白銀の風 アーク

第三章

第五話 驚愕の再会



昼も過ぎたというのに、沙絵莉はもんもんとした気分を抱え、ベッドの中で右に左に寝返りを打ち続けていた。

昨夜は一睡も出来なかったのだ。

目はしょぼしょぼするし、頭も重い。それでも気になって気になって眠れない。

あの人は何処から来て、何処に行ってしまったのだろう?

なぜあの場所にいて、彼女を見つめていたのだろう?

たった一度、ほんの一瞬顔を合わせただけのひと。なのに、ありえないほど、いまの沙絵莉の中で存在感を持っているひと。

消えてしまった事実、彼女の心…

ああ、わかんない。なにひとつわかんない。

頭を抱えて悶えていた沙絵莉だが、ついに諦めてベッドから出た。

そして床にそのまま座り込み、膝を抱えて顎を載せた。

あの人はいったい誰なんだろう? どうして彼女の前に再び現れたのだろう?

消えたとしか思えない事実は受け入れ難い。それでも、彼とひと目でも逢えたことが嬉しいと彼女は感じている。

沙絵莉は答えの出ない問題について考える事を無理やりに止め、寝室から出た。

冷蔵庫のウーロン茶のペットボトルを取り出し、それを手にソファに座り込んだ。

ウーロン茶をこくんと飲み、瞳を宙に向けた彼女は、昨日一日の出来事を初めから思い返した。

初めてのデートは期待していた以上だった。笹野との会話もとても楽しくて…

それも、あの人を見るまでのことだった。

正体の知れないあの男性の疲れた面差しが脳裏にこびりついて、あのあとの、レストランの豪華な夕食の席でのことは、あやふやにしか覚えていない。

だが、この部屋まで送ってくれた笹野が、最後に「君はその男が好きなんだな」と言い、さっと踵を返して去って行ったのは、記憶に生々しく残っている。

自分は笹野に何を語ったのだろう?

思い出そうとしてみても、どうしても思い出せないのだが、笹野の言葉は、沙絵莉が、あの謎の男性との遭遇を語ったことを、明らかにしている。

偶然に二回逢っただけでしかないあの人のことを、彼女はどうして笹野に話したりしたのだろう?

また、どんな風に口にしたというのだろうか?

覚えていない。まったく記憶がない。

もちろん、笹野に聞くわけにはゆかない。

笹野の最後の言葉は捨て台詞っぽかった。完全に誤解して…怒って…

沙絵莉は自分の考えに戸惑い、眉をひそめた。

…誤解って、なんなの?

話をしたことなど一度だってない。偶然、二度逢っただけで…

「ああーっ、いったいあのひとは誰なの。どうして私の顔を見て、あんな…あんな…」

沙絵莉は心にあるものを、どうにも言葉に出来ないことに苛立ちながら、口を閉ざした。

あの刹那に起きた出来事はあまりに現実離れしていて、それでいて鮮明で、言葉などでは語れない。

理性的に考えれば、まったくばかげたことだが、沙絵莉は笹野と一緒にいたことに対して、罪悪感を抱いている。

他の男性といたことを、あのひとは怒っている。

なぜかそう思えてならない。それも信じられないほど強く…思えてならないのだ。

「ああ、ばかげてるわ。まったくのナンセンスよ。なんの関係もないのに…」





「ええ、高田君。ごめんなさい」

その言葉を最後に、携帯を切った沙絵莉は、ひどく疲れを感じて、携帯を机の上に置くとソファーにぐったりと身体を預けた。

ひっきりなしに掛かってきた電話での会話で、もう疲れきってしまった。

一番始めは由美香だった。それから翼に、泰美もかけてきた。娘の初デートの感想を聞こうと母からも電話があった。

今日は母の日だから、岡本氏が食事に連れて行ってくれるそうで、彼女を迎えに、夕方こちらに来てくれるらしい。

そして今のは高田から。体育会系の彼は、単刀直入に付き合って欲しいと言った。

もちろん断ったのだが…そういう会話は、じつに体力を消耗するということを、いま身をもって知った。

沙絵莉は手を伸ばして携帯電話を取り上げ、電源を切った。そしてすばやく身支度して出掛けることにした。

電話で飽き足らなかった奴が、出向いてくるような嫌な予感がする。

みんなにはありきたりに答えて置いた。

笹野との初デートは楽しかった。コンサートは面白かった。食事もおいしかった。

彼はエスコートがうまかった…

家を出て、歩き出した沙絵莉は迷いを感じた。

携帯は置いてきてしまったが、笹野に電話をするべきだっただろうか?

けれど、謝って、そのあとどうすればいいのだ?

沙絵莉は歩いていける距離にある、少し大きめの公園に行ってみた。

引っ越してきてからまだ二ヶ月半、慣れない生活の中では心の余裕もなくて、これまでこの公園に足を伸ばすこともなかった。

公園の中は案外人が多かった。親子連れやさまざまな年代のカップル。

高齢の夫婦らしいふたり連れが前方からやってきて、彼女とすれ違う。

そしてまた、高校生らしいカップルが彼女を追い越し、駆けて行く。

ほぼ公園の中央にある広い芝生には、カラフルなシートがあちこちに敷かれていた。

シートの上には、お弁当の入った大きなバスケット。
そして、ビーチボールに乗っかり、ゆらゆらと不安定に揺れながら、おちびちゃんがキャッキャッとはしゃいでいる。

辺りに響く女の人の快い笑い声。
力強さを発散させて、男の子を肩車している大柄な男の人。

しあわせを絵に描いたような情景。そして弾むような音。うららかな陽気。

別にうらやんでなんかいないわ。私はしあわせだもの。

友達がいて、母親がいて、父親もいて、義理の父に義理の母に…

…そして、それぞれがそれぞれに、大切な人と人生を分かち合って暮らしてる…

胸がシクシクしはじめ、沙絵莉は考える事を止めた。

しばらくぶらぶらと公園の中を歩き回った沙絵莉は少し休もうかと辺りを見回したが、ベンチはどこも空いていない。

彼女は手頃な木陰を見つけてその下に座り込み、幹にもたれた。

木の葉がそよぎ、木漏れ日が揺れてキラキラと輝く。

沙絵莉は真上を見上げ、眩しげに目を細めてそれを見つめた。

「きれいだわ、本当に。こういう素敵なものって、神さまも不公平なく、みんなに分けて…」

「やあ」

空に向けて呟いていた沙絵莉は、その呼びかけに慌てて声のした方に顔を向けた。

目の前に、忘れようもない人が、少し困ったような表情でたたずんでいる。

う、うそ…

「何を話せばいいのかな」

沙絵莉を見つめ、彼は独り言のように口にした。

「マリアナの言うとおり、私には会話文の持ち合わせがないらしい」

驚愕している沙絵莉に気づかないのか、彼はそう言って視線を少し逸らし、いくぶん自嘲的な笑みを浮かべた。

「ええと…」

俯いて困ったように呟き、口を閉ざして唇を噛みしめる。

そんな彼を、彼女は茫然として見つめ続けた。

ふたりの視線が合わさった瞬間、何を思ったのか、彼は急に不機嫌な顔になった。

「どうしてあの時、私の視線を断ち切ったのだ」

憂いを秘めた顔を曇らせている彼の言葉など、沙絵莉の耳には届いていなかった。

なぜ? どうして現れるの?

どうしていま、目の前にこのひとはいるの?

「ど、どうしてここにいるの?」

沙絵莉の問いかけに、なぜか彼はほっとしたように表情を緩めた。

「君がここにいるから」

「私が…いるから?」

彼はそうだというように頷いた。

「私がいるから?」

沙絵莉は無意識に言葉を繰り返し、彼を見つめて瞬きをしたが、ふいに恐れが湧いた。

瞬きした一瞬で、また彼の姿は消えてしまうかもしれない。

だが、彼は消えることなく、まだ目の前に存在している。

ほっとした沙絵莉は、少しばかり心に余裕を持てた。

「あなたは誰?」

「アークだ」

「アーク?」

そう口にした途端、胸が震えた。

震えが喉を通って唇に達し、彼女の目にまでなんらかの影響を及ぼしたらしい。

ぽとりぽとりと大粒の涙が、頬を伝ってこぼれ落ちた。

アークと名乗った男性は、沙絵莉の涙にひどくうろたえたようだった。

「どうして泣く?」

沙絵莉は小刻みに首を横に振った。

「わからない。けど、あなたが…」

「私が?」

「やっぱり…わからないわ。混乱してて、何も」

「ど、どこか行きたい場所はあるか? 君の行きたいところに行こう。そうだそれがいい、そうしよう。さあ」

早口にまくし立てた彼は、彼女の手を掴んできた。
そして、驚いている沙絵莉を、強引に立ち上がらせた。

触れている彼の手から、何か得体の知れないものが流れ込んできた感覚に、沙絵莉はぎょっとした。

だがその一方で、彼女の視線を捉えている彼の瞳から目が離せない。

まるで呪縛されたかのように、目を見開いたまま彼を見つめていた沙絵莉の手を、彼は痛いほど握りしめてきた。

「サエリ、何処に行く?」

その一言で沙絵莉は我に返った。

相手は見知らぬ男だ。逢ったのは三回目。素性も知れない人。

なのに、なぜ彼は沙絵莉の名を知っているのだ?

不可解な感情の揺れ、それは激しい恐れに変わった。

沙絵莉は自分の手を相手の手から引き抜こうとした。けれど、しっかりと掴まれた手は抜けず、恐れはさらに増した。

「離して!」

彼女の鋭い叫びに驚いた彼の力が緩み、解放された沙絵莉はわき目もふらずに一目散に逃げ出した。







   
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