白銀の風 アーク

第三章

第一話 無意識の言葉



「あー、あの」

大学の食堂内、沙絵莉の後方からやってきた笹野は、彼のお弁当らしい包みを沙絵莉の右側に置くと、立ったまま話しかけてきた。

まるで、彼女がミックスサンドを、口一杯に頬張ったのを見計らって話しかけてきたのではと、疑いたくなるタイミングだった。

ほとんど薄れているものの、いまだ瞼裏から消えない映像のことが頭を占めていた彼女は、突然の呼びかけに驚き、膨らんだほっぺたのまま笹野に振り向いた。

沙絵莉の前に座っている由美香と泰美は、笹野から沙絵莉に視線を移した後、何気なさを装い、自分たちの食事に集中するふりをしはじめた。

慌てた沙絵莉は、顔を伏せるようにして口の中のものを噛み砕いたが、その最中に笹野が早口で話しはじめた。

「き、昨日は、その、偶然だったね。あんなところで会うなんてさ。僕のアパート、あの近所なんだ」

笹野に対して、返事をすべきだろうが、口の中はいっぱいで、とても返事などできない状態だった。もちん吐き出すなんて出来ないし、沙絵莉は焦りつつ必死に口を動かした。

由美香と泰美も、早く返事をしろと無言で急かしてくる。

だが、笹野は沙絵莉を見ているに違いなく、ムシャムシャ口を動かして食べるなんて、乙女としてはできない。おかげでなかなか飲み込めなかった。

笹野も、少しは話しかけるタイミングを選べばいいのだ。相手の様子を見て、配慮するとか…

口の中の物を、彼女が処理し終わるまで待っていてくれても良さそうなものなのに、笹野は笹野でテンパッテでもいるのか、沙絵莉の返事を聞かぬうちに、更に早口で言葉を付け足した。

「話があるんだ。少し時間もらえるかな?」

「わおっ、言った」

泰美の、思わずといった小さな叫びに、笹野は赤くなった。

沙絵莉は必死に飲み込みつつ、なんと返事をしようかと悩んだ。

ようやく口の中を空にした沙絵莉は、答えを決めないまま笹野に視線を向け、ドキリとした。

笹野の表情は、覚悟を決めた者のように強ばっていた。

「あ、あの、話って?」

思わずそう問い返した彼女に、「あ、馬鹿」と、斜め向かいの由美香が小さな声で叱るように言った。

なんの話か、聞いちゃいけなかったのか?

焦って笹野を見ると、困った顔で口ごもっている。

なんだか悪い事をしたらしい。

「あの、ごめんなさい」

少し気分を害してしまったのか、笹野は口元をきゅっと引き締め、先ほどテーブルに置いた弁当を持ち上げた。深緑色のチェックの包みで、かなり大きい。

「笹野君は、いつもお弁当なの?」

「あ、…ん」

ずいぶんと歯切れの悪い笹野の返事に、沙絵莉はどうしていいのか分からなくなった。

「あの、笹野君、ここでお弁当食べたら? お茶持ってきてあげよっか?」

まるで取り成すように由美香が言ったが、笹野は手を振った。

「いや、いいよ。それじゃ」

その言葉を残し、笹野は立ち去って行った。

沙絵莉は首を傾げて彼の後姿を見送った。

彼女と同じように去ってゆく笹野を眺めていた泰美が「ありゃりゃ」と言った。

「沙絵莉、あんたさ。いまのごめんなさいって、笹野の誘いを断るつもりで言ったんだよね?」

「えっ?」

誘い? 断るつもりって…?

沙絵莉は眉を寄せ、「ううん」と首を横に振った。

「あちゃー。いまの、笹野は間違いなくそう取ったわよ」

「そ、そうなの?」

「ほらほら、いますぐ追いかけてって、いまのは違うって言っておいでよ」

「そ、そんなこと…出来ないよ」

沙絵莉はもごもご言いつつ、残っているサンドイッチを口に入れた。

「ねぇ、沙絵莉さ、笹野に好意持ってるんでしょ?」

由美香のその問いに、彼女の頬は自分の意志に関係なくみるみる赤く染まり、そんな自分に沙絵莉はひどく苛立ちを感じた。

そんな風に反応するせいで、なおさらふたりは、沙絵莉が笹野を好きだと思い込んでしまうというのに…

「ねぇ、あんたもっと素直になりなよ。せっかく勇気だした笹野が可哀想じゃんか」

「そんなこと言われても…」

「ぐずぐずしてたら、あのピンクニットの子に、笹野持ってゆかれちゃうよ」

由美香は顔をしかめ、脅すように言ってきた。

沙絵莉の隣に座っている泰美も同意するようにこくこく頷きながら、口を開いた。

「私も、あの彼女のこと、気にかかってるんだよね。あの子、めちゃくちゃ笹野のこと好きみたいだし…あんときの遭遇で、笹野があんたを気にかけてること知っちゃったからさ…これから焦って、もっとどんどん積極的に出てくるだろうと思うんだ」

由美香は泰美の言葉に、暗い顔で頷いた。

「私も、いま一番それが心配なんだよね。ともかく笹野が行動を起こしたんだもん。沙絵莉も素直になってさ、彼に応えてあげなよ」

沙絵莉は別に笹野を焦らしているわけではないのに…ふたりはそう思っているようだ。

そういうことではなくて…彼女はまだ恋を自覚出来ていないのに…

笹野が嫌いではないが、好きだとは言いきれないのだ。

自分で自分の気持ちがはっきりしないことに、沙絵莉が一番もどかしい気持ちでいるのだ。それを分かってほしい。

沙絵莉は最後の一口を口に入れ、好感の持てる笹野のはにかんだ笑みを思い浮かべた。

ほんと、彼のこと、嫌いじゃないんだよね…

彼ともっと話したり、一緒にいる時間とかが増えていったら、いま抱いている好意が、恋に変化したりするのだろうか?

確かに、そういうことはあるのかもしれない。

そう考えた瞬間、沙絵莉の頭に浮かんでいた笹野の顔が、銀色の瞳の男性のものにパッと切り替わった。

沙絵莉の意志ではなく、誰かが彼女の頭の中に手を突っ込んで、差し替えたような感じだった。

もちろん、そんなことが現実に起こるわけがない。

一度しか逢った事のないひとのことを、いつまでも引きずってるなんて、自分が理解できない。

もう二度と逢うはずがないんだし…

私ってば、しっかりと現実に目を向けなきゃ。

これまで彼女が誰とも付き合ったことがないのは、積極的に男の人たちと関わろうとしなかったからなのかも知れない。

「私…今日の講義が終わったら、笹野君に謝る」

照れた顔でそう言った沙絵莉に、由美香と泰美は明るい笑みを浮かべた。

自分の決断は間違っていない。ふたりの笑顔を見て、沙絵莉はそう思った。





授業が終わり、講義室から足早に退室して行く笹野を追って、沙絵莉は由美香と泰美に急かされるまま、駐車場までやってきた。

だが、なんと言って声をかければいいのかわからない。

笹野の車はすでにエンジン音をたてている。

気後れした沙絵莉は、後ろから早くとせっついてくる友達ふたりに振り返った。
「あ、あの…明日でよくない?」

「あんたね。笹野の気持ち考えてごらんなさいな。このまま帰ったら明日まで、鬱々とごすことになるじゃない」

「そだよー。あれが誤解なんだったらさ、さっさと解いてあげるべきだよ。ほら早く、動き出しちゃった」

泰美に思い切り背中を押された沙絵莉は、転びそうになりながら、もうやぶれかぶれの気分で、笹野の車に駆け寄った。

突然現れた沙絵莉にひどく驚いたらしく、ゆるく動き出していた車は前後に揺れて止まった。

「笹野君、ご、ごめんなさい」

ガラス越しに、信じられないという顔で見つめられ、沙絵莉は恐縮して身体を小さく縮めた。

「あのー、話が…」と話しかけたものの、彼の眉間の皺もそのまなざしも、ひどく近寄りがたく感じられ、沙絵莉は気まずく顔を伏せた。

ドアを開け、笹野が車から降りてきた。

間近に立った笹野は、彼女が思っていたよりずっと背が高かった。

無言のまま見下ろすように見つめられて、さらに気持ちが萎縮したが、話しかけたのは沙絵莉、笹野は彼女の言葉を待っているようだ。

けど、何をどう言えば良いのだ?

軽い雰囲気に話を持っていきたいのだが、ぎこちない空気の中、何をどう切り出していいのか…

さりげなくだ、さりげなさが肝心よ。

沙絵莉は心の中で自分を激励した。

「あ、あの。お昼のことだけど…なんか誤解が…ごめんなさいは、断りのごめんなさいじゃなかったんで…。誤解させたままじゃ駄目だって…。由美香と泰美が…」

言葉を言い終えた沙絵莉は、顔が引きつった。

し、支離滅裂だ…

何がさりげなくだ。

瞬間湯沸かし器のように頭が沸騰していては、さりげなくもへったくれもあったもんじゃない。

言いたいことは言ったし、今度は笹野の方が何か言う番だろうと思うのだが、いつまでたっても彼は何も言葉を返してこない。

困った沙絵莉は、ちょっとだけ顔を上げて笹野の顔を見た。

向こうもこちらを見ていたらしく視線がぶつかり合い、沙絵莉は慌てて視線を外した。

「あの、君、クラシックとか好きかな?」

笹野は、そう質問しながら、ポケットからチケットを取り出し、沙絵莉に差し出してきた。





居間に置いてある勉強机の前に座り、頬杖ついた沙絵莉は、心を弾ませて手に持ったチケットを眺めた。

沙絵莉はピアノを弾くせいもあるだろうが、クラシックは大好きだ。

生のオーケストラの演奏が聴けるなんて最高だ。大学内にもオーケストラ部があって、もうすぐ学内でコンサートを開くと聞き、楽しみにしていたのだが、それに先駆けて、プロのコンサートに行けるとは思わなかった。

クラシックのコンサートには興味があったが、なんだか自分には場違いな気がして気が引けたし、これまで、一緒に行こうと誘ってくれる人もなかった。

笹野は行ったことがあるのだろうか?

コンサートは今週の土曜の午後二時から。夕方の部もあるようだが、昼間の方で良かった。

初めてのデートが、暗くなってからなんてのは、なんとなく嫌だ。

夢の初デートの場所は、花びら舞い落ちる中の散策でも、若葉揺れる公園でもなかったが、クラシックのコンサートなら充分合格圏内。

けど、何を着ていけばいいのだろう?

沙絵莉はチケットを子細に眺めて見た。

どうも外国のオーケストラが、日本へ遠征してきてコンサートを開くらしい。

となると、少し改まった服がいいだろうか?


彼女はクローゼットにぶら下がっている自分の服を順々に見ていった。

桜色の無地のツーピースに、沙絵莉は手を止めた。

これは、大学の合格祝いにと岡本氏から…選んだのは母だろうが…買って貰ったものだ。

しばらく眺めて悩んだものの、沙絵莉はそれを元に戻した。

ピンク系は止めよう。どうにも、撫子色のニットワンピースを連想してしまう。

地味好きなわけではないのだが、こうしてみると、ぶら下っているは服は割とさっぱりしたデザインのものが多い。

ワンピースはただでさえ少ないし、コンサートに着てゆけそうなドレッシーなドレスなど一枚もない。

笹野とは付き合っているわけではないが、これはいちおう、デートと呼んでいいはずのものだし…

お小遣いはたっぷりあるし、明日にでも買いに…

そう考えた沙絵莉は、クローゼットの下に置かれた若草色の箱に目をとめた。

手を伸ばしかけた沙絵莉は、一瞬躊躇いを感じて手を引っ込めたものの、結局取り出して蓋を開けた。

淡い藍色のワンピース。

沙絵莉は両手に持って立ち上がり、ワンピースを見つめた。

上品なデザインだ。

これは去年の誕生日に、美月からもらったのだ。それも手作り。

美月はとても器用な人で、洋裁やレース編みパッチワークなど、なんでもこなすらしい。

この服も素晴らしい出来映えだ。

ドレッシーすぎて、これまで着てゆくところがなかったことも事実だが、正直言って袖を通す気になれずに、箱に入れたままになっていた。

コンサートにぴったりの服だ。

そう考えた沙絵莉の心は、複雑に揺れ、胸にせり上がって来るものを感じて、ワンピースを胸に抱きしめていた。

私は変わらなきゃいけないんだと思う。

両親、そして美月に岡本氏…みんなみんな、彼女を気にかけてくれている。

自分の望みとは違う現実がいやだなんて、うじうじと、いじけてる歳じゃないよね?

大人にならなきゃ…大人に…

沙絵莉は、胸に抱きしめているドレスを広げて見つめた。

「美月さん…ありがと」

その言葉を口にした途端、涙が零れ落ちていた。

受け取った時、彼女は美月に、いまと同じ言葉を口にした。

けれど、あのときの沙絵莉の言葉には、少しも感謝の思いがこもっていなかった。

いただいたことに、義理を感じて、口にしただけ…

「美月さん…ごめんなさい」

自分がどうにも情けなくて、申し訳なくて、沙絵莉は涙が止まるまで泣き続けた。


ワンピースを身につけた沙絵莉は、姿見の前に立ち、ゆっくりと一回転した。

総レースで豪華なぶん、デザインはシンプル。

襟元が少しあきすぎかなとは思うが、ほどよくしまったウエスト部分、ローウエストの切り替えから下がギャザーになって、膝が少し見えるくらいの丈のスカート。

靴はちょっとヒールが高めの、黒いパンプスなんかがいいだろうか、それとも、クリーム色の…?

鏡の中で、うーんと腕を組んだ沙絵莉は、持ち靴の種類を頭に浮かべた。

クリーム色の靴とバック、あれでいいかな?

「そうしよ」

沙絵莉は、ふんふんと鼻歌気分で服を脱いでハンガーにかけ、声を出してクスクス笑った。

初めてのデートに、浮かれている自分がおかしい。

「これで、忘れられるよね?」

無意識に口にしてしまった自分の言葉に、沙絵莉は「えっ?」と驚きの叫びを上げていた。

忘れられる?

沙絵莉は自分に対して、苛立ちが湧いた。

「なんで…忘れるも何も…ないし…」

いくら逢いたいと思ったって、あの銀色の瞳のひととは、二度と逢えないのだ。

なのに、なぜ…あの人の顔も姿も、沙絵莉の頭に刷り込まれたように、はっきりと記憶されているのだろう?

それどころか、時が過ぎるほどに、ますます鮮明になってゆく。

「もおぉっ、わけわかんない!」

大きな声で反発するように叫んだ沙絵莉は、顔をくしゃりと歪め、そのままベッドに突っ伏した。






   
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