白銀の風 アーク

第四章

第九話 世界の違い



パン屋では、アークを自転車のところで待たせて置いてパンを買い、沙絵莉はアークとともにアパートに帰り着いた。

なんだかずいぶん長旅をした気分だった。

「サエリ、私が持とう。ここでなら姿を見せてもいいだろう?」

自転車置き場には、確かに誰もいない。だが、絶対に誰からも見られていないとは保証できない。

「大丈夫、持って行けるわ。部屋まで姿を消しておいてくれたほうがいいから」

「だが…君にばかり…」

「アーク、黙って…」

アパートの住人が階段を降りてくるのに気づき、沙絵莉は慌ててアークを止めた。

やはり、ここで姿を見せるのは危険だ。

アークがパッと現れるのを見られたりしたら、この間の噂同様、とんでもない騒ぎになるに違いない。

一緒に沙絵莉がいたのでは、なおさらまずいことになる。

「こんにちは。今日は、ずいぶんな荷物ね」

「あ、はい。こんにちは。ちょっと買いすぎちゃって」

沙絵莉は照れつつ答えた。
彼女の隣に住んでいる奥さんだ。小さな子どもがふたりいる。

このアパート、沙絵莉以外は新婚さんか、小さな子どものいる夫婦ばかりなのだ。

「ケチャップ買い忘れちゃって、またスーパーまで行かなきゃならなくなっちゃったのよぉ。ほんと、私ってば、うっかり者で参るわぁ」

自分に対して呆れたように言いつつも楽しげに笑いながら、お隣さんは自転車に乗り込んで出かけて行った。

沙絵莉はダンボール箱とバッグとパン屋の袋を一緒に抱えようとしたが、さすがにこれだけの荷物を持ってでは、階段を上れそうもなかった。

ダンボール箱の荷物は、あとにしよう。

そう決めて、沙絵莉はバッグとパン屋の袋だけを持ち、アークのいると思われる空間に視線を向けた。

「アーク、この荷物は後で取りに来ることにして…とにかく部屋に行きましょう」

「わかった」

小声で話しかけた沙絵莉に、アークも微かな声で返事をする。

彼がまだちゃんとここにいることを確認した沙絵莉は、ほっとしつつ階段を上った。

鍵を開けて部屋の中に入った彼女は、さっと後ろに振り返った。

アークの姿がそこにあった。

喜びと切なさが急激に込み上げ、理性をしっかり保っていないと、彼の身体にとびついてしまいそうだ。

「…ひさしぶりね」

沙絵莉は両手を握りしめて涙をこらえ、アークに呼びかけた。

「ああ」

「花の祭りから、全然やってこなかったから…どうしたのかなって…ずっと…」

「すぐに来るつもりだったんだ。だが…」

沙絵莉を見つめて話していたアークは、急に口をつぐんだ。

「そんなに忙しかったの?」

「ああ、色々なことが起こって…」

沙絵莉には、どうしても話せない内容らしい。

「アーク、部屋に上がってくつろいでいてちょうだい。私、荷物を取ってくるから」

「サエリ…助けになれずすまない」

言葉どおり、ひどく済まなそうに言うアークに、沙絵莉は笑った。

「力になってもらえるところでは、お願いするわ。さあ」

沙絵莉はアークの手を取り、彼を居間に連れて行った。

彼の姿が見えているからか、先程より一緒にいるのだという気持ちが膨らんできて、思わず笑みが零れる。

「ここに座ってて。すぐに戻るから」

そう口にした沙絵莉は、彼に背を向けたが、不安が湧いてもう一度振り返った。

「アーク、あの…私が戻るまでにいなくなったりしないでね」

「…あ、ああ。もちろんだ。待っている」

ほっとした沙絵莉は笑みを浮かべて頷き、玄関へと急いだ。

それにしても、魔法の存在する異世界で起こったらしい、語れない出来事とは、いったい、どんなものなのだろう?

悪い魔法使いが暴れたりとか、ドラゴンが町を襲ったりとか…

階段を下りながら、そんなファンタジックな想像をした沙絵莉だったが、花の祭りで訪れたアークの世界を思い出して、自分を笑った。

彼の世界に魔法は確かに存在してたし、異世界そのものだったけど…とても平和そうだった。

色んな種族のひとがいて…沙絵莉が見たところでは、種族同士でいがみ合ったりとかはしていなかった。


段ボール箱を抱えて戻った沙絵莉は、冷蔵庫からウーロン茶の缶をひとつ取り出し、アークのところに持っていった。

「すぐに何か作るから。これ飲んでいてね」

「これは…カンヅメかい?」

物珍しげに手の中で缶をくるくる回すアークを見て、沙絵莉は微笑んだ。

「これは缶詰じゃないわ。飲み物…お茶よ。貸して」

沙絵莉はアークから缶を受け取り、彼に見せながら缶を開けた。

「こうやって開けるの。口に合うかわからないけど…」

「飲んでみよう」

アークは眉をしかめつつ口元に持ってゆき、こくりと一口に飲んだ。

「どう?」

「あ、ああ…そうだな、悪くない味だ」

「そう。良かった」

ずっとこうしてアークを見ていたいが、早く何か食べさせてあげないと、また彼のお腹の虫が泣き出すかもしれない。

「それじゃ、待っててね」

沙絵莉はまずパンを幾種類かオーブンで温め、アークに出した。

「先にこれ食べてて」

「パンか、うん、美味しそうだ」

「えっ、アークのところにもパンがあるの?」

「あるさ。君と私の国で、何もかもが違うわけじゃない」

「ふ、ふーん、そんなものかしら?」

アークは沙絵莉の言葉に笑いながら、クロワッサンを手に取り、上品な手つきで一口に千切り、口に頬張る。

「うん。独特の味わいだが、これも悪くない」

どうやら、彼は沙絵莉の世界にあっさりと馴染めるようだった。

考えてみたら、沙絵莉だってアークの世界のものを美味しいと思ったし、けっこうなんでも簡単に馴染んだのだった。

魔法すらあんなに簡単に受け入れられたのだから、ひとというのはかなり順応性があるってことなんだろう。

すぐに料理に取り掛かろうと思ったのに、パンを食べはじめたアークは、矢継ぎ早に質問しはじめた。

パンの材料、作り方。オーブンの使い方に、その仕組み…

沙絵莉は彼女にわかる範囲内で答えたが、オーブンの仕組みなど知るはずもない。

「ごめんなさい。オーブンの使い方は分かるけど、仕組みは私にはわからないわ」

「おもしろいな」

「えっ?」

「いや、君たちの国の利器はひどく複雑な仕組みだ。それらの仕組みを知らずとも使えるというのはおもしろい」

「そう? アークのところでは、パンはどんなもので焼くの?」

「かまどだ。火で焼く。わかるか?」

沙絵莉は笑った。

「もちろんわかるわ。オーブンが発明されるまでは、そんな風にして焼いてたわけだし…いまもかまどで焼いてるひともいると思うわ」

「やはりそうか。そうだ、サエリ。これは凄いものだな」

アークは、テレビに向けて指をさす。

そうだった。アークときたら、沙絵莉の知らぬ間に、姿を消してここに来ていたのだ。

テレビやパソコンを触って、沙絵莉を仰天させた。

ほんとにもぉ〜。

「サエリ?」

「ねえ、私が母の家にいたとき、一度あなたの声が聞こえた気がしたの。あれは、アーク、あなただったのよね?」

「あ、ああ」

やっぱり…

「姿を消してたんでしょ? どうして姿を見せないまま、いなくなっちゃったの?」

あの時の感情がよみがえったせいで、沙絵莉は思わず責めるように言っていた。

「来てはいない」

「えっ? そ、それじゃ…」

「あのとき、君の声が聞こえたんだ。…それで通信の…」

「それじゃあ、あのとき、あなたはどこにいたの?」

「私の国に…」

そう口にするアークの顔が突然歪み、ひどく苦しげな影がさし、沙絵莉は驚いた。

「アーク、ど、どうしたの?」

アークは答えなかった。だが、彼が胸にひどい苦悩を抱えていることは感じられた。

沙絵莉はアークの瞳をじっと覗き込んだ。

その瞬間、互いの心が通じ合ったかのように、沙絵莉は言葉に出来ない温かな感覚に包まれた。

ふたりの特別な繋がりを邪魔したのは、彼女の服から聞こえはじめたメロディだった。

沙絵莉は夢から現実に立ち返るかのように瞬きし、ポケットをまさぐって携帯電話を取り出した。

美月からだった。

明日は土曜日。この週末も母親のところへ行くことになっているのだが、母のところへ行く前に遊びに来ないかという誘いだ。

アークが明日も来るかなどわからないが、もしものために開けて置きたい。

「ごめんなさい。明日は用事があって…」

美月に返事をしつつ、沙絵莉はアークに視線を向けた。

彼の目は、沙絵莉が手にしている携帯電話に釘付けになっている。

『そ、そう…』

「あ、あの、美月さん」

ひどく気落ちしたような美月の声に、申し訳なさが湧き、沙絵莉は慌てて言葉をかけた。

「この間いただいた小物入れ、ありがとうございました。使わせていただいています」

『えっ、そ、そう。気に入ってもらえたの?』

「はい。とても。…それじゃ、あの、美月さん、お誘いありがとう」

沙絵莉は複雑な思いで電話を切り、まだ携帯に興味の目を向け続けているアークに携帯を差し出した。

「いいのか?」

「ええ。でも、アーク、見るだけよ」

「わかった」

そう答えたものの、どうもアークは上の空という感じだ。

子どものように携帯に夢中になっているアークを見て、沙絵莉は笑いを堪えた。

アークが携帯電話を観察している間に、沙絵莉は着替えを済ませて台所に立った。

鼻歌を歌いながらレタスをむいていると、携帯電話が目の前にぶら下がった。

『もしもし、沙絵莉。ど、どうしたの! 何かあったの? さ、沙絵莉、沙絵莉ったらぁ』

逼迫した泰美の大声が、ぷらぷら揺れる携帯から飛び出てくる。

着信音は聞こえてこなかった。とすると、アークが誤まってかけてしまったのだろう。

慌てた沙絵莉は、水浸しの手で受け取った。

「あの、ご、ごめん、泰美。間違ってかかっちゃったみたい。知らない間に…。慌てさせちゃって、ほんとごめんね」

「な、なんだー。びっくりさせないでよー。強盗か、痴漢か、通り魔殺人にでも遭ったかと思って、肝を潰しちゃったわ」

大袈裟でなくハアハアと息を吐いている。

『いっけない。わたしいまバイト中なんだよ、切るね』

「あ、ありがとう」

沙絵莉は、泰美のやさしさに、胸いっぱいになりながら感謝を込めて言ったが、すでに携帯は切れていた。次に彼女に会ったら、お礼を言わないと…

そう心に決めつつ、携帯電話を右手に握りしめ、水浸しのレタスを片方の手にぶらさげたまま、沙絵莉はアークに顔を向けた。

彼はひどくしょげかえった顔をしていて、叱られるのが分かっていて、まるで小さくなっている子どものようだった。

吹き出しそうになった沙絵莉は、なんとか笑いを堪えた。

「気にしないで、アーク。使い方も教えずに渡した私がいけなかったんだから」

「私は、君に迷惑ばかりかけている」

どうもアークは、その迷惑のひとつひとつを思い出して数えているようだ。

沙絵莉はアークの手を取って握り締めた。

彼女は、いまこうしてアークがここにいてくれるだけで嬉しいというのに…

「あなたは、この世界に疎いんですもの、当然だわ。私だって、あなたの世界に行ったら、困った事態を引き起こして迷惑をかけると思うわ」

「花の祭りのとき、君は一度も迷惑をかけたりしなかった」

「そんなことないわ。ほら、わたしってば、美味しそうな匂いの魔法ってのに騙されるところだったの、アークが助けてくれたんじゃない。それに今回のことは、前もってなんの説明もしなかった私の落ち度だわ。アーク、ごめんなさい」

「サエリ…」

沙絵莉はアークに向けて、微笑みかけた。

アークは照れたように笑った。
その笑みに、沙絵莉は胸がきゅんとした

沙絵莉が料理を再開すると、アークは手伝いを申し出てきた。

迷ったものの、彼女はサラダ作りを任せることにした。

サラダなら、誰だって出来るだろう。

沙絵莉はフライパンで肉を焼き始めた。

香ばしい匂いがしはじめると、アークが横から物問いたそうに覗き込んできた。

「あっ、まさか、動物の肉は食べないなんてこと…」

「肉は食べるさ。だけどこれは、どういった動物の肉なんだ?」

「牛だけど。わかる?」

「ウシ?」

「ええ」

どうやら、アークの世界に牛はいないようだ。

「説明が難しいわ。牛の写真でもあれば別だけど」

「シャシン? ウシというのは動物の名だろう。シャシンとはなんだい?」

「あとで説明してあげるわ。いまは食べましょう。まだお腹空いてるでしょ?」

沙絵莉はそう言いつつ、アーク手作りのサラダに目を向けた。

なんとも独創的なサラダが出来上がっていた。

世界の違いを見せつけられた気分で、沙絵莉は堪えきれずに笑い声を上げた。






   
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