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第八話 受け入れ難き真実
彼の手を握り締めた途端、沙絵莉は全身がふわんと浮いたような、強烈に奇妙な感覚に囚われた。
い、いったい?
頭の中もだし、身体の中身が全部、現実でなくなったような…
リアルなのは、握り締めているアークの手だけ。
恐れが湧き、沙絵莉は彼女の手を痛いほど握り締めている彼の手に縋るように、力一杯握り返していた。
奇妙な感覚が徐々に去り、沙絵莉は自分の身体に感じている、自然な重力に安堵を覚えた。
私ってば…眩暈を起こしたのだろうか?
目を閉じて前屈みになっている沙絵莉の背中に、守るように彼の手が当てられているのに彼女は気づいた。
ふたりの距離の近さと、彼に触れられていることに対して警戒心を抱くべきなのに、そんな余裕はなかった。
「気分は悪くないか?」
いたわるような言葉を掛けられて、沙絵莉は目を開けて上体を起こそうとしたものの、まだ眩暈が治まっていないのか、頭がふらりとしてきゅっと目を閉じた。
「い、いいえ…ごめんなさい。なんか急に…」
そこまで言った沙絵莉は、息苦しさを感じて言葉を止め、一度大きく息を吸い込んだ。
「頭が、身体が、ふわふわして…あ、足が…」
足元がおぼつかず、よろけそうになった沙絵莉は、彼女を咄嗟に支えてくれたアークの身体に取り縋るようにして身体を支えた。
「ご、ごめんなさい。急にどうしたのかしら?」
沙絵莉は額に手を当てて、不安定さがすっかり消えるまで目を閉じていた。
「君は気分が悪くならないんだな。たいしたものだ。ルィランなど酷かったぞ」
「ルィラン? あなたのお友達なの?」
沙絵莉はようやく目を開け、彼女の顔を覗き込んでいたアークの顔を見つめ返した。
思った以上にふたりの顔は近づいていて、心臓がドキンと跳ねた。
「ああ」
頬に彼の温かな息がかかり、沙絵莉は慌てて身を離した。
「あ、あの。も、もう大丈夫みた…」
頬を染めてアークに向けて言っていた沙絵莉は、周囲の風景が視界に入り、絶句した。
な、な、な、なに、ここ……?
沙絵莉は右に顔を向けて、じーっと見つめた。
外?
今度は左に顔を向けて、じーっと見えるものを見つめる。
どうみても外だし。
図書館は? 書棚は? どこに消えたのだ。
彼女は目の前にいるアークを見つめ、心の中で、な、なんで? と、彼に問いかけた。
彼が、なにやらマジックのようなものをやったのか?
催眠術とか、奇術とか…
彼は俳優なんかじゃなくて、マジシャンってやつだったのか?
「サエリ、何も心配はいらない」
心配?
「あ、あなた。どうして私の名前を知ってるの?」
「それは…君の父親だと思うが…君をサエリと呼んでいたから…」
その話に、沙絵莉は驚いた。
「あなた、私の父を知っているの?」
「知っているというわけではないが…お会いしたことは…まあ…ある」
曖昧な返事だったが、彼が沙絵莉の名前を知っていたとか、父を知っているとか会ってるとか、そんな話は二の次三の次でいいということに、彼女はハタと気づいた。
「こ、これって、マジックなの? マジックなんでしょ? 私たち、いま図書館にいるのよね? なのに、どうしてこんな風景が見えてるの?」
「マジック…? 君が口にしているのは…魔法と言ってるのか? それとも奇術?」
目を眇めて、まるで沙絵莉の真意を図ろうとするように、アークは彼女の顔を見つめてくる。
マジックという言葉を彼女がどういう意味合いで使っているかが、彼はずいぶんと気になるらしい。
沙絵莉は苛立った。
「マジックがどんな意味とかどうでもいいわ。私が聞きたいのは、どうしてこんな風景が見えてるのかってことよ」
「ああ、そうか…」
彼はたったいま、何かに気づいたとでもいうように、顔をしかめた。
「そうかって、なに?」
「ここは私の国だ」
「はい?」
「テレポしたんだ」
私の国? テレポ?
「テレポって、テレポーテーション?」
沙絵莉の言葉を聞いたアークは、どうしてかほっとしたような笑みを浮かべた。
「そうだ。共通した言語が存在するということは…君の国にもテレポできる者がいるんだな。もしや、君も出来るのかい?」
出来るのかい?と、彼が爽やかな顔で私に聞いてるこの質問って、テレポーテーションが出来るのかってことなのよね?
「出来るわけないでしょ!」
沙絵莉は思わず大声で叫んだ。が、アークに口を塞がれた。
驚いた沙絵莉は、アークの手を掴んで抵抗した。
「沙絵莉、落ち着いて。ただ、ここであまり大きな声を出すと不味いんだ。声を聞きつけられたら、警備の者が飛んでくるかもしれない」
アークは言い聞かせるように沙絵莉の目を見つめ、彼女の反応を窺いながらゆっくりと手を離した。
「警備のって、図書館の? …だってここは図書館で、この風景はマジックで…」
「もうここは、君がいた、君の国の書庫ではない。サエリ、この現実を受け入れてくれないか?」
頼み込むように言われた沙絵莉は、思わず顔を引きつらせた。
現実を受け入れてくれって…そんなこと言われても…いまいち、飲み込めないし、理解できないし…
「さあ、花祭りに行こう」
「花祭り…」
無意識に口にした沙絵莉に、アークは笑みを浮かべた。
「ああ」
手を差し伸べてくるアークから、沙絵莉はさっと身を引いた。
「ちょっと待って」
アークを押し止めた沙絵莉は、疑心いっぱいの目で周囲を見回した。
私は今日、アパートを出て、歩いて公園に行って、それから図書館に行った。
そこに、このひとが現れて、花祭りに行こうって。
そしたら、なんか変な感覚に襲われて…そうしたら、書棚はどこにもなくなって、図書館の壁もなくなってて…
テレポーテーションで飛んできたって。ここは私の国だとかって…言ったのよね、このひと。
「サエリ?」
心配の含まれた呼びかけに、沙絵莉はアークをじっと見つめ返し、それからあたりをじっくりと眺めた。
こんもりと木々が生い茂り、地面には鮮やかなグリーンの苔がびっしりと生えている。
彼女はしゃがみ込み、手のひら全体で苔に触れてみた。
図書館の床じゃない。本物の苔の感触。
催眠術で、見えないものが見えるようにされちゃってるのかもしれない。
ここはやっぱり図書館で…
沙絵莉はしゃがみこんだまま、アークを見上げた。
いま彼は、ひどく気掛かりそうに彼女を見つめている。
「これは催眠術なの?」
「催眠術? 暗示はこの国では禁忌だ。法に触れる。もちろん幻でもないぞ」
沙絵莉は彼の顔をまじまじと見つめた。
彼の言っていることは、さっぱり分からない。
「だって、でも、こんなの現実の筈ないわ」
彼女は両手で苔むした地面を思い切り叩いた。
「沙絵莉、落ち着くんだ」
落ち着け? 何をどうやって落ち着けって?
「こんなのっ! 現実じゃ…」
そう叫んだ沙絵莉の額に、彼の手のひらが触れた瞬間、ふっと意識が遠のいた。
ぼんやりとした頭に、名も知らぬ花々が揺れている情景が見えた。
この花…?
意識が徐々にはっきりとしてきて、その花々の輪郭も、はっきりとしてきた。
ゆらゆらと揺れる花に、沙絵莉は知らぬ間に手を伸ばしていた。
頭の中に見えていた不思議な花と同じだ…。
花びらの柔らかな感触が、リアルに手のひらから伝わってきて、沙絵莉は眉をひそめた。
「気がついたか?」
その声に、彼女は横に向けていた顔を正面に戻した。
アークの顔が間近にあった。
彼はすっと手を伸ばしてきて、彼女の額に手のひらをぴったりつけた。
「私の話を静かに聞いて欲しい。サエリ、いいね?」
彼の手のひらから温かなものが流れ込んでくるような感じがして、それとともに彼女の心も落ち着いてゆくようだった。
「なんの説明もせずに、私の国に突然連れてきて、驚かせて悪かった。正直、浮き足立っていたんだ。君が祭りに行ってもいいと言ってくれて…そのまま、後先考えずに飛んできてしまった。サエリ、本当にすまない」
アークは頭を下げ、空いている手でサエリの右手をやさしく握り締めてきた。
額に触れている手のひらと、掴まれている手の温かさのせいか、不思議なほど安心できた。
それに、頭の中が、これまで感じたことがないほど、ずいぶんとクリアだ。
アークの言葉一つ一つが、ストレートに吸収できるというか…
「ここはカーリアン国のシャラドという首都だ。君の国とは違う場所だ。君と私はテレポでやってきたんだ」
沙絵莉は思わず否定して首を横に振った。
頭の下に彼の膝があることに、ここでやっと気づき、驚いて起きあがろうとした彼女をアークがやさしく押しとどめた。
「話が終わるまでは、このままで。いいね」
彼女は無言で頷いたが、この体勢に、自然と頬が染まってゆく。
アークが微笑んだ。あまりに魅力的な笑顔に頭がくらくらした。
彼は沙絵莉の表情を味わうようにしばらくじっと見つめていたが、赤く染まった彼女の頬に指先でそっと触れた瞬間、はっと我に返ったように、咳払いを一つして話の続きをはじめた。
「君にこの国を受け入れてもらいたい。危険なことは何もないし、この場所をあるがまま受け入れて欲しい」
真剣な彼の瞳のせいなのか、彼の手のひらが額に触れているからなのか、沙絵莉は先ほどまでのように混乱したりしなかった。
心が、彼の言葉を受け入れている。
この世界は現実に存在しているらしい。
そして彼は、この世界の住人。
彼はテレポーテーションが使え、二つの世界を行き来出来る。
つまり、正真正銘、彼は魔法使いってことなのだ。
心はそれを真実として受け入れられたようだが、頭はまだまだ否定的なようだ。
心と理性でバランスが取れず、くすぐったいような笑いが胸に込み上げてきた。
沙絵莉は、手で触れられる位置にある花へと、手を伸ばした。
「この花。知ってる。私の夢に…。ううん、そうじゃなくて、目を閉じると見えて…」
澄み切った頭は、いまや冴えに冴えている。
世に名だたる名探偵なみに、一瞬にして答えが出た。
沙絵莉はさっと頭を上げ、上体を起こして彼と対峙した。
「あなたがやったのね!」
頭の中に貼りついていた見たこともない花畑。
それだけじゃない。彼女を恐れさせた様々な不思議な体験。
すべて、彼の仕業だったのではないのか?
「そうよ。あれもそうだったんだわ。リモコンがふわふわ浮いてたり、パソコンが勝手に起動したり。アーク、あなた、私のことからかって、さんざん面白がってたのね?」
いまや火山の噴火顔負けの勢いで、沙絵莉はアークに詰め寄った。
アークは慌てて言い訳をはじめた。
「ち、違う。誤解だ。そんなつもりではなかったんだ」
「やっぱり。あれ、全部、自分がやったと認めるのね?」
沙絵莉は険しい顔で、人差し指を伸ばしてアークの胸を突いた。
その彼女の手首を、彼はそっと握りしめてきた。
「だから、その。つまり。悪かった。…でも悪戯などではないんだ。それは本当だ。サエリ、信じて欲しい」
じっと瞳を覗き込まれ、重ねて「信じてくれるね?」とアークが囁く。
沙絵莉の心臓は、狂ったように鼓動を速めた。
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