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第七話 差し伸べられた手に…
冷蔵庫を開けた沙絵莉は、中に入っているものを確認しただけで、そのまま閉めた。
何か食べる気分じゃない。お腹もそんなに空いていない。
もうそろそろ学校に行かなきゃならない時間だが…
由美香や泰美と話すのが億劫だ。顔を合わせたふたりは、絶対に笹野とのデートについて、詳しく聞きだそうとするに違いない。それもテンションを上げて…
笹野とだって顔を合わせづらい。
休もうかな…
沙絵莉は意味もなく見つめていた冷蔵庫のドアから視線を外し、居間に行ってソファにどさりと腰掛けた。
休むなら、連絡しとかないと…
昨日、突然現れたアークという名のひとのせいで、沙絵莉の心はまったく収拾がつかない状態になってしまっている。
あのひとときたら、言っていることも変だし、登場の仕方もおかしいし、一瞬でいなくなるし…
その上、まるでずっと沙絵莉を知っていたかのように、彼は沙絵莉の名を口にした。
いったい、彼は何者なのだ?
携帯が鳴り出し、沙絵莉は思わずぎょっとして携帯に視線を向けた。
ま、まさか、彼からなんてこと…ないわよね?
けど、あのひとは、そんなありえないことを起こしてしまいそうだ。
ドキドキしつつ携帯を手に取った沙絵莉は、相手を確かめてがっかりした。
「なんだぁ、お母さんかぁ…」
そう呟いた自分に、沙絵莉はどきりとした。
私ってば、なんで、がっかりなんかしてるのだ。
もしあのひとから掛かってきたのだったら、仰天しすぎて携帯を投げつけてるに違いないのに…
沙絵莉は気を取り直して、鳴り続けている携帯に出た。
「お母さん、おはよう。何かあった?」
母が、朝っぱらから電話を掛けてくるなんて珍しいことだ。
『あら、なによ、もお、元気そうじゃないの?』
いくぶん不服のこもった母の声に、沙絵莉は首を傾げた。
「元気だけど…なんで?」
『この子はもおっ、昨夜も電話したのよ』
沙絵莉はさらに首を傾げた。母は、何をイラついてるのだ。
「あ、電話くれたの。ごめん、昨日は戻ってすぐお風呂に入って寝ちゃったから…」
『昨日、食事してるとき、沙絵莉ずいぶんとおかしかったから。…やっぱり、笹野君関係で何かあったんじゃないの?』
昨日の夕食は、母に俊彦、陽奈と食べたが、銀色の髪のあのひととの遭遇のせいで、上の空だったかも…
「笹野君とは何もないわ」
私、彼とは付き合わないと思う…
そう口にしたかったが、沙絵莉は言葉にするのをやめた。
母との会話を続ける気力がいまはない。
「お母さん、もう仕事に出掛ける時間でしょ? また、今夜にでも電話するわ」
『…わかったわ。それじゃ、また夜にね』
「うん」
携帯を切った沙絵莉は、迷った末に、泰美に電話して今日休むことを告げた。
『なんだぁ、体調不良なの? 笹野とのこと聞けると思ったのに…風邪かもよ。ゆっくり休みなね』
「うん、ありがと」
通話を終えた沙絵莉はほっと息をついた。
勘の鋭い由美香なら、こんなに簡単にはいかなかったに違いない。
沙絵莉は見慣れた部屋をぐるりと意味なく眺め回した。
昨日の公園に、行ってみようか?
もしかすると、また彼がやってくるかも…
出掛けるのなら、昨日と同じくらいの時間のほうがいいだろうか?
でも、今日は月曜日だ。平日の仕事に就いているひとならば、今日は仕事のはず。
けど、あのひとはサラリーマンという感じじゃなかった。
なんたって、いつも服装が普通じゃないし…
まるで世界的なファッションデザイナーが手掛けたような、超斬新なカットをほどこした服というか…
昨日だって…ファミリーやカップルのいっぱいいるアットホームな公園の中で、彼はどうにも浮いていた。
沙絵莉は、目の前に現れた彼の銀色の髪と不思議な色合いの瞳をまざまざと思い浮かべ、知らずため息をついていた。髪が日の光に照らされて、キラキラとまばゆいくらい輝いてて…
彼の手に掴まれた手首を、彼女はそっと握り締めていた。
…なんであのとき、逃げちゃったんだろう?
あんな風に、動揺して怖がったりせずに、もっとしっかり彼と会話すればよかった。
どこかに行こうと強引に連れて行かれそうになったが、冷静になった頭で考えると、彼は沙絵莉に危害を加えるようなひとだとは思えない。
…不思議なひとだけど…
沙絵莉は窓に目を向け、立ち上がって外を見つめた。
彼に逢いたいという気持ちが、急激に膨れ上がってきて、彼女は落ち着かなくなった。
窓に背を向けた沙絵莉は、小走りにキッチンに行って朝食の支度をした。
軽く朝食を終え、部屋の掃除を念入りにやり、出掛ける支度をして彼女はアパートを出た。
外にいなければ、彼には出会えない。
ゆっくり歩いていたら、また、ふいに現れてくれるかもしれない。
自転車置き場に自然と足を向けていた沙絵莉は、その自分の考えに立ち止まった。
そうだ、歩いていたほうがいいかも…
傍目に不審がられるほどキョロキョロと周りを見回しながら公園までやってきた沙絵莉は、昨日彼が現れた場所に行き、一時間も同じ場所に座って待った。
昨日とは違い、公園の中はひっそりとして静かだ。
ほんの時折、ベビーカーを押した若い母親たちや、老齢のひとが行き交うだけ。
待ち人の現れる様子は微塵もなく、待ちくたびれた沙絵莉は無言で立ち上がった。
馬鹿みたい…
頬を膨らませている自分が憐れに思えて、沙絵莉は腹立ちを抱えながら公園から出た。
馬鹿みたい…
不服を込めて自分に向かって罵り、沙絵莉は泣きたい気分で歩道を歩いて行った。
別に目的地のなかった彼女の足は、知らぬ間に図書館に向いていた。
図書館の前でいったん立ち止まり、建物全体を意味もなく見上げてから、沙絵莉は中に入った。
借りている本を返していないから新たに借りられないのだが、彼女は時間つぶしに、彼の事を頭から無理やり追い出しつつ、興味の持てそうな本を手に取っては棚に戻す作業を繰り返した。
「やあ」
本棚を回り込もうとした沙絵莉は、本棚の影から突然ぬっと現れた人物にぎょっとして後ずさった。
それでもすぐに、気持ちを立て直した。
彼の登場はいつでも突飛なのだ。
「ど、どうして私の居場所がわかるんですか?」
そう問いかけた沙絵莉は、無意識に警戒して、数歩ゆっくりと後ずさっていた。
驚かされて心臓がバクバクしているせいで、いくぶん咎めるような口調になってしまったが、遅れて、彼と出会えた喜びが徐々に突き上げてくる。
「居場所は知りようがないけど。君を感じるんだ。そうすると飛んでこれる」
感じる? と、飛んでくる?
こ、このひとやっぱり、どこかおかしいのかしら?
こんなに絶世のハンサムでは、なおさら気の毒だ。
まさかと思うけど、どこぞの病院から脱走して…
「どうかしたのか?」
「脱そ…。ち、違う。えーと、どこからきたの?」
「君の知らない場所から」
謎めかせた返事に警戒心はさらに膨らみ、彼女は警戒心のぶん後ずさった。
ふたりの距離は、三メートルほどになった。
それだけの距離を、彼女が開けたことに、彼は何らかの気持ちを抱いたようだが、口に出して触れたりしなかった。
「祭りは好きか?」
三メートル隔てたところから、アークが尋ねてきた。
「祭り?」
三メートルの距離に安心して、沙絵莉は聞き返した。
「そうだ。いま、祭りの真っ最中なんだ。花の祭り…花は好きかい?」
「え、ええ、花は好きだけど…」
沙絵莉の返事に、アークはほっとしたような笑みを浮かべた。
実に魅力的な笑みで、沙絵莉のハートは勝手に高鳴った。
「これから行かないか? 祭りに」
一緒に行きたい気持ちが膨らんでゆく。だが、沙絵莉の理性が彼女を必死に引き止める。
今日は月曜日だ。平日に祭りなんかやっているところなどあるだろうか?
でも、本当に祭りなら…
彼のおかしな言動に対しては確かに警戒心が湧く。
できれば、まともなひとであって欲しいと思う。
それでも彼に惹かれる気持ちがあることは否定できない。
もっと一緒にいたいし、話もしたい。
どこかに連れて行ってくれるというなら、一緒に…
沙絵莉は上目遣いに彼を見つめた。
細面のきれいな顔の輪郭。形のいい唇と鼻。そして信じがたい瞳の色の神秘的な目。
柔らかそうな銀色の髪は明かりに照らされているわけでもないのに、細かなきらめきを放ち、前髪がパラパラと額にかかっている。
アクション映画に出ても様になりそうな、すらりとした身体のライン、そして長い脚。
今日着ている服は、これまでとはまた一風雰囲気が違う。
シャツもズボンも、かなり風変わりなデザインで、襟無しの焦げ茶の上着も、ズボンも、見かけは麻のようなのに、ごわごわした感じや皺もなく、やわらかそうだ。
しかし、こんな…見かけだけにしても…完璧に見える人が、どうして沙絵莉のところに出没するのだろう?
それで何か、得なことでもあるのだろうか?
もしや、これ…ビックリテレビとかの新しい企画とかで、いたいけな庶民を騙して喜ぶ。な〜んてのだったりして…
沙絵莉は、思わず辺りを用心深く窺った。
この様子をどこかから、棚の隙間からでもカメラが覗いていないかどうか…と。
「あなた、どこかの番組に雇われた俳優なんでしょ?」
私を騙そうったってそうはいかないんだからと、沙絵莉は心の中で付け加えながら彼に問いかけた。
「ばんぐみ、はいゆう? …それは何だ?」
沙絵莉はむっとした。
あまりにそらぞらしいリアクションだ。番組やら俳優が分からないはず…
彼女は眉を寄せて、彼をじっと見つめた。
も、もしや、ほんとに分からないとか?
日本語は流暢だが、どうみたって彼は日本人じゃない。
言葉を知らないというのは頷ける。
「どうして私なんかに構うの?」
「君を…」
彼は言葉を言いかけて口を噤んだ。
何を考えているのか、沙絵莉をじっと見つめてくる。
「な、なに?」
「その…心が響いただろう、君と私の。…君は感じなかったか?」
彼女は思わずびくんと肩を揺らして目を見張った。
あの理解できない不思議な感覚を、彼もまた感じていたのか?
「とにかく、祭りに行かないか?」
動揺して目を揺らしている沙絵莉を見て、アークが早口に言った。
「気楽な方がよければ、下町の祭りにしよう。楽しいぞ」
アークが、彼女に向けて手を差し伸べてきた。
ふたりの視線が合わさった時、沙絵莉は無意識のうちに手を差し出していた。
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