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第九話 世界の違い
パン屋では、アークを自転車のところで待たせて置いてパンを買い、沙絵莉はアークとともにアパートに帰り着いた。
なんだかずいぶん長旅をした気分だった。
「サエリ、私が持とう。ここでなら姿を見せてもいいだろう?」
自転車置き場には、確かに誰もいない。だが、絶対に誰からも見られていないとは保証できない。
「大丈夫、持って行けるわ。部屋まで姿を消しておいてくれたほうがいいから」
「だが…君にばかり…」
「アーク、黙って…」
アパートの住人が階段を降りてくるのに気づき、沙絵莉は慌ててアークを止めた。
やはり、ここで姿を見せるのは危険だ。
アークがパッと現れるのを見られたりしたら、この間の噂同様、とんでもない騒ぎになるに違いない。
一緒に沙絵莉がいたのでは、なおさらまずいことになる。
「こんにちは。今日は、ずいぶんな荷物ね」
「あ、はい。こんにちは。ちょっと買いすぎちゃって」
沙絵莉は照れつつ答えた。
彼女の隣に住んでいる奥さんだ。小さな子どもがふたりいる。
このアパート、沙絵莉以外は新婚さんか、小さな子どものいる夫婦ばかりなのだ。
「ケチャップ買い忘れちゃって、またスーパーまで行かなきゃならなくなっちゃったのよぉ。ほんと、私ってば、うっかり者で参るわぁ」
自分に対して呆れたように言いつつも楽しげに笑いながら、お隣さんは自転車に乗り込んで出かけて行った。
沙絵莉はダンボール箱とバッグとパン屋の袋を一緒に抱えようとしたが、さすがにこれだけの荷物を持ってでは、階段を上れそうもなかった。
ダンボール箱の荷物は、あとにしよう。
そう決めて、沙絵莉はバッグとパン屋の袋だけを持ち、アークのいると思われる空間に視線を向けた。
「アーク、この荷物は後で取りに来ることにして…とにかく部屋に行きましょう」
「わかった」
小声で話しかけた沙絵莉に、アークも微かな声で返事をする。
彼がまだちゃんとここにいることを確認した沙絵莉は、ほっとしつつ階段を上った。
鍵を開けて部屋の中に入った彼女は、さっと後ろに振り返った。
アークの姿がそこにあった。
喜びと切なさが急激に込み上げ、理性をしっかり保っていないと、彼の身体にとびついてしまいそうだ。
「…ひさしぶりね」
沙絵莉は両手を握りしめて涙をこらえ、アークに呼びかけた。
「ああ」
「花の祭りから、全然やってこなかったから…どうしたのかなって…ずっと…」
「すぐに来るつもりだったんだ。だが…」
沙絵莉を見つめて話していたアークは、急に口をつぐんだ。
「そんなに忙しかったの?」
「ああ、色々なことが起こって…」
沙絵莉には、どうしても話せない内容らしい。
「アーク、部屋に上がってくつろいでいてちょうだい。私、荷物を取ってくるから」
「サエリ…助けになれずすまない」
言葉どおり、ひどく済まなそうに言うアークに、沙絵莉は笑った。
「力になってもらえるところでは、お願いするわ。さあ」
沙絵莉はアークの手を取り、彼を居間に連れて行った。
彼の姿が見えているからか、先程より一緒にいるのだという気持ちが膨らんできて、思わず笑みが零れる。
「ここに座ってて。すぐに戻るから」
そう口にした沙絵莉は、彼に背を向けたが、不安が湧いてもう一度振り返った。
「アーク、あの…私が戻るまでにいなくなったりしないでね」
「…あ、ああ。もちろんだ。待っている」
ほっとした沙絵莉は笑みを浮かべて頷き、玄関へと急いだ。
それにしても、魔法の存在する異世界で起こったらしい、語れない出来事とは、いったい、どんなものなのだろう?
悪い魔法使いが暴れたりとか、ドラゴンが町を襲ったりとか…
階段を下りながら、そんなファンタジックな想像をした沙絵莉だったが、花の祭りで訪れたアークの世界を思い出して、自分を笑った。
彼の世界に魔法は確かに存在してたし、異世界そのものだったけど…とても平和そうだった。
色んな種族のひとがいて…沙絵莉が見たところでは、種族同士でいがみ合ったりとかはしていなかった。
段ボール箱を抱えて戻った沙絵莉は、冷蔵庫からウーロン茶の缶をひとつ取り出し、アークのところに持っていった。
「すぐに何か作るから。これ飲んでいてね」
「これは…カンヅメかい?」
物珍しげに手の中で缶をくるくる回すアークを見て、沙絵莉は微笑んだ。
「これは缶詰じゃないわ。飲み物…お茶よ。貸して」
沙絵莉はアークから缶を受け取り、彼に見せながら缶を開けた。
「こうやって開けるの。口に合うかわからないけど…」
「飲んでみよう」
アークは眉をしかめつつ口元に持ってゆき、こくりと一口に飲んだ。
「どう?」
「あ、ああ…そうだな、悪くない味だ」
「そう。良かった」
ずっとこうしてアークを見ていたいが、早く何か食べさせてあげないと、また彼のお腹の虫が泣き出すかもしれない。
「それじゃ、待っててね」
沙絵莉はまずパンを幾種類かオーブンで温め、アークに出した。
「先にこれ食べてて」
「パンか、うん、美味しそうだ」
「えっ、アークのところにもパンがあるの?」
「あるさ。君と私の国で、何もかもが違うわけじゃない」
「ふ、ふーん、そんなものかしら?」
アークは沙絵莉の言葉に笑いながら、クロワッサンを手に取り、上品な手つきで一口に千切り、口に頬張る。
「うん。独特の味わいだが、これも悪くない」
どうやら、彼は沙絵莉の世界にあっさりと馴染めるようだった。
考えてみたら、沙絵莉だってアークの世界のものを美味しいと思ったし、けっこうなんでも簡単に馴染んだのだった。
魔法すらあんなに簡単に受け入れられたのだから、ひとというのはかなり順応性があるってことなんだろう。
すぐに料理に取り掛かろうと思ったのに、パンを食べはじめたアークは、矢継ぎ早に質問しはじめた。
パンの材料、作り方。オーブンの使い方に、その仕組み…
沙絵莉は彼女にわかる範囲内で答えたが、オーブンの仕組みなど知るはずもない。
「ごめんなさい。オーブンの使い方は分かるけど、仕組みは私にはわからないわ」
「おもしろいな」
「えっ?」
「いや、君たちの国の利器はひどく複雑な仕組みだ。それらの仕組みを知らずとも使えるというのはおもしろい」
「そう? アークのところでは、パンはどんなもので焼くの?」
「かまどだ。火で焼く。わかるか?」
沙絵莉は笑った。
「もちろんわかるわ。オーブンが発明されるまでは、そんな風にして焼いてたわけだし…いまもかまどで焼いてるひともいると思うわ」
「やはりそうか。そうだ、サエリ。これは凄いものだな」
アークは、テレビに向けて指をさす。
そうだった。アークときたら、沙絵莉の知らぬ間に、姿を消してここに来ていたのだ。
テレビやパソコンを触って、沙絵莉を仰天させた。
ほんとにもぉ〜。
「サエリ?」
「ねえ、私が母の家にいたとき、一度あなたの声が聞こえた気がしたの。あれは、アーク、あなただったのよね?」
「あ、ああ」
やっぱり…
「姿を消してたんでしょ? どうして姿を見せないまま、いなくなっちゃったの?」
あの時の感情がよみがえったせいで、沙絵莉は思わず責めるように言っていた。
「来てはいない」
「えっ? そ、それじゃ…」
「あのとき、君の声が聞こえたんだ。…それで通信の…」
「それじゃあ、あのとき、あなたはどこにいたの?」
「私の国に…」
そう口にするアークの顔が突然歪み、ひどく苦しげな影がさし、沙絵莉は驚いた。
「アーク、ど、どうしたの?」
アークは答えなかった。だが、彼が胸にひどい苦悩を抱えていることは感じられた。
沙絵莉はアークの瞳をじっと覗き込んだ。
その瞬間、互いの心が通じ合ったかのように、沙絵莉は言葉に出来ない温かな感覚に包まれた。
ふたりの特別な繋がりを邪魔したのは、彼女の服から聞こえはじめたメロディだった。
沙絵莉は夢から現実に立ち返るかのように瞬きし、ポケットをまさぐって携帯電話を取り出した。
美月からだった。
明日は土曜日。この週末も母親のところへ行くことになっているのだが、母のところへ行く前に遊びに来ないかという誘いだ。
アークが明日も来るかなどわからないが、もしものために開けて置きたい。
「ごめんなさい。明日は用事があって…」
美月に返事をしつつ、沙絵莉はアークに視線を向けた。
彼の目は、沙絵莉が手にしている携帯電話に釘付けになっている。
『そ、そう…』
「あ、あの、美月さん」
ひどく気落ちしたような美月の声に、申し訳なさが湧き、沙絵莉は慌てて言葉をかけた。
「この間いただいた小物入れ、ありがとうございました。使わせていただいています」
『えっ、そ、そう。気に入ってもらえたの?』
「はい。とても。…それじゃ、あの、美月さん、お誘いありがとう」
沙絵莉は複雑な思いで電話を切り、まだ携帯に興味の目を向け続けているアークに携帯を差し出した。
「いいのか?」
「ええ。でも、アーク、見るだけよ」
「わかった」
そう答えたものの、どうもアークは上の空という感じだ。
子どものように携帯に夢中になっているアークを見て、沙絵莉は笑いを堪えた。
アークが携帯電話を観察している間に、沙絵莉は着替えを済ませて台所に立った。
鼻歌を歌いながらレタスをむいていると、携帯電話が目の前にぶら下がった。
『もしもし、沙絵莉。ど、どうしたの! 何かあったの? さ、沙絵莉、沙絵莉ったらぁ』
逼迫した泰美の大声が、ぷらぷら揺れる携帯から飛び出てくる。
着信音は聞こえてこなかった。とすると、アークが誤まってかけてしまったのだろう。
慌てた沙絵莉は、水浸しの手で受け取った。
「あの、ご、ごめん、泰美。間違ってかかっちゃったみたい。知らない間に…。慌てさせちゃって、ほんとごめんね」
「な、なんだー。びっくりさせないでよー。強盗か、痴漢か、通り魔殺人にでも遭ったかと思って、肝を潰しちゃったわ」
大袈裟でなくハアハアと息を吐いている。
『いっけない。わたしいまバイト中なんだよ、切るね』
「あ、ありがとう」
沙絵莉は、泰美のやさしさに、胸いっぱいになりながら感謝を込めて言ったが、すでに携帯は切れていた。次に彼女に会ったら、お礼を言わないと…
そう心に決めつつ、携帯電話を右手に握りしめ、水浸しのレタスを片方の手にぶらさげたまま、沙絵莉はアークに顔を向けた。
彼はひどくしょげかえった顔をしていて、叱られるのが分かっていて、まるで小さくなっている子どものようだった。
吹き出しそうになった沙絵莉は、なんとか笑いを堪えた。
「気にしないで、アーク。使い方も教えずに渡した私がいけなかったんだから」
「私は、君に迷惑ばかりかけている」
どうもアークは、その迷惑のひとつひとつを思い出して数えているようだ。
沙絵莉はアークの手を取って握り締めた。
彼女は、いまこうしてアークがここにいてくれるだけで嬉しいというのに…
「あなたは、この世界に疎いんですもの、当然だわ。私だって、あなたの世界に行ったら、困った事態を引き起こして迷惑をかけると思うわ」
「花の祭りのとき、君は一度も迷惑をかけたりしなかった」
「そんなことないわ。ほら、わたしってば、美味しそうな匂いの魔法ってのに騙されるところだったの、アークが助けてくれたんじゃない。それに今回のことは、前もってなんの説明もしなかった私の落ち度だわ。アーク、ごめんなさい」
「サエリ…」
沙絵莉はアークに向けて、微笑みかけた。
アークは照れたように笑った。
その笑みに、沙絵莉は胸がきゅんとした
沙絵莉が料理を再開すると、アークは手伝いを申し出てきた。
迷ったものの、彼女はサラダ作りを任せることにした。
サラダなら、誰だって出来るだろう。
沙絵莉はフライパンで肉を焼き始めた。
香ばしい匂いがしはじめると、アークが横から物問いたそうに覗き込んできた。
「あっ、まさか、動物の肉は食べないなんてこと…」
「肉は食べるさ。だけどこれは、どういった動物の肉なんだ?」
「牛だけど。わかる?」
「ウシ?」
「ええ」
どうやら、アークの世界に牛はいないようだ。
「説明が難しいわ。牛の写真でもあれば別だけど」
「シャシン? ウシというのは動物の名だろう。シャシンとはなんだい?」
「あとで説明してあげるわ。いまは食べましょう。まだお腹空いてるでしょ?」
沙絵莉はそう言いつつ、アーク手作りのサラダに目を向けた。
なんとも独創的なサラダが出来上がっていた。
世界の違いを見せつけられた気分で、沙絵莉は堪えきれずに笑い声を上げた。
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