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第六話 魂の響き
「手伝ってもらってばかりで、すみません、パンセ殿」
目の前にいる、彼と一緒に薬湯を作ってくれている大賢者パンセに、ジェライドは深々と頭を下げた。
ここは聖なる地にあるパンセ専用の家だ。パンセの人柄があらわれたぬくもりのある部屋はとても居心地がいい。
パンセが作ってくれているのは、アークのためのもの。魔力を回復させるための薬だ。
こういう古くから伝わる薬湯は、経験の浅いジェライドよりも、パンセの方が格段に良質のものを作りだす。
レシピどおりに作ればいいというものではないのだ。長年の経験により培った勘、さらに薬の成分を良質のものへと生成するための熟練した技と能力が必要だ。
ジェライドの言葉を聞いて、パンセが微笑んだ。
「言わずとも分かっておられましょうが、これは私の役割でもありますゆえ」
ジェライドはパンセの言葉に頷いた。
薬湯は、アークが女に会いに行くために必要なもの。魔力を減じたままでは、絶対に何があろうと行かせられない。
やっかいなことに、アークは、彼ら大賢者の誰にも行くことの叶わぬ場所に飛んでゆくのだ。
大きな危険性を伴っているというのに、アークはまるで危機感を持っていないし、認識しようとしない。
歯痒いことに、それでも彼らはアークを止めることはできないのだ。
未来の聖なる人の誕生は、アークと彼の愛する女性なくしてあり得ない。
アークが夢に見た女は、彼が永久に愛する者だ。
カーリアン国の未来の平安のため、アークには彼女の愛をどんなことがあっても得てもらい、妃に迎えてもらわねばならないのだ。
彼ら賢者は、聖なるひとの守護者であり、血筋を絶やさぬために存在していると言ってもいい。
なのに、彼らが行くことのできない場所に飛んでゆくアークが戻ってくるまで、気を張り詰めて、ひたすら待つしかない。
アークに知られずに飛んでゆけるならば、なんらかの手助けだってできるだろうに…ついてゆけないなんて…
まったく、もどかしいったらない。
彼が戻ってくるまで、ジェライドたちがどれほど気を揉んでいるか、アークはちっともわかっちゃいないし…
「アーク様ときたら、なんでもっと簡単に会いに行ける国の娘を好きにならなかったんでしょう」
考えるほどにアークに対してムカついてきたジェライドは、思わずブツブツと文句を口にしていた。
ともにいるのが大賢者パンセという、彼と通ずる人物であることで、彼の心の枠もゆるむようだった。
パンセは、他の大賢者たちとは違い、ジェライドにくつろぎを与えてくれる。
「神は時々、悪戯をなさる」
パンセの言葉に、ジェライドは驚きとともに目の前の大賢者を見つめた。
ジェライドの反応に、パンセはくすくす笑う。
「変化を望まれるのですよ。神は」
「アーク様に何事かあったら、変化などと、のん気に言っていられませんよ」
パンセは出来上がったのか、薬湯をテーブルに置いた。
「我々は、我々にできることをするしかありませぬ」
ジェライドは大きなため息をついた。結局はそういうことなのだ。
「おや、お戻りになられたようだ」
すでにアークの気を感じていたジェライドは、立ち上がりながらパンセの言葉に頷いた。
ずいぶんと早い。
アークが飛んでいって、まだ半時くらいしか経っていない。
ふたりはそれぞれが作った薬湯を持ち、シャラの木の元に向かった。
アークは、シャラの木の下で、頭の後ろに手を添え、横になっていた。
その姿を見て、ジェライドは大袈裟と思えるほどほっとした。
今度も無事に帰還してくれた。
先ほどまで胸にあったイライラは消え、いまは安堵しかなかった。
彼らがやってくるのに気づいたアークは、ふたりを一瞥したが、すぐにシャラの木に視線を戻した。
「早かったね?」
返事がない。
どうやら、今回も首尾よくとはゆかなかったらしい。
もしや彼女はまた、例の男と一緒にいたのだろうか?
まったく邪魔な存在だ。その男、なんとか始末できないものだろうか?
大賢者にあるまじきことを本気で考えながら、ジェライドはアークに薬湯を差し出した。
「アーク様、さあ、これを飲んで」
いつものように不味いとか、いらないとかごねるかと思ったのに、アークは暗い目をしてむっくりと起き上がり、ジェライドの手から器を取り上げ、一気に飲み干した。
そして、自分からパンセの手にしている薬湯をも受け取り、これまた一気に飲み干した。
「一時間ほど、ここで休んでゆけばいいんだろう? 悪いがひとりになりたい」
ずいぶん傷心の様子だ。
いったい何があったのか問いたかったが、ジェライドは無言で頷き、パンセとその場から去った。
「うまくいっていないようですね」
歩きながらジェライドはパンセに言った。
「ゆっくりとお知り合いになればよいのですよ。アーク様は平和に事を進めておられる」
「平和に?」
パンセは何を考えているのか、謎めいた笑みを浮かべ、「平和に」と繰り返した。
帰りの小船の中では、恋わずらいの友は、無意識に数え切れないほど重苦しいため息をつき、うっとうしいといったらなかった。
さらに、言葉を交わせない白い靄の森を抜ける小道を同行する相手としては、究極的に最悪。
ようやく靄を抜けたジェライドは、アークのせいで自分の身にまといついている、どんよりした空気を両手で振り払った。
全身からよどんだ気を発散しつつ歩いてゆくアークの背中を、ジェライドは少し力を入れて叩いてやったが、これまたまったく反応なしだった。
「何があった?」
どうせ聞いても答えはしないだろうと諦めを持ちつつ、ジェライドはアークに尋ねた。
やはり返事はない。
「アーク、気分転換をしないか? 今夜はちょうどいい具合に花祭りの前夜祭だ。宮殿の正式な催しに出席してもいいし、町に繰り出してもいい。どこでも君の好きなところにつきあうよ」
歩みを止めないアークの横顔に、まるで変化なし。
ジェライドはアークに話しかけるのを諦め、聖なる館まで歩いてきたところで、もう一度アークに話しかけた。
「本当に、祭りには行かないのかい?」
そう声をかけても返事はなかった。
何があったか知らないが、そうとう落ち込むようなことがあったらしい。
今度こそ、ベッドで抱き合ってるところを見てしまったんじゃないだろうか?
もしそれがほんとなら、これからが、とんでもなくやっかいそうだ。
ジェライドとしては、そうでないことを祈るしかない。
まあ、この間の落ち込みもひどかったが、あの時も話がわかったら、たいしたことじゃなかったしな…
うん、きっと今度も同じようなものなのに違いない。
ジェライドは自分を無理やり安心させ、アークに「それじゃ、また明日」と声をかけた。
アークが暗い顔で頷いた。
ともかく反応があったことにほっとしつつ、ジェライドは「今夜はもう、テレポはなしだからね」と念を押すように言い、その場をさっさと後にした。
やれやれやっといなくなった。
ひとりになったアークは、立ち止まり、むっつりとして空を見上げた。
ジェライドの言葉は、ちゃんと耳に入っていた。だが、会話する気力がなかったから最後まで何も口にしなかったのだ。
サエリに逃げられたのは、ショックだった。
あんなにも好意的に話しかけたのに…どうして私を恐れる?
彼女の手を握り、これまで感じたことのない魔力の活性を感じて、そのせいで、異様なほど感情が高ぶった。
もしや、あれが悪かったのだろうか? サエリの目に異様に映ったとか?
…それとも、どこかに行こうと誘ったのがよくなかったのか?
考えたらあの場所でも充分だったのだが、顔を合わせたあの場所から、どこかへ連れて行かなければ遊びに行くということにならない気がして…
そうか、あのままあそこで話をすればよかったのだ。
そしたら彼女は怯えることなく、あんな風に彼を拒絶して逃げるなんてことはなかったかもしれない。
彼女は、どこか知らない場所に無理やり連れてゆかれると思って、それで怯えたのに違いない。
アークは自分の導き出した答えに納得して、深く反省した。
次はどうするかな?
マリアナはプレゼントが効果的と言っていた。
花とか本とか…うむ、花か。
母親の温室、あそこには見事な花が山ほど咲き誇っている。
何本かもらって、明日、彼女に手渡すことにしよう。
魔力の専門書に熱中していたアークは、ノックされた音には気づかなかったが、「アーク」と呼びかけられた声にはっとして、反射的に「はい」と返事を返していた。
「入ってもよろしくて?」
「どうぞ、入って下さい。母上」
長椅子に深くもたれていた彼は、専門書をテーブルに置き、母親に返事を返した。
いつもと変わらぬ温かな笑みをたたえたサリスに、アークは笑みを返した。
まとっている母親の衣装は、普段の夜服ではない。
白と淡い水色が基調になったシンプルなドレスに、ふわりと軽そうな布で作られたフラティーと呼ぶ肩掛けを羽織っている。フラティーは公式の行事の時などに羽織ることが多い。
「これからお出掛けですか?」
水の流れのようなきらめきを放っているフラティーを見つめ、アークは言った。
「ええ、明日は花の祭り。今夜は前夜祭ですからね…。アーク、あなたはゆかないの?」
花祭りは、シャラドの春を祝う祭りだ。カーリアン国ではどこの町村や部族でも、四季を愛でて年に四回の祭りを行う。
「今夜は、出掛ける気分では…」
「彼女と、何かあったの?」
「話すほどのことでは…」
「私では相談相手として、役不足かしら?」
母親の表情に微かなかげりが浮かんだのを見て、アークは弱った。
照れがあって話しづらかったが、これまでのことをかいつまんで話すことにした。
頷きながら聞いていたサリスは、話が終わると、思案するように顎に指をかけて小首を傾げた。
「彼女は、きっと怯えたのね。手を握ってしまったのは、よくなかったかもしれないわね」
アークは眉をしかめた。
そんな息子の様子に、サリスが微笑んだ。
「彼女にとってあなたは、異国の者でしょうから。怯えを感じたとしても、仕方がないのでは?」
「…確かに、そうかもしれません」
サリスはゆっくりと窓辺へと歩を進めながら話を続けた。
「あなたは優しさを持っているわ。その優しさは必ず彼女に伝わるでしょうし、怯える必要もないことにも気づいてくれます」
窓に辿り着いたサリスはシャラドの夜景をしばし眺め、ゆっくりと振り向いてきた。
「外に現れているものや言葉など、問題ではないのよ。そんなものは上辺だけのものにすぎない。魂の響きに従うことよ」
魂の響き…
アークは母に向かってわかったというように頷いた。
「祭りを楽しんできてください」
アークの表情をみて、サリスは「ええ」と答え、ドアに歩み寄っていったが、ドアノブに手を掛けたところで、何かを思い出したように振り返ってきた。
「そうそう、今日、厨房でひと騒動あったの、キュラのパイが消えたといって。アーク、何か知っていて?」
アークは目を上向け、口許を噛みしめて笑いを堪えた。
あれはじつに傑作だった。
「まあ、あなただったのね。これからは黙って食べたりしては駄目ですよ」
「あ、ちが…」
アークは慌てて母親のいた空間に手を伸ばしたが、とんだ誤解をしたまま母親は行ってしまった。
彼は伸ばした手を上下に揺らしてから膝に戻した。考えてみれば、食べたのが誰であれ、黙って盗ったのは彼だった。
花の祭り。今頃は大勢が前夜祭に出向き、盛り上がっていることだろう。
「魂の響き…か」
そう呟き、彼は椅子の上に置いていた分厚い本を手に取った。
それから数時間、部屋にはページを捲る音だけが続いていた。
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