白銀の風 アーク

第二章

第二話 心に空しき響き



約束の時刻より少し早く、父親の車はやって来た。

「お父さん、おはよう」

そう声を掛けながら車に乗り込んだ沙絵莉に、周吾は「ああ」と頷き、すぐに車を走らせた。

「話って?」

数分待っても黙ったまま運転し続ける父に、沙絵莉は自分から話しかけてみた。

いったいどんな話なのか、父は言い難そうに口ごもっていたが、ようやく話し始めた。

「その…、五月の第二日曜…」

そう口にした周吾は、沙絵莉にチラリと視線を向けてくる。

その言葉から、内容を汲んでくれはしないかと切望しているような表情だ。

五月の第二日曜といえば、母の日だが…

「母の日よね?」

「そ、そうだ」

父の返事に、沙絵莉は眉を上げた。

「母の日が、どうかした?」

「…実はその…貰えないかと思ってな」

父の言葉を頭に入れた沙絵莉は、意味を理解して身を固めた。

「安いものでいい。気持ちでいいんだ」

前を向いたまま、そう話を付け足した父は、さっと沙絵莉に視線を向け、「頼む、美月に…」と言いかけた言葉を止めた。

無表情な娘を目にした周吾は、顔を強張らせ、視線を戻した。

「私、岡本さんをお父さんとは呼ばない…。私のお父さんは、お父さんだけだから」
口にしながら胸が震え、沙絵莉は唇を噛み締めた。

車内にいたたまれない空気が流れはじめ、沙絵莉は暗い気分に陥った。

沙絵莉の両親は十三年前、彼女が五歳のときに離婚した。

いま、父の妻となっているのは、父の幼馴染みで父より三歳年上の美月。
そして、母が昨年結婚した相手のひとは、母の大学の恩師だった、いまは亡き岡本秀一郎氏の次男、岡本俊彦。

「母さんも一人よ」

その言葉を口にした途端、目尻に涙が湧いた。

父親の気まずげで哀しげな表情に心が苦しい。

取るに足りないことに拘り、無意味に父を苦しめているようで、自分がひどく浅はかでわがままな気がしてくる。
けれど、自分を間に挟んだだけでも、両親には繋がりを保っていて欲しい。

美月を母と認め、俊彦までも父と認めることは、父と母の繋がりを完全に断ち切ってしまうような気がするのだ。

それは、とりもなおさず、彼女の心の平衡を崩してしまうことになる気がする。

沙絵莉は強ばったままの父の口元を目にして、心重く、流れる景色に目を向けた。

プレゼントをするくらい、いいじゃないかと、沙絵莉は心の中で自分に問いかけた。

「美月は…口にはしないが、お前のことを娘と思いたがっているんだ。私達には他に子どもがいないからね。お前と買い物に行ったり、作ったケーキを食べて貰ったりしたいと…」

父のその言葉に、強烈な怒りが突き上げた。

「それじゃ、もし子どもがいたら…私は必要じゃないわけ?」

「さ、沙絵莉」

「美月さんとの間に子どもが生まれてたら、私なんてどうでもいいってこと?」

「そんなわけ、ないだろ」

慎ましやかに叱る口調で父は言った。

実の娘に対して、叱る言葉までも遠慮がちなことは、更に沙絵莉を苛立たせ、虚しさを増幅させる。

彼女は大きく息を吸い、平常心を取り戻そうとした。

父に相対すると、いつでも彼女は無性に苛立つ。
その苛立ちが哀しく、いとわしくてならない。

父の考えと彼女の思いとは噛み合わず、お互いがお互いを理解できないまま、会う度に同じことを繰り返している気がする。

「私はお前を大切に思ってる。美月との間に子どもが出来ていたとしても、それは変わりようがないさ」

父親の言葉は口幅ったく聞こえ、沙絵莉は両手を痛いほど握り締めた。

父は諦めたのか、それ以上この話題を口にしなかった。

小遣いは足りてるかとか、欲しい物はないのかとか言い、答えない沙絵莉に溜息をついて押し黙った。

車から下りるとき、父は「すまなかった」と口にして去った。

その一言は、彼女の心を逆撫でした。

沙絵莉の胸は、血がにじみそうなほどヒリヒリした。

彼女は歩道の隅に駆けて行き、俯いて唇を噛み締めた。

ポタポタと零れ落ちる涙が、路面にしみを作った。

父も母も、いま手にしている愛を大切にして生きていけばいい。

私は…私は…

沙絵莉は痛い笑みを浮かべた。

「馬鹿…みたい…」

小声で呟きながら振り向いた沙絵莉は、ぎょっとして後ずさり、後ろにあった看板に後頭部をぶつけて、ゴンと大きな音を立ててしまった。

通りすがりらしい外人の男性が、無様な彼女をまじまじと見つめている。

後頭部はかなり痛かったが、彼女は痛さよりも恥ずかしさに頬を染めた。

相手の瞳が、彼女の頬の涙を捉えていることに気づいた彼女は、慌てて手の甲で涙を拭い、小さく会釈してその場から逃げた。

ああ、びっくりした。

いったい何処の国の人だろうか?

銀色の髪も、不思議な色合いの瞳も、これまで目にしたことがない。

それにしても…

男性の顔を、頭に思い描いた沙絵莉は、いまさらドギマギした。

信じられないくらいハンサムな人だった。

もしかしたら、来日している有名な映画俳優だったりするのではないだろうか?


待ち合わせの喫茶店の中に、沙絵莉に向けて手を上げている母、亜由子の姿を見つけ、沙絵莉は手を振り返しながら歩み寄っていった。

母は一人ではなかった。俊彦の姪の陽奈も一緒だった。

陽奈は俊彦の弟の娘だ。

実は三年前、俊彦の弟夫婦は、娘の陽奈と父の秀一郎の四人で同乗していた際、トラックに正面衝突されるという無惨な事故に遭い、父親の秀一郎とともに他界した。

奇跡的に無事だった陽奈は、事故直後から俊彦が引き取っていて、いまは亜由子が母親代わりとなり一緒に暮らしている。

陽奈はパフェ相手に奮闘の真っ最中だった。

父と母を幼くして亡くした陽奈。

彼女を見ると、沙絵莉は両親のことでうじうじと考えてばかりいる自分が恥ずかしくなる。

「陽奈ちゃん、おいしい?」

彼女の呼びかけに、陽奈は顔を上げ、パフェを口いっぱい頬張ったまま、顔をほころばせた。

そして、急いで口の中のものを飲み込んだ。

「沙絵莉お姉ちゃん。うん」

あどけない笑みに、沙絵莉の心が温まる。

沙絵莉はソーダ水を頼み、母と向き直った。

「何を買うの」

「沙絵莉は…」

「私は…そうね、ティーカップが一つ欲しいかな」

「そう、なら、アリス館に行ってみない?」

沙絵莉は同意して頷いた。

そういえば、アリス館はこの近くだった。安いものから高価なものまで品の幅が広く、贈り物を買うのによく通う店だ。

「アリス館なら、陽奈ちゃんの新しいお弁当箱も買えるしね。陽奈ちゃん、沙絵莉お姉ちゃんに、選んで欲しいのよね?」

亜由子の言葉に、陽奈は「うん」と上下に大きく頭を振り、あんまり勢い込んで振ったので、パフェの器をおでこでコーンと突いてしまった。

前に座っていた沙絵莉が反射的に受け止めて倒さずに済んだが、陽奈のおでこにはチョコのクリームがべったりとついてしまい、三人は思わず「あっ」と声を合わせた。

自分の失態に陽奈が涙ぐみ、亜由子はおしぼりでおでこを拭いてあげながら陽奈を慰めた。

十年前に自分がいた場所には、いま陽奈がいる。

そんな哀愁が湧いたが、それも微かなものだ。
自分はチョコレートパフェに頭を突っ込んで泣くような歳ではないのだから…

そう思った沙絵莉は、先ほどの父との対話を思い出して沈んだ気分になった。

あれは、仮にも大学生の取る態度ではなかった。

それでも、ああいう態度をとってしまうのは、父の言葉の端々から、父にとって一番大切な人は、美月なのだと思い知らされるからだ。

私ってば、ほんと、わがままだ…

父の一番でありたいと望み、そうできないことに苛立ち、父を困らせて気を晴らそうとしてる…わたし、最低だ。

ほんと、馬鹿みたい…

沙絵莉は、またチョコレートパフェに挑みだした陽奈をみて微笑んでいる母をみやった。

母の思いを一番に受けているのは、やはり沙絵莉ではないだろう。俊彦に違いない。

無意識に、陽奈と自分を並べて比べている自分に気づき、沙絵莉は苦笑いした。
なんて愚かしい比較だろう。

結局、と彼女は思う。

自分は誰かの愛を得たがっているのだろうか?

他の誰でもなく、彼女一人を一心に愛してくれる人を得たいと…願っているのだろうか?

沙絵莉はソーダ水をストローで掻き回した。

カラカラと軽い氷の音が響く。

彼女は美月のことを嫌ってはいない。

美月は優しいいい人だと判っている。

それだからといって、母と認めることとは話が違う。

沙絵莉はソーダ水の残りを飲んだ。

ソーダ水のなくなったグラスには、捨て去られるだけの氷が虚ろに光っている。

彼女は意味もなくストローでかき混ぜた。

カラカラと乾いた音は、彼女の心にひどく空しく響いた。





   
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