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第七話 もうそれだけで…
昼からの時間、アークは植物を観察して回った。
人のいるところに植わっている木は、毒など持っていないだろうとは思えたが、触るときは極力注意した。
どちらかといえば単純な形態をしていて、魔力の強い興味を引かれるものはなかった。
カーリアンに群生しているありきたりな植物よりも、まだ微弱な魔力しか発しないものばかりだ。
それにしても、この国は彼の国とはかなり異なっている。
魔力はたしかに存在しているのに、その力を表に出す者を見かけないし、魔法の利器も自分の魔力を使わずして誰にでも使えるようなのだ。
そこまで考えて、はたと思い至った。
そういうことか。
この国では、魔力が必要ではない魔法の利器が発明されたことで、必要な魔力を持たなくても誰でも便利な利器を使用できるようになった。
とすれば、文明が進む段階で、自然と個人個人の魔力を必要としなくなり、身体の中で硬化しているか、退化したか。
…もちろん断定はできないが、そんなところではないだろうか。
たぶんこの国の住人は、もともと魔力が弱かったのに違いない。
そうでなければ、こんなにも利器に頼ったりはしないはずだ。
それでも、サエリはテレポの意味を理解したし、種類は違っても、魔法がまったく存在しないというのでもないのだろう。
だが、これすべて、彼の勝手な想像。偏った解釈でしかない。
ここの住人、サエリに話を聞けば解ることだ。
サエリ…?
かがめていた身体を起こし、アークは辺りを窺った。
すでにかなりな時間が経ってしまったようだ。
アークは姿を消し、彼女の気を感じてテレポした。
ここは?
周りを見回して思い出した。
以前、テレポした場所に似ている。
だが、どうしたことかサエリの姿がない。
アークは戸惑って周囲を見回し、もう一度テレポしたが、先ほどの地点から少し移動しただけらしい。
間違いなく、この辺りに彼女はいるはずなのだが…
アークは道路を走っている乗り物に目を凝らした。
もしや、あれに乗って移動しているのだろうか?
安全策を取って、サエリにぶつからないように距離を置くように飛んでいたのだが、もっと接近した地点に飛ぶことにしよう。
次にテレポしたアークは、アッと驚いて飛び退いた。
シャーッという音とともに、サエリが顔面に現れたのだ。
いや、現れたのは彼の方だったか…
ともかく、急きょ飛び退いたが、彼の長い脚は逃げ遅れ、彼女の乗っていた妙ちきりんな乗り物にぶつかってしまった。
見えない障害物によって衝撃を受け、サエリの乗り物は横倒しになった。
だが、とっさに飛び降りたおかげで彼女は無傷だった。
アークは、ほっとして胸を撫で下ろした。
サエリは、びっくり顔で目をぱちくりしている。
幸運なことに、たくさんの通行人がいたにも関わらず、誰にもぶつからずに済んだ。
アークの背後に、「気を付けなさいよね」と、なじるような中年女性の声がした。
慌てて身をかわそうとしたが間に合わず、女は彼にぶつかって物の見事にひっくり返った。
サエリの目が丸くなる。
何もない場所で、おかしな格好で転がった女を面白がって、周囲で笑いが巻き起こり、真っ赤になった女は慌てて起きあがると、逃げるように小走りに去っていった。
通行人が笑いながら女を見送っている間に、サエリは乗り物を起こし、それに腰かけると滑るように走り出した。
今度はアークの目が丸くなった。
サエリはぐんぐんと彼から遠ざかっていく。
まったく不思議な乗り物だ。
不安定で、今にも横転しそうに見えるのに、転びもせずにうまいことバランスを取り、まっすぐに走ってゆく。
アークは感嘆の面もちで、遠ざかってゆくサエリを眺めていた。
妙ちきりんな乗り物との追いかけっこは、覚えのある建物の前で、ようやく幕を閉じた。
アークは建物の正面玄関の自動扉を、懐かしい思いで眺めてしまった。
その間に、サエリは不思議な乗り物を停め、鞄の中から本らしきものを取り出して胸に抱えた。
自分の横をすり抜けてゆくサエリのあとについてゆきながら、アークはにやりと笑った。
これで最初の日、テレポでサエリを見つけられなかった理由が明らかになった。
引っかかりを感じていたわけでもないのに、なんだかもつれたひもを解いてすっきりした気分だ。
彼は書籍の詰まった棚をぐるりと見まわして苦笑した。
この前、サエリを花の祭りに誘ったとき、サエリがいた場所のようだ。
アークは、周りを眺め回しながら、最高に楽しかった花の祭りを思い出して微笑んだ。
あれから半月。まったく長かった。
バッシラ草の魔力消去のための秘儀。
思いを巡らしたアークは、ぐっと顎に力を込めた。
秘儀によって倒れた若者は、アークより三つほど年上だった。
彼の容態が気になってならず、バイラに面会を求めたが、丁重に断られてしまった。
いまどういうことになっているのか、彼は本当に助かるのか聞いても、いまは何も答えられませんと頭を下げるばかりだ。
ジェライドの話では、どうもポンテルスが手を尽くしているらしいのだが…
ポンテルスに直接会って話を聞きたいと思っても、あれ以来姿を見せないし、テレポしようにもポンテルスが強力なシールドを張っているらしく、どこにいるのかアークにも居場所が掴めない。
アークは考え込むのを止めて顔を上げた。
目の前で、本を取り出しては中身を検分し、また戻す作業をしているサエリ…
アークは、万感の思いで彼女を見つめた。
まだ姿を現してはいないのに、ハッとしたように彼女が振り向いた。
一瞬ドキリとしたが、サエリはゆっくりと萎れる花のように、顔を曇らせた。
そして、まるで泣いているかのように、手のひらで目を覆った。
「…アーク」
強ばった彼女の口許から零れた彼の名…
アークの胸に強烈に熱いものが湧き上がった。
「サエリ…」
思わず呼びかけ、アークはサエリの前で姿を見せた。
幻のようにパッと現れたアークを見て、彼女は茫然としている。
喜びと安堵で舞い上がっている自分を感じ、アークはつい苦笑した。
その苦笑は、サエリの勘に障ったらしい。彼女の目に怒りが表れたのを見て、アークは笑みを消した。
突然目の前に現れて、軽く笑っているアークを見て、沙絵莉はいいようのないほど激しい怒りが胸に突き上げた。
花の祭りから、まったく姿を現さなかったアーク。
その間、空耳のような声を一度聞いただけ…
そんな彼のことを思って、ずっとずっと苦しんでいたのに…
自分の都合で、現れては消え、便りのひとつもよこさず…
空耳のような声を一度聞いたきり…
まったく何の連絡もしないでおいて、気が向いたからやって来ましたというような、この軽い感じは、いったい何!!
魅力的な笑顔を浮かべれば、なんでも許されるってものじゃないのよっ!!
沙絵莉の顔を見つめていたアークは、恐れるように一歩後ずさった。
「あ、あの…サエ…」
「消えてっ!」
大声で怒鳴った沙絵莉は、自分のいる場所を思い出してパッと口を覆った。
図書館の中にひとはそんなにいなかったが、それでも無人ではない。
周りを見回したが、誰も来る気配はなく、沙絵莉はほっとした。だが、アークへの怒りが消えたわけではない。
「サ、サエリ?」
呼びかけてきたアークを、沙絵莉はギロリと睨んだ。
「顔も見たくないわ」
抑えた口調で言い、沙絵莉は後ろを向いた。
彼の方から、また何か言ってくるだろうと、しばらく待ったが、どうしたのかなんとも声を掛けてこない。
ま、まさか、自分の世界に帰ってしまった?
不安になった沙絵莉は、そっと後ろを窺ってみた。
いない!
「嘘っ!」
沙絵莉は驚きの叫びを上げ、彼の姿を探して棚の周りをぐるぐる回った。
どこにもいない。本当に帰ってしまったのか…
哀しさと切なさが胸にせり上がってきて、下瞼に涙が膨れ上がった。
沙絵莉は両手で顔を覆った。
腕に何かが触れた。沙絵莉ははっとして顔を向けた。
そこにアークの姿が現れた。
沙絵莉は慌てて涙を拭い、背筋をすっと伸ばした。
「き、消えてって言ったでしょ…」
蚊の鳴くような声でそっけなく言ったものの、頬が燃えるように熱くなった。
「そんなに言うなら、消えていよう」
言葉の途中でアークは姿を消した。
そして、「君が、それがいいなら」とすぐに続けた。
腕には、アークが触れている感覚がリアルに残っている。
「い、忙しかったの?」
沙絵莉は、目の前の書棚から本を抜き出し、開いてみながらアークに尋ねた。
「ああ。花の祭りの直後、大きな問題が…」
「問題? どんな?」
「それは…すまない。教えられないんだ」
アークの言う問題というのがどんなものなのか、もちろん沙絵莉にはまったく想像がつかない。
けど、彼の声には、精神的な疲れが滲んでいた。
他の世界で遊びまわっていたということではなさそうだ。
忙しかったのなら仕方がない。
ここに飛んでくるのも、ひどく魔力を使うのだと言っていたし…
ずっとアークの手が自分の腕をやわらかく掴んでいる感覚に、なんとも落ち着かない気分になり、沙絵莉は手にした本を持ち、図書館から出ることにした。
ここにいては、異世界のひとである彼と思うように話が出来ないし、ちゃんと姿を目にして語りたい。
彼は服装もその容姿も酷くひと目を引くだろうし、アパートに帰り着くまでは、姿を消したままにしておいてもらったほうが、良さそうだ。
沙絵莉は図書館のカウンターまで、姿を消しているアークを従えて歩き、感じのいい笑顔を見せてる、馴染みの図書館員に二冊の本を差し出した。
「柏田さん、リクエストの本だけど、来てたみたいよ。ええと、なんて題名だったかしらねぇ」
図書館員は後ろを向き、探しはじめた。
「『秘められし心』それと、『春に…」
沙絵莉は、リクエストした本のタイトルを思い出しながら、図書館員に向かって口にした。
「はいはい、あったわ、『秘められし心』ね。でも、もう一冊は届いていないみたい」
「それなら、ちょうどよかったです。まだ二冊借りたままだし、この二冊借りるから、借りられるのはあと一冊ですから」
「そう」
親しみを込めて頷いた図書館員が、受付を終えた本を手渡してきた。
沙絵莉が本を受け取ったとき、「ググーッ」と、派手にお腹のなる音が響いた。
静かな館内に響き渡った音…沙絵莉のお腹が鳴ったと思われたに違いない。
受付の女性は、思いやりから沙絵莉と目を合わせない。
自分ではないなんて言い訳は、もちろん通用しないだろう。
真っ赤になった沙絵莉は、本を抱えてくるりと後ろを向き、周囲の目が自分に注がれているのに気づき、フルスピードで階段を駆け下りた。
玄関を出たところで「すまぬ」とアークの、ひどく申し訳無さそうな声がした。
沙絵莉は自転車まで無言で駆けて行った。
それはもう恥ずかしかったけど、笑いが込み上げてならなかった。
自転車に手を掛けた沙絵莉は、前屈みになってなんとか笑いを堪えようとしたものの、どうにもたまらず声を上げて笑い出した。
「信じられないわ」
沙絵莉は息つぎの合間に呟いた。
そして彼がいるに違いない空間を見つめた。
「アーク?」
「あ、ああ…」
口ごもりつつのアークの返事。
けれど沙絵莉には充分だった。
彼がここにいてくれれば、もうそれだけで…
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