白銀の風 アーク

第三章

第八話 受け入れ難き真実



彼の手を握り締めた途端、沙絵莉は全身がふわんと浮いたような、強烈に奇妙な感覚に囚われた。

い、いったい?

頭の中もだし、身体の中身が全部、現実でなくなったような…

リアルなのは、握り締めているアークの手だけ。

恐れが湧き、沙絵莉は彼女の手を痛いほど握り締めている彼の手に縋るように、力一杯握り返していた。

奇妙な感覚が徐々に去り、沙絵莉は自分の身体に感じている、自然な重力に安堵を覚えた。

私ってば…眩暈を起こしたのだろうか?

目を閉じて前屈みになっている沙絵莉の背中に、守るように彼の手が当てられているのに彼女は気づいた。

ふたりの距離の近さと、彼に触れられていることに対して警戒心を抱くべきなのに、そんな余裕はなかった。

「気分は悪くないか?」

いたわるような言葉を掛けられて、沙絵莉は目を開けて上体を起こそうとしたものの、まだ眩暈が治まっていないのか、頭がふらりとしてきゅっと目を閉じた。

「い、いいえ…ごめんなさい。なんか急に…」

そこまで言った沙絵莉は、息苦しさを感じて言葉を止め、一度大きく息を吸い込んだ。

「頭が、身体が、ふわふわして…あ、足が…」

足元がおぼつかず、よろけそうになった沙絵莉は、彼女を咄嗟に支えてくれたアークの身体に取り縋るようにして身体を支えた。

「ご、ごめんなさい。急にどうしたのかしら?」

沙絵莉は額に手を当てて、不安定さがすっかり消えるまで目を閉じていた。

「君は気分が悪くならないんだな。たいしたものだ。ルィランなど酷かったぞ」

「ルィラン? あなたのお友達なの?」

沙絵莉はようやく目を開け、彼女の顔を覗き込んでいたアークの顔を見つめ返した。

思った以上にふたりの顔は近づいていて、心臓がドキンと跳ねた。

「ああ」

頬に彼の温かな息がかかり、沙絵莉は慌てて身を離した。

「あ、あの。も、もう大丈夫みた…」

頬を染めてアークに向けて言っていた沙絵莉は、周囲の風景が視界に入り、絶句した。

な、な、な、なに、ここ……?

沙絵莉は右に顔を向けて、じーっと見つめた。

外?

今度は左に顔を向けて、じーっと見えるものを見つめる。

どうみても外だし。

図書館は? 書棚は? どこに消えたのだ。

彼女は目の前にいるアークを見つめ、心の中で、な、なんで? と、彼に問いかけた。

彼が、なにやらマジックのようなものをやったのか?

催眠術とか、奇術とか…

彼は俳優なんかじゃなくて、マジシャンってやつだったのか?

「サエリ、何も心配はいらない」

心配?

「あ、あなた。どうして私の名前を知ってるの?」

「それは…君の父親だと思うが…君をサエリと呼んでいたから…」

その話に、沙絵莉は驚いた。

「あなた、私の父を知っているの?」

「知っているというわけではないが…お会いしたことは…まあ…ある」

曖昧な返事だったが、彼が沙絵莉の名前を知っていたとか、父を知っているとか会ってるとか、そんな話は二の次三の次でいいということに、彼女はハタと気づいた。

「こ、これって、マジックなの? マジックなんでしょ? 私たち、いま図書館にいるのよね? なのに、どうしてこんな風景が見えてるの?」

「マジック…? 君が口にしているのは…魔法と言ってるのか? それとも奇術?」

目を眇めて、まるで沙絵莉の真意を図ろうとするように、アークは彼女の顔を見つめてくる。

マジックという言葉を彼女がどういう意味合いで使っているかが、彼はずいぶんと気になるらしい。

沙絵莉は苛立った。

「マジックがどんな意味とかどうでもいいわ。私が聞きたいのは、どうしてこんな風景が見えてるのかってことよ」

「ああ、そうか…」

彼はたったいま、何かに気づいたとでもいうように、顔をしかめた。

「そうかって、なに?」

「ここは私の国だ」

「はい?」

「テレポしたんだ」

私の国? テレポ?

「テレポって、テレポーテーション?」

沙絵莉の言葉を聞いたアークは、どうしてかほっとしたような笑みを浮かべた。

「そうだ。共通した言語が存在するということは…君の国にもテレポできる者がいるんだな。もしや、君も出来るのかい?」

出来るのかい?と、彼が爽やかな顔で私に聞いてるこの質問って、テレポーテーションが出来るのかってことなのよね?

「出来るわけないでしょ!」

沙絵莉は思わず大声で叫んだ。が、アークに口を塞がれた。

驚いた沙絵莉は、アークの手を掴んで抵抗した。

「沙絵莉、落ち着いて。ただ、ここであまり大きな声を出すと不味いんだ。声を聞きつけられたら、警備の者が飛んでくるかもしれない」

アークは言い聞かせるように沙絵莉の目を見つめ、彼女の反応を窺いながらゆっくりと手を離した。

「警備のって、図書館の? …だってここは図書館で、この風景はマジックで…」

「もうここは、君がいた、君の国の書庫ではない。サエリ、この現実を受け入れてくれないか?」

頼み込むように言われた沙絵莉は、思わず顔を引きつらせた。

現実を受け入れてくれって…そんなこと言われても…いまいち、飲み込めないし、理解できないし…

「さあ、花祭りに行こう」

「花祭り…」

無意識に口にした沙絵莉に、アークは笑みを浮かべた。

「ああ」

手を差し伸べてくるアークから、沙絵莉はさっと身を引いた。

「ちょっと待って」

アークを押し止めた沙絵莉は、疑心いっぱいの目で周囲を見回した。

私は今日、アパートを出て、歩いて公園に行って、それから図書館に行った。

そこに、このひとが現れて、花祭りに行こうって。

そしたら、なんか変な感覚に襲われて…そうしたら、書棚はどこにもなくなって、図書館の壁もなくなってて…

テレポーテーションで飛んできたって。ここは私の国だとかって…言ったのよね、このひと。

「サエリ?」

心配の含まれた呼びかけに、沙絵莉はアークをじっと見つめ返し、それからあたりをじっくりと眺めた。

こんもりと木々が生い茂り、地面には鮮やかなグリーンの苔がびっしりと生えている。

彼女はしゃがみ込み、手のひら全体で苔に触れてみた。

図書館の床じゃない。本物の苔の感触。

催眠術で、見えないものが見えるようにされちゃってるのかもしれない。

ここはやっぱり図書館で…

沙絵莉はしゃがみこんだまま、アークを見上げた。

いま彼は、ひどく気掛かりそうに彼女を見つめている。

「これは催眠術なの?」

「催眠術? 暗示はこの国では禁忌だ。法に触れる。もちろん幻でもないぞ」

沙絵莉は彼の顔をまじまじと見つめた。
彼の言っていることは、さっぱり分からない。

「だって、でも、こんなの現実の筈ないわ」

彼女は両手で苔むした地面を思い切り叩いた。

「沙絵莉、落ち着くんだ」

落ち着け? 何をどうやって落ち着けって?

「こんなのっ! 現実じゃ…」

そう叫んだ沙絵莉の額に、彼の手のひらが触れた瞬間、ふっと意識が遠のいた。





ぼんやりとした頭に、名も知らぬ花々が揺れている情景が見えた。

この花…?

意識が徐々にはっきりとしてきて、その花々の輪郭も、はっきりとしてきた。

ゆらゆらと揺れる花に、沙絵莉は知らぬ間に手を伸ばしていた。

頭の中に見えていた不思議な花と同じだ…。

花びらの柔らかな感触が、リアルに手のひらから伝わってきて、沙絵莉は眉をひそめた。

「気がついたか?」

その声に、彼女は横に向けていた顔を正面に戻した。

アークの顔が間近にあった。

彼はすっと手を伸ばしてきて、彼女の額に手のひらをぴったりつけた。

「私の話を静かに聞いて欲しい。サエリ、いいね?」

彼の手のひらから温かなものが流れ込んでくるような感じがして、それとともに彼女の心も落ち着いてゆくようだった。

「なんの説明もせずに、私の国に突然連れてきて、驚かせて悪かった。正直、浮き足立っていたんだ。君が祭りに行ってもいいと言ってくれて…そのまま、後先考えずに飛んできてしまった。サエリ、本当にすまない」

アークは頭を下げ、空いている手でサエリの右手をやさしく握り締めてきた。

額に触れている手のひらと、掴まれている手の温かさのせいか、不思議なほど安心できた。

それに、頭の中が、これまで感じたことがないほど、ずいぶんとクリアだ。

アークの言葉一つ一つが、ストレートに吸収できるというか…

「ここはカーリアン国のシャラドという首都だ。君の国とは違う場所だ。君と私はテレポでやってきたんだ」

沙絵莉は思わず否定して首を横に振った。

頭の下に彼の膝があることに、ここでやっと気づき、驚いて起きあがろうとした彼女をアークがやさしく押しとどめた。

「話が終わるまでは、このままで。いいね」

彼女は無言で頷いたが、この体勢に、自然と頬が染まってゆく。

アークが微笑んだ。あまりに魅力的な笑顔に頭がくらくらした。

彼は沙絵莉の表情を味わうようにしばらくじっと見つめていたが、赤く染まった彼女の頬に指先でそっと触れた瞬間、はっと我に返ったように、咳払いを一つして話の続きをはじめた。

「君にこの国を受け入れてもらいたい。危険なことは何もないし、この場所をあるがまま受け入れて欲しい」

真剣な彼の瞳のせいなのか、彼の手のひらが額に触れているからなのか、沙絵莉は先ほどまでのように混乱したりしなかった。

心が、彼の言葉を受け入れている。

この世界は現実に存在しているらしい。

そして彼は、この世界の住人。

彼はテレポーテーションが使え、二つの世界を行き来出来る。

つまり、正真正銘、彼は魔法使いってことなのだ。

心はそれを真実として受け入れられたようだが、頭はまだまだ否定的なようだ。

心と理性でバランスが取れず、くすぐったいような笑いが胸に込み上げてきた。

沙絵莉は、手で触れられる位置にある花へと、手を伸ばした。

「この花。知ってる。私の夢に…。ううん、そうじゃなくて、目を閉じると見えて…」

澄み切った頭は、いまや冴えに冴えている。

世に名だたる名探偵なみに、一瞬にして答えが出た。

沙絵莉はさっと頭を上げ、上体を起こして彼と対峙した。

「あなたがやったのね!」

頭の中に貼りついていた見たこともない花畑。

それだけじゃない。彼女を恐れさせた様々な不思議な体験。

すべて、彼の仕業だったのではないのか?

「そうよ。あれもそうだったんだわ。リモコンがふわふわ浮いてたり、パソコンが勝手に起動したり。アーク、あなた、私のことからかって、さんざん面白がってたのね?」

いまや火山の噴火顔負けの勢いで、沙絵莉はアークに詰め寄った。

アークは慌てて言い訳をはじめた。

「ち、違う。誤解だ。そんなつもりではなかったんだ」

「やっぱり。あれ、全部、自分がやったと認めるのね?」

沙絵莉は険しい顔で、人差し指を伸ばしてアークの胸を突いた。

その彼女の手首を、彼はそっと握りしめてきた。

「だから、その。つまり。悪かった。…でも悪戯などではないんだ。それは本当だ。サエリ、信じて欲しい」

じっと瞳を覗き込まれ、重ねて「信じてくれるね?」とアークが囁く。

沙絵莉の心臓は、狂ったように鼓動を速めた。






   
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