白銀の風 アーク

第二章

第一話 ミステリー



「いいかい。今度こそ絶対に、女を見つけて来るんだよ」

「女、女、どうしてそう女に拘る」

ジェライドが口にする度に、女と言う言葉が彼の心を逆撫でる。

大賢者の務めとして、彼に女を捜させようとしているように聞こえて、アークは複雑に苛立った。

「先に進まないからだ。見つけない限り、何も起こらないんだよ」

「何も起こす必要はないんじゃないか。起こらない方が良いとは思わないか?」

「起こるよ、必ず。君はつむじを曲げて、事態を最悪のものにするつもりなのかい」

「それは閃知か?」

アークは嫌みったらしくジェライドに聞いた。

「何を怒ってるんだ?」

アークは憤りを玉へ、彼を憤らせている根源の、夢の女へとぶち込んだ。





「ねえ、ケーキ食べに行かない」

松見(まつみ)由美香(ゆみか)の誘いに、一列に並んで歩いていた柏田(かしわだ)沙絵莉(さえり)野々垣(ののがき)泰美(やすみ)は、対照的な表情で由美香をみた。

今日は金曜日、講義も終わり、大学構内を三人つるんで帰っている途中だ。

「私がバイトだって知ってて、そういうこと言うの?」

膨れっ面で泰美が言った。

「あら、泰美には言ってないわよ。沙絵莉に言ったのよ」

それを聞いて、泰美はいっそうむくれた。

「だってね、今日開店で、三日間だけ粗品がつくの。今朝の広告に載ってて、それがうちのすぐ近所だったのよ」

「粗品って」

泰美が勢い込んで聞いた。

「それがなんと、ティースプーン。陶器のやつで、先端に花が付いてるの。チラシで見る限り、結構良かったよ」

「ならさ、ならさ、明後日の朝にしてよー。私、昼から用事があるんで、バイト休みなんだ。三日間やってんでしょ?」

「私も明後日の方がいいな。これから図書館に行かなきゃならないの。リクエストしてた本が来てるって、連絡あったから」

「またぁ」

ふたりは呆れたように声を合わせた。

わざと頬を大きく膨らませた沙絵莉は、ぷっと吹いた。

「そう、また」

そう口にして微笑んだ沙絵莉の横を、背の高い男性が追い越し、追い越し際こちらに振り向いて足を止めた。

笹野(ささの)貴之(たかゆき)だった。

沙絵莉は心もち身を堅くして彼の出方を待った。

笹野は口を開いて何か言いかけたものの、そのまま口を閉じ、それから由美香と泰美に一瞥をくれ、視線を曖昧に揺らして「さよなら」と言うと、かなりの速さで歩み去ってしまった。

「あーあ、今日もあんたは勇気が足りなかったねー。笹野ー!」

彼の後ろ姿が視界から消えたところで、泰美がやたら感慨を込めて叫び、由美香もまた少々芝居がかった感じで嘆かわしげに口を開いた。

「まったくよ。あれだけの男はそういないってのに。なんであんなに臆するかな」

ふたりは、笹野が沙絵莉に好意を抱いていると考えているのだ。

いまのようなことがすでに数回あり、そのたびにふたりは…笹野にとっては余計なおせっかいだろうと思うが…憐れみを込めて、溜息をつきつつ、似たようなことを言う。

要するに、彼女らはただ面白がっているに過ぎないのだ。

笹野の真意など誰にも判らないのに…

本当のことを言えば、笹野の容姿も性格も悪い感じではないし、もしも誘われたとすれば、デートに応じてしまう…かも知れない。

初めてのデートの相手としては、悪くない相手だと思えるし…

実は、沙絵莉にはまだ男性と付き合った経験がなかったりする。

告白されたことがないわけじゃないが、告白されたからと言って付き合うことになるわけじゃないわけで…

それでも、十八にもなっていまだデートの経験値がゼロだなんて、恥ずかしくて誰にも知られたくない。

もちろん、仲の良い友達にはなおさら…

笹野は爽やかな印象のひとだし、沙絵莉の意志を無視して馴れ馴れしく肩など抱いてきたりもしそうにもない。

夢見がちな乙女の哀しさで、沙絵莉は初めてのデートに無謀な思い入れを抱いている。

たとえば場所。

春ならば、桜並木がどこまでも続く川べり、春風にそよいだ枝々から妖精の使いである桃色の花びらが、はらはらと舞い降りてくる中を、つかず離れずの距離を保ち、二人は肩を並べてひたすら歩く…とか。

森林公園の中、さやさやと若葉のそよぎに上を仰ぎ見ると、葉と葉の間にまぶしい光がきらきらと輝いていたりする。歩くふたりは言葉少なで、無言の中にもお互いの気持ちが伝わってきて、語る言葉の必要を感じない…とか。

間違っても、昨日の夕ご飯のおかずはなんだったかとか、夕べのテレビ番組で、腹を抱えて笑っちゃったよーとかの、実生活のリアルさをさらけ出すような話題はいっさいのぼらないのだ。

「笹野が沙絵莉を好きだってこたあ、みんな知ってるよ。あいつってさあ、言葉数少ないわりに、行動があからさますぎるんだよね」

「そうそう。授業中、沙絵莉のこといっつも見てるしさ」

そんなことを聞かされると、頬がむずがゆいってか…

沙絵莉は顔を歪め、今度からなるべく笹野よりも後ろの席に座ろうと決めた。

「誘うぐらいのことしてみればいいのにさ。だけどさ、そしたら、沙絵莉、デートする?」

「あ、あのねぇ…そんなことわかんないわよ。誘われたわけでもないのに…」

「心配ないよ。やつはいずれ、勇気掻き集めて、誘ってくるって…」

「別に心配なんてものしてないし…」

「あんたの気持ちは、ちゃんとわかってるっちゃ」

沙絵莉の言葉をどう受け止めたのか、由美香はニタニタしつつ肩を叩いてきた。

分かっているとは言い難き友に、彼女は困った笑みを返した。

駅に向かうふたりと、沙絵莉は途中で別れ、自転車置場に向かった。

まだ三時をちょっと過ぎたばかりで人通りの少ない道を、自転車を漕いで図書館に向かう。

自動ドアから中へ入ったそこは、広いロビーになっていて、沙絵莉は座ったことはないが大きめの水色のソファが置いてある。そして、その壁際にはずらりと週刊誌や雑誌が並んでいる。

祖父くらいの年代の男性がひとり座っているのを目にして、沙絵莉は微笑んだ。

話したこともない相手なのだが、同じ場所に座っている姿をいつも見ているせいで、まるで知り合いのような気がする。

ロビーをつっきり、沙絵莉は階段を上がっていった。

二階へと上がった目の前に受付があり、彼女は借りていた本を返却し、リクエストしていた本を借りる前に、書棚の間をうろうろと歩き回った。


図書館から出た彼女はスーパーで食料品を買い、お気に入りのパン屋では朝食用のパンを調達し、いまの沙絵莉の我が家であるアパートに帰った。

昨年の暮れに新築されたばかりのアパートだから、どこもかしこも真新しい。

1LDK。南側のキッチンがある部屋は十四畳。この部屋は勉強部屋と居間を兼ねている。

北側に六畳間があり、そこは寝室だ。セミダブルのベッドにしたものだから、六畳はベッドでいっぱいだが、クローゼットの他に、三畳ほどのウォークインクローゼットもあって、これがとても重宝している。

約二ヶ月住んだところだが、とても住み心地の良い部屋だ。

沙絵莉は、あらためて父の仕事を尊敬してしまった。と言うのは、このアパートを建てたのは彼女の父である、野崎(のざき)周吾(しゅうご)の会社なのだ。

父は親の代からの家業を継いで建設業を営んでいる。かなりうまくいっているらしい。

ここの家賃は彼女の父親が支払ってくれている。

このアパートからだと彼女の大学まで自転車で通えるし、母親の住まいからもさほど遠くないからと、両親が二人して相談して決めたのだ。

とはいっても、両親はずいぶん昔に離婚しているのだが…

父親は離婚後すぐに再婚している。そして母親のほうは、ずっとひとりでいたのだが、四ヶ月ほど前に再婚したところだった。

彼女も少しの間、再婚相手の家に同居していたが、大学に入ったら一人暮らしをさせて欲しいと頼んだのだ。

沙絵莉が一人暮らしすることを、母親はひどく嫌がったが、彼女の決心が固いことを知ると、渋々許しをくれた。

その代わりに、このアパートに住むことと、バイトはしないということを約束させられた。

おまけに九時の門限までついている。

食料品を冷蔵庫に入れている間に、携帯に電話がかかってきた。

母からだった。
明日はどこかで落ち合って、一緒にショッピングでもしないかという誘いだ。

彼女は気軽く返事をして電話を切ったが、実のところひさしぶりの母との買い物は、楽しみでならなかった。

図書館で借りた本に没頭していると、今度は父から電話があった。

「お父さん。何?」

「明日は、暇かな?」

彼女の父は、口ごもるような話し方をする。一言一言を区切って、ぼそぼそ語る。

「明日は、お母さんとショッピングすることになってるけど」

「ほんの、一、二時間で、いいんだが」

「何の用事?」

「ああ、いや、少しばかり……話があって」

沙絵莉は首を捻った。

いつもよりも、かなり歯切れが悪い。なにかよほど言いにくいことなのか?

「お母さんとは十一時に約束してるの。その前でもいい? 明後日は友達と約束があるから…」

「お前がよければ、私の方は都合をつけるが」

沙絵莉は、父親に十時に迎えに来てもらい、母親との約束の場所まで連れていって貰うことにして、車中で父親の用件というのを済ませてもらうことにした。

ベランダに出て洗濯物を取り込んでいると、下の階の奥さんがにゅっと顔を突き出し「ねえねえ」と声をかけてきた。

彼女は内心唸った。
この奥さんは、人はいいのだがお喋り好きで、一度つかまるとなかなか離してもらえない。

よほどいいことでもあったのか、わくわくした顔は光り輝いて見える。

「コスモス街道でのこと、聞いたー?」

沙絵莉は眉を上げた。

コスモス街道というのは、コスモス団地という名の新興住宅地を建設したときに、市が道端にコスモスを植えたことから、そういう名で呼ばれている道だ。

秋になればさぞ綺麗なのだろうが、いまはまだコスモスの姿はどこにもない。

街道は沙絵莉の大学への通り道。

「何か酷い事故でもあったんですか?」

彼女は眉をひそめて聞き返した。

「そういうことじゃないの。ミステリーよ。現代のミステリー」

「は、はあ、ミステリーですか。現代の…」

「そうなのよっ! あそこで人が消えたんですって。パッとよ。信じられるー?」

しゃべりながらどんどん興奮してきたようで、声がうわずっている。

まったく信じられませんと思ったが、口には出さなかった。

だが、沙絵莉の表情を見た奥さんは、うんうんとしたり顔で頷いた。

「信じられないでしょう。私もまさくんのお母さんに聞いたときには信じられなかったの。でも、花田のおばちゃんが、息子さんがそれを生で見たって言うじゃないの。ただの噂じゃなかったのよ」

まるで彼女が知ってて当然のように口にされたまさくんのお母さんも、花田のおばちゃんも、沙絵莉は知らない。

「かなりの人が目撃してるんですって。コスモス団地はいまそのことで大騒ぎなんですってよ」

「その消えた人って、誰なのか、分かってるんですか?」

「ううん、日本人じゃないの。服装もかなりへんてこりんだったらしいし、宇宙人だったりするんじゃないの」

宇宙人! ときたか。

「私も見てみたかったわー。人が消えるとこなんて、そうそうお目にかかれないわよねえ」

それはそうだろう。

「その消えた人、どこにいっちゃったんでしょうね?」

「さあねぇ、宇宙人だとすると。地球のあちこちを観光して回っているんじゃないかしらね」

そう言って、愉快そうに声を上げて笑う。

どうやら、真面目に口にしているわけではなく、面白がっているだけのようだ。

それでも多少の信憑性があるものだから、信じられなくても、話に熱が入るのだろう。

そして噂というのは、尾ひれがついてどこまでも大袈裟になるものだ。

「その人ね、銀…」

「ママー、おやつー」

幼稚園の坊やに救われたようだ。

奥さんの関心はとたんに坊やに向けられた。

「みっちゃん、おかえりー」

声を張り上げた奥さんは、「じゃあね」と一方的に会話を打ち切り、顔を引っ込めた。

人が消える? 

馬鹿馬鹿しい。

沙絵莉は、くすくす笑いながら、取り込んだ洗濯物を手に部屋の中に戻った。






   
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