる地よりテレポすることになっている。
たっぷりと休養した身体は、もう眠りを必要としていない。
開いた目に月明かりがまばゆく、彼は上体を起こしてベッドから足を下ろした。
その足元をも月光が照らす。
アークは立ち上がると、窓辺に寄ってカーテンを大きく開け放った。
月は神聖な光を宿し、全てのものに公平にその光を分け与えている。
下を見下ろすと、庭の木々の葉に反射した月の光が、星のようにキラキラと瞬いており、少し視線を上向ければ、シャラドの街灯りが見える。
聖なる館やシャラティー宮殿など、シャラドの重要な建築物は全て、町よりも小高い位置にある。
いつもながらに美しい光景だとアークは感嘆した。
彼はこの幻想的なシャラダムの夜景をとても愛している。
ゼノンの力が強大な今、カーリアン国内外でも大きな戦の予兆はなく、平穏な日々が続いている。
激しい魔法戦争が起こり、動乱の世を極めたのは、今からおよそ三十五年前、ゼノンの亡き父、つまりアークの祖父の魔力が歳とともに衰えた時期だった。
祖父はなかなか子宝に恵まれず、かなりな老齢の頃にゼノンは生まれたと聞く。
まれにみる強い魔力を授かっていたゼノンは、幼くして、父親とともに魔力荒れ狂う戦場に向かわなければならなかった。
ゼノンの力を得た聖騎士団の力は増強し、カーリアン国全土を蹂躙していた二年もの長き戦いは、あっけないほど簡単に幕を下ろしたと歴史には記されている。
その戦ののちに生まれたアークを含めた若者達には、それほどの大戦がこの国内で起こったとは実感出来ないくらい、今のカーリアン国は富み栄え、戦場の跡などどこにもとどめていなく見える。
騎士団の若者たちの中には、不謹慎にもこの平和を物足らなく思っているやからも少なくない。
彼らは厳しい鍛錬を積み磨き上げた自分の力が、時折羽目を外す野蛮な種族を抑え込むだけに使われるのでは、満足できないらしいのだ。
夜景を愛でていたアークは、庭に現れた光に目を向けた。
光は人形となり、アークを見上げ、誘うように手招いた。
ゼノンだ。
開いた窓から外へ出ると、アークは身体を浮かせ、ゆっくりと下りていった。
父親の傍らに立ち、彼が少し頭を下げると、ゼノンは片手を軽く上げた。
無言のまま歩き出したゼノンに、彼は歩調をあわせてついて行った。
五分ほども歩いたろうか、沈黙を守っていたゼノンが、咲き誇る見事な花のなかでアークと視線を合わせてきた。
ここは母サリスが自ら世話をしている花園だ。
大輪もあれば、はかなげな小花もある。
手入れの行き届いた花々に母の愛が溢れているのを感じる。
ゼノンは白く清い花を手で揺らし、いたわるように手のひらに包んだ。
花びらがレースのようにふわふわと揺れる。
「サリスは花を愛しんでいる。お前の母は、花の中で暮らしていた」
過去を懐かしむようにそっと口にされたその言葉は、アークに向かってというより、父の内面に向かってのもののように感じられた。
花の中央の桃色の花弁を見つめ、ゼノンは目を閉じて短く嘆息した。
「私は、戦乱の世に生まれ、そのただ中で育った」
話の内容に、いささか驚きを持って、アークは父を見つめた。
ゼノンは見つめている花びらの一枚を、そっと人差し指で撫でた。
父の目は花に向いているが、意識は心の中に向けられ、何か一心に思い巡らしているようだった。
しばらくして、父はようやく顔を上げてアークに振り返ってきた。
「お前は祖父を知らぬ、お前が生まれる前には他界していたからな…」
頷いたアークを見つめ、ゼノンは息を吐き、静かに語り始めた。
「父は…お前の祖父は若い頃、ある娘に惹かれた。けれども娘には愛する若者がおり、娘はその若者と結婚した。若者は父の親友だったのだ。父にはその娘の他に愛する女が現れず、いつまで経っても妻を娶ることをしなかった…。聖なる力が途絶えると、周囲はどれほど気を揉んだことだろうな…」
ゼノンの口の端に苦い笑いが浮かんだ。
その笑いは、父自身が聖なる力をいくぶん煩わしく思っているためだろう。
それはアークとて同じことだ。
聖賢者は国王よりもはるかに自由がないと言える。
国王の血筋を引く者は遠縁まで入れるとかなりの人数存在するが、聖賢者と定められし者は、聖なる力を宿していなければならぬのであり、血筋が途絶えたからといって、替わりの者に任せられるものではないのだ。
またその力ゆえか、代々、息子一人ずつしか生まれない。
この世の中でまったく異質な存在であり、希有な運命を持つ者、それがゼノンとアーク、聖なる血を受け継ぐ者なのだ。
「やがて娘と親友は子どもに恵まれた。男の子ばかり二人だ。そして時は巡り、その長男が愛するものを得て結婚し、一人の娘を授かった。その時…父はすでに四十三だった。娘が成長するに従って…父は自分の愛する女が、本当は誰だかを悟ったのだ」
吟遊詩人でも歌人でもないゼノンは、淡々と、あまり感情を交えずに語る。
けれど、それらの言葉には言いしれぬ父の思いが感じられた。
「母が十六になったとき…父は自分の思いを彼女に告げるつもりなど無かったのに、それに気づいた賢者たちは、娘に父の妻になるように無理強いした」
アークは、落ち着かない気分に囚われた。
彼もまた、祖父と同じく聖なる血を受け継ぐ者。
正直、祖父のような人生を、彼は歩みたくない。
「無理もないことだと思う。聖なる血が途絶えるのを、賢者と呼ばれしものたち全てが恐れていたのだから…。お前も知っている通り、【聖なる血途絶えし時、世は災いに満ちる】と、古文書に印されている」
「え、ええ」
アークは口ごもるように答えた。
父が祖父の恋愛についてアークに話そうと考えたのは、アークが夢で女を見はじめ、そして彼が女を探しはじめたからに違いない。
「それで、娘は…祖母は?」
もちろん、最終的にふたりは結婚したはずだ。
「娘は老人との結婚に泣き、父は娘の心を思って苦しんだ。だが、彼女を自分のものとしたい欲望と、古文書の予言に翻弄された賢者たちの姿に、結婚を承諾した…」
アークは思わず「あ…」と、不明瞭な呟きを漏らしてしまい、それで父の語りを中断させてしまった。
ゼノンは黙ったままアークの言葉を待った。
彼は話を中断してしまったことを悔やみながら、言葉を挟んだ。
「娘は、娘の気持ちは…?」
「娘の気持ちなど取り沙汰されはすまい。この場合、必要なのは聖賢者の気持ちだけ…だ」
アークは、気分が悪くなった。
賢者達に強制されての結婚…
まだ十六だったという娘…祖母が気の毒に思えてならなかった。
「…理不尽だな」
ゼノンは「まったく」と呟き、しばし黙り込んだ。
「私が生まれたのは、父母の結婚後五年も経ってからだ。父は、自分を愛していない娘に、手を出すつもりは更々なかったのだろう。ようやく結婚してくれたというのに、なかなか子宝に恵まれず、賢者達はまた、どれほど気を揉んだだろうな」
ゼノンは小気味よさそうにくすくすと笑った。
そのような種類の笑いを父の顔に見たことのなかったアークは、さりげなく小首を傾げて、父の笑い顔に見入っていた。
そんな彼にゼノンはさっと眼を向け、咄嗟に気まずい表情をしてしまったアークに、愉快そうに微笑んだ。
悪戯を見咎められた子どものような気分がした。
アークは対処に困って肩を竦めた。
「父は…娘をゆるやかに愛し続けた、二年が過ぎ、娘が十八になった時、彼女は初めて愛というものを知ったという。父が亡くなった後、母が私にそう語ったのだ」
話の成り行きに、アークはほっと息を吐いていた。
祖父は無理やりな結婚を年若い娘に強制することになったとしても、自分の欲望を無理強いしたりしなかったのだ。
そして、祖母が祖父を愛したという事実は、彼に深い安堵を感じさせた。
「ふたりの…この私を入れて三人か…、幸せな時は戦に見舞われ、長くは続かなかった」
アークは、父と目を合わせて相槌を打った。
幼くして戦に巻き込まれることになった父は、口に出来ぬほど辛い思いをしたに違いない。
「大戦になったのは私が九つの頃だが、不穏な動きやいざこざはかなり前から起こっていた。…賢者たちの予知により、私は物心ついた頃から魔力の修練を積み、予知された戦に備えねばならなかった。修練は早朝から深夜に及び、幼い者にはかなり過酷な時だった」
アークは胸に、よじれるほどの痛みを感じた。
幼い父の苦しみが、まともに伝わってくるようだった。
戦に向き合わされ、魔力の修練を余儀なくされた幼き人生。
この父に過酷と言わしめた時が、どれほどのものだったのか…
想像もつかないほど、悲惨なものだったに違いない。
「…母とまみえる時間は、ごく限られたものになった」
ため息のように父はその言葉を口にした。
哀しげで、苦悩が目で見えるかのようだった。
花に目を向けていたゼノンが顔を上げ、アークを見つめてきた。
「アーク、場所を変えよう。穢れを知らぬサリスの美しい花々に…これから語る話を、聞かせたくない…」
ゼノンがすっと手を伸ばしてきて、アークの肘を取った。
ふたりの姿は、音もなく消えた。
アークの身体が触れていた花びらが、静かに揺れた。
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