白銀の風 アーク


第一章
第二話 大賢者キラタ



足の裏に固い感触を感じ、それとともに視界もはっきりしてくるはずだった。

けれどいつまで待っても、視界は白く霞んだままだ。

アークは眉をひそめ、目の前の風景に目を凝らした。

微かな水音、そして湯気のたつ水面…

しまった!と思った。…だがもう遅い。

せめて礼儀上くるりと背を向けた。

「アーク、あなたってば、なんて人なの!」

噛み締めた唇から漏れた声は、いかなアークでも怯えるほどだった。

「ポンテルスが、予知者の元へ行けと言ったんだ」

アークは後ろ向きのまま、言い訳を口にし、肩を竦めた。

その彼の仕種は、さらにマリアナの怒りを煽ったようだった。

アークの知る高名な予知者のひとりであるマリアナは、国王の姪であり、彼の幼馴染でもある。

世間では、たおやかで美しく、優れた予知者として知られている彼女なのだが…

「それが、夜更けにひとの浴室に忍び込む理由になるとでも思って?」

凍えるような冷たい声に、アークは顔をしかめた。

「まさか君が、風呂に入っているとは、つゆほども思わなかったんだ」

背を向けたまま、彼は言い訳を重ねた。

「もういいわ!」

最後通牒のようにマリアナの声の凄味が増し、アークは口を閉じた。

「出て行って!」

「今すぐに。姫様」

アークは殊勝な声でそう言うと、出口まで大股で歩き、扉の取っ手を掴んだ。

彼が扉に手を掛けた瞬間、マリアナが「あっ」と小さな声で叫び、アークは扉を開けながら彼女に振り返った。

「どうかしたのか? マリアナ?」

「馬鹿!」

何事かあったのかと声を掛けたのに、彼女から返ってきた言葉にアークはむっとした。だが…

「キャーーッ!」

複数の女性の悲鳴に、彼はぎょっとして視線を前に向けた。

風呂場の外の部屋には、マリアナの侍女が数人いた。

彼女達は、主があがってくるのを待っていたらしい。

自分たちが仕える姫君の入っている風呂場から男がのこのこ出てくれば、驚愕して叫ぶのは当然だろう。

だが、アクシデントには慣れている。

「何がありましたか!?」

彼女たちの悲鳴に、外で待機している警護の者が、ドアを叩きながら叫びはじめた。

ずいぶんな騒ぎになってしまった。

彼はずっと手にしたままだった玉に力を込めた。

「マリアナ、また来る」

視界がぼやける直前、アークは「あなたの顔など…」という尻切れトンボのマリアナの声を聞いた。


視界が晴れると、アークは用心深く辺りを眺め、そしてほっと息をついた。

ここは大賢者のひとり、キラタの質素な住居だ。

玄関ホールに佇んでいたアークは、キラタの気配を探した。

思ったとおり、彼は気配を消すこともせず、いつものように書斎にこもっているようだった。

キラタは、すでに、アークの訪問を知っている。

彼は扉をノックし、しわがれた唸るような返事をもらって部屋の中に入った。

山になって崩れそうな書物の合間に顔を埋め、キラタは書き物をしていた。

目の前に歩み寄っても、キラタは顔を上げなかった。

アークは空いた椅子を勝手に引き寄せて腰掛け、キラタの書き物が終わるのを待った。


「躊躇しておったら、事は始まらぬぞ。アーク」

ややあって、顔も上げずにキラタが言った。

聖賢者を父に持つアークを呼び捨てにするのは、彼くらいのものだ。

「躊躇なんて私は…」

アークは不服を込めて言いかけた。けれど、キラタの小馬鹿にしたような声にさえぎられた。

「怖がっておるではないか。小心者よの」

アークは憤怒が湧いたが、心の中で、なんとか自分をなだめることに成功した。

「事を起こせ。時を見過ごすな。課せられた使命とわかって果たさぬは愚かものぞ」

「お言葉ですが、私はすでに動いています」

「ほお」

せせら笑いを含んだ相槌に、アークは屈辱感に囚われた。

「夢をおろそかにしておるは、お前だと思ったが…ワシも焼が回ったようだな」

アークはぐっと歯を食いしばった。

「お前ごときが、わしらの未来の聖なる者とは…」

アークを赤面させるに充分なあざけりを込めて、キラタは淡々と呟いた。

「あの女が、どれほど重要だというのです?」

怒りが増したアークは反抗的に言い募った。

「いらつくのは余所でやれ。小僧、もう行け。話は終わった」

ざらついた声にはなんの感情も含まれていなかった。

そのせいで、なおさらアークは、たまらないほどのもどかしさを感じた。

「いったい何者だと…」

「気づいておるのだろう? 認めたくないばかりに、そしらぬふりをするとはな…」

キラタが人差し指を立てたと分かった瞬間、アークはその場から違う空間に飛ばされていた。






   
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