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第三話 恋わずらい
「どうしたんですか。しっかりしてくれないと。この大変な時に、憂鬱の虫に取り憑かれちゃって」
ジェライドは、長椅子に寝転がっているアークに話しかけた。
だが、空間にぼんやりとした目を向けたアークは、彼の声が耳に入っていないかのようにまるで反応がない。
サリスの話では、今朝は朝食も食べていないという。
確かに今回の戦は、心にしこりの残る後味の悪い結末を迎えることとなってしまった。
だがそれは誰のせいでもない。
アークが気を病む必要などないのだが…
「バッシラ族のことは、私達にはどうしようもなかった。彼らは自分達で自滅した。騎士団は守りに徹しただけだ。彼らは絶滅するしか…」
ジェライドの言葉の途中で、アークが「はあーっ」と切なげなため息をつき、彼は眉をひそめた。
この姿、この表情、この塞ぎよう…どこかで…?
ああ、そうか。
「ライドが恋わずらいで苦しんでたときと同じ症状だな…。バッシラが…えっ」
ぶつぶつと呟いたジェライドの言葉に、アークが瞬時に反応した。
アークはガバッと起きあがりざま立ち上がり、ジェライドの襟首を、怒りをあらわにしてむんずと掴んだ。
思ってもなかった行動で、不意打ちを食らったジェライドはぎょっとした。
「誰が恋わずらいだと。この私が? そんなもの…。くそっ。ああ、もう嫌だ。あんな女、こっちから見限ってやるさ」
そう罵るように言葉を吐き捨てたアークは、どさりと長椅子に座り込んだ。
あんな女?
ジェライドは、むっつりしているアークを、まじまじと見つめた。
塞ぎの虫の原因は、戦などではなく、女のこと?
つまりアークは、ジェライドの知らぬ間に、また女に会いに行ったということなのだ。
「…アーク」
ジェライドは心底呆れてアークに呼びかけた。
はっとしたような顔をしたアークはジェライドから顔を背け、むーっとして口を真一文字に結んだ。
「…また、行ったんだ。…戦で魔力を使い果たしているっていうのに、まったくなんて考え無しなんだ。君にはもう、呆れてものが言えないよ…」
「うるさいな! 行こうと思って行ったわけじゃない。首飾りを手にしてこの部屋で転がっていたら、いつの間にか、その…。意思とは関係なく、飛んでしまったんだ」
「何事もなかったから良かったようなものの。なんでそんなに無鉄砲なんだろうな?」
「無鉄砲なのは私ではなく私の衝動だ。で、魔力がそれに、勝手に荷担したんだ。私のせいじゃない」
ジェライドは、その屁理屈に鼻を鳴らした。
アークはそんなジェライドを見て口を閉じ、気まずそうに床に目を落として口を開いた。
「以前のことだってちゃんと頭にあったさ。聖なる地で、数時間身体を休めた」
その言葉にジェライドはほっとした。
少なくとも、アークの魔力は危ぶまなければならないほど底をついてはいないようだ。
しかし、一度こん睡状態にまで陥り、無茶なテレポの危険性を重々承知しているはずなのに…
首飾りを返したのは間違いだっただろうか?
理性で押さえ込めない衝動に負けるとは…
アークは愚かではない。衝動的な人間でもない。
この衝動は、ジェライドには理解し得ない強力な導きによるもの…?
ジェライドは俯いているアークを見つめ、眉をぐっと寄せた。
だからといって、アークを守護するのが務めのジェライドとしては、アークを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
アークが顔を上げた。
彼はジェライドをちらりと見て、何を考えているのかまた長椅子に転がり、今度はうつぶせになってクッションに顔を埋めた。
どうみても恋わずらい。それも相当重症のようだ。
「で、何があったんだい?」
その質問にアークは肩を固く強ばらせた。
「男と…いた」
聞こえるか聞こえないかくらいの呟きだ。
「ははーん」
ジェライドは納得して声を上げた。
その声はよほどアークの癇に障ったのだろう、彼はジェライドをきっと睨んできた。
これはもう、とんでもない場面を目撃したに違いない。
「そうか、男とベッドの中にいたんだな」
ジェライドが同情を込めて言った途端、アークは飛び起きて怒鳴りつけてきた。
「ベッド! 馬鹿を言うな!」
「なんだ。違うのか。それじゃ、抱き合ってキスしていたというわけかい?」
アークは否定してぶんぶんと首を振る。ジェライドはきゅっと眉を上げた。
「それじゃ何をしてたんだい? その男と」
「一緒にいた」
アークは肩を落としてぽつりと言う。
そうか。
「ふたりっきりで、部屋にいて、そのあとの行為が、明らかだったわけだ」
「何が明らかだって? いったい、何を想像してる?」
「は? 何をって…そりゃあ、男と女がふたりきりで一緒にいたとしたら…」
「どうしてそう飛躍した想像をするんだ。そんなこと、私は一言も言っていないだろう。ふたりきりで部屋にいたわけじゃない」
「それじゃ、ふたりはどこにいたんだい?」
ジェライドの問い返しに、アークは苦々しい顔をしたものの、顔をしかめてまた口を開いた。
「なんだか、舞踏会の会場から出てきたところのようだった。みんなそれなりに盛装…、あれが、あの国の盛装だと思うんだが…」
ジェライドはアークをまじまじと見つめた。
たった…それだけ?
たかが、舞踏会の会場から男と連れ立って出てきただけの事で、これほどふさぐ必要があるのか?
「君が見限ったなんていうから。たかがそんなことか。それじゃ、彼女は舞踏会からの帰りで、男にエスコートしてもらっていたに過ぎないわけかい?」
「たかがじゃない!」
アークは心外だといわんばかりに、怒鳴りつけてきた。
「親しげだったし、その…かなりいい男だった。ふたりで顔を見つめ合って…。それで」
言葉を唐突に止めたアークは、クッションに顔をうずめた。
「それで?」
「帰ってきた…」
ジェライドは一瞬あっけに取られて押し黙ったが、我慢ならないほど笑いが込み上げてきた。
「それだけ?」と言った彼の声は、込み上げてくる笑いのせいであからさまな震えを帯びた。
その震えを感じ取ったのだろう、アークはクッションから顔を上げてジェライドに顔を向けてきた。
ヒクヒクと唇の端を震わせて我慢していたジェライドだったが、どうにも我慢できず、思い切り噴き出し、腹を抱えて笑い転げた。
「し、嫉妬するにしても…も、もっとさ、それってかなり大袈裟だよ。…そ、そんなことぐらいで、ぷっ、くはははははっ。君がそんなに嫉妬深いとは、信じられない。まったく恋というものは、信じられない効果を、わっははははは…」
大笑いしていたジェライドは、突然顔に衝撃を食らった。
「つまり、君は彼女と、まだ話もしていないっていうのかい? あれだけの魔力を使ってテレポしまくったっていうのに…かい?」
顔にべたべたとくっついていたキュラのパイのおおかたを食べ終えたジェライドは、呆れたを通り越して悟りの境地にまで至ったかのような、淡々とした口調でアークに言った。
ジェライドに馬鹿笑いされて、憤りが頂点に達したアークは、思わずこの屋敷の厨房にあったキュラのパイを手元に引き寄せていた。
そして腹を抱えて大笑いしているジェライドの顔に、力一杯パイをぶつけてやったのだ。
ぎょっとしたジェライドの顔が見られて最高にすっとしたが、この若い大賢者は、すぐに事態を悟り、顔にくっついているキュラのパイを平然と食べ始めた。
いまのジェライドは、もはや呆れてもいなければ責める調子でもない。
それだけにアークとしては悔しい。
彼女と会話らしい会話をしていないことなど出来れば話したくはなかったが、尋ねられたことに嘘はつけない。
だんまりを決め込むことは出来るが、それで済ませるジェライドではない。
それで仕方なく、恥を忍んで包み隠さず暴露したのだ。
悔しいことは悔しいが、すっきりもしたし、ジェライドが何かいい助言をくれるかも知れないと期待もしていた。
「言っただろう。どういう具合にすればいいのか分からないんだ。なにしろ、こんなことは初めてだからな」
「女の気を引くのがそんなに難しいのかい? そんな言葉を君の口から聞こうとは思わなかったよ」
「いままでは、そんな気がなかったんだ」
「いや、そう言うことではなくて、…君ならわざわざ気を引く必要もないだろうと言いたいんだよ。たいがいの女達は、黙っていても君に群がってくるじゃないか」
「彼女はこの国の女じゃない。私が誰かなど知らないからな」
「その出来過ぎた容姿のことを言っているんだよ、君が何者かなんて知らなくたって、充分女の心を引きつけるだろう?」
アークは椅子から立ち上がり、窓辺にたたずんで考え込んだ。
彼女と視線がかち合った瞬間。互いの心は結ばれた。そんな不思議な感覚を覚えた。
ふたりには、もはや言葉も何も必要ではない。そう感じたのだ。
あの感覚は絶対に、ゆるぎない現実。まやかしや幻などではなかった。
それなのに、彼女はふたりの繋がりを拒否するように身体を強ばらせ、結ばれた視線を断ち切るように瞬きした。
そして…こともあろうにあの男と見つめ合ったのだ。
アークは歯を食いしばった。いま考えても激しい憤りが渦を巻く。
「くそっ!」
拳にした右手で左手を叩いた途端、バンと、やたら大きな衝撃音が響き、アーク自身も驚いた。
普段静かな聖なる館に響き渡ったその音に、即座に反応して、どやどやと人の駆けずり回る音がし始め、間をおかず部屋の扉がパッと開いた。
「アーク様、何事やございましたかっ?」
悟りの境地から素早く現世に戻ってきたらしいジェライドは、大口を開けて笑っている。
それを見て、強面の警備兵たちは眉を寄せた。
部屋の様子に変わった事がないのを見て取った彼らは、視線でアークに説明を求めてきた。
「その、なんでもないんだ。ちょっとばかり、気晴らしに衝撃波を。…騒がせてしまってすまない」
頭を下げるアークに、警備兵たちは「とんでもございませぬ」と恐縮して去った。
ジェライドはほんのり頬を染め、気まずそうにコホンと咳をして椅子に座り込んだアークを、笑みを浮かべて見つめた。
こうしたアークの態度には感心する。
おごったところはまるでない。
自分が悪かったと思えば、相手が誰であっても頭を下げて謝罪する。
こんな彼だからこそ、アークはみなに愛されているのだ。
ジェライドは、友であるアークの恋を成就させるため、まだ耳の上に残っていた最後のキュラのパイの端切れを口に入れると、真剣に考えはじめた。
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