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第五話 胸キュンな眼差し
「アーク」
囁くように呟き、沙絵莉は周囲に視線を走らせた。
そして返事がないことに、ため息をつく。
まったく…私ときたら、今朝起きてから、数え切れないほど同じことを繰り返している。
やめようと思うのだが、ほとんど無意識に呼んでしまう。
本当にいないのかしら?
店内をぐるりと見回してみた沙絵莉は、その途中で店員と目をかち合わせてしまった。
ぎょっとした彼女は曖昧に笑み、急いで視線を逸らした。
あ、怪しい客と思われたんじゃないだろうか?
こんな挙動不審な行動を取ってたら、万引きと疑われてしまいかねない。
や、止めなきゃ…
自分に言い聞かせ、沙絵莉は目の前に陳列されているビデオカメラに目を据えた。
値段を見てうーんと唸る。
親のすねをかじって生活している者の買う代物ではない。
確かに買えるだけのお金は持っているし、買ってしまうとこれからの生活に困るというわけではないのだが…
やはり高価な物だし、必需品というわけでもないから、買うことにためらいを感じてしまう。
それでも……アークがとても興味を引かれていた物だし…
誰か貸してくれないだろうか?
もしかすると、岡本の家にはあるかも知れない。
人の気配を背後に感じ、ハッとした彼女は顔をほころばせて振り返り、「アーク」と叫んだ。
うっ!
…し、しまった。
この店の店員ではないか。
「あ、あーの。お客さん、ビデオカメラを…」
声をかけたお客から、笑顔満面でアークと意味不明な言葉を食らった若い店員、当然だが、ひどく戸惑い顔でそう言いつつ、ビデオカメラを指す。
「あ、ど、どうも」
顔を引きつらせていた沙絵莉は、なんとか取り澄まし、客らしく返事をした。
「は、はい。お客さん、ビデオカメラが…を、ご、ご購入の予定とかで、いらっしゃいますっ…し、したか?」
ずいぶんと詰まりながら、ようやくの体で言葉を言い終えた店員は、息苦しそうにハッハッ息を吐き出した。
相手の余裕のなさのおかげで、焦っていた沙絵莉だが、一瞬にして余裕を取り戻せた。
店員の胸についている大きな名札に目をやると、吉田という名前の上に、見習いと大きな字が添えられている。
確かに見習いさんなのだろう。
彼はコチコチになりながらも、一生懸命に製品の説明を始めた。
正直、説明などいらなかったのだが…その真剣さに水を差すことができない。
せっかくの彼の意気をくじくわけにもゆかず、彼女は専門的過ぎて理解できない説明を、真面目な顔で長いこと聞く羽目になった。
「吉田君、ちょっといいかな」
見習いの吉田君は「はい、主任」と直立不動で声の主に向いた。が、その顔はとことん不安そうだ。
「レジが込んで来てるんだ。そっち回ってくれる」
背筋をぴんと張ったまま、吉田君はガバッと頭を下げ、レジへとまっすぐに向かっていった。
その姿は、さながら行進する兵隊のようで、どうにも笑いが込み上げてしまう。
「お客様、すみません。うちの見習いがご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
このひとは、さっき目があった店員さんだ。
「いいえ、とても詳しく説明していただけて」
「そうですか。ならいいんですけど。ロボッチは客の対応が…」
「ロボッチ?」
「あ、しまった。つい口から出ちゃったな」
店員の顔に、人間味がぽろりと出た感じで、沙絵莉はくすくす笑った。
それにロボッチと名付けられた見習い君も、どうやら温かく見守られているようで、なぜかほっとする。しかし、ロボッチとは…
「言い得て妙ですね。いえ、悪い意味でなく…」
「そうですか? 実は僕が付けたんです。ちなみに僕はお調子者と呼ばれています」
沙絵莉はブッと吹いた。
うけたのが嬉しいらしく、彼は人のいい顔でニカニカしている。
「それで、ビデオカメラがご入用なんですか?」
「そうなんですけど、やっぱりお値段が張るなって」
彼はふむふむと相槌を打ち、メーカー、価格、性能を比較して簡潔に説明してくれた。
「それでいくと、やはり、これが一番お値打ちでしょうか」
彼が自信を持って勧める品物は、それでも十万はくだらない。
眉を寄せて悩んでいる彼女を目にして、彼はにっこりする。
「ゆっくり考えて決めて下さい。電化製品は大根や雑誌を買うみたいにはいかないですからね」
「そのくらいお安かったら、悩んだりしないんですけどねぇ」
「ほんと、ほんと。そのくらい安かったら、売るのに苦労しないですむんですけどねえ」
その声に心情がこもりすぎていて、沙絵莉は笑いが止まらなくなった。
照れた顔で頭を掻いていた彼が、沙絵莉の肩越しに何を見たのか、急に笑いを引っ込め、表情を改めた。
今度は、彼の上役、店長あたりが現れたのかと振り向くと、アークがむっとした顔で立っていた。
「その男は誰だ」
突然の彼の登場に喜びが込み上げた沙絵莉だったが、アークの様子とその声音に驚いた。
押さえた口調、店員を見る顔つきも険悪で、思わず沙絵莉は店員の視界から隠すようにアークの前に立った。
「ここの店員さんよ。いつ来たの?」
沙絵莉はアークに顔を近づけ、潜めた声で言った。
「いまだ。ここは…?」
「電化製品を売っているお店よ」
辺りを窺うようにアークが店内を見まわしているうちに、彼女は店員に頭を下げ、アークの背を押すようにして場所を移動して行き、物珍しげに左右を見ているアークを外へと連れ出した。
「あの男とは親しいのか?」
興味の対象物をなくして思い出したらしく、アークはむっとした顔で聞いてきた。
「教えたでしょ。ただの店員さん」
「淑女は、見知らぬ男と馴れ馴れしく話したりしないものだ」
沙絵莉は、その言葉にカッチーンと来た。
焼き餅を焼いてくれているのかと内心嬉しがっていたから、なおさら頭にきた。
「淑女でなくて悪かったわね。どうせあなたには淑女のお知り合いがいっぱいいるんでしょうよ。そんなに淑女が好きなら、こんなところにいないで、さっさとその淑女のところへ行けばっ」
むかっ腹が立った勢いで沙絵莉はアークに言いたいだけいい、彼を無視して歩き出した。
とりつく島もないほど怒っているらしいサエリに、アークは仕方なく黙ってついて行った。
怒らせるつもりはなかったのに…
解決出来ない大問題を鼻先に突きつけられて、こちらは苦悶しているというのに、他の男と楽しそうに語らっているのを目にすれば、文句のひとつもいいたくなって当然ではなかろうか…
「教え諭しはしたが、淑女でないとは言っていないぞ」
どんどん歩いてゆくサエリに大股でついてゆきながら、アークは言った。
その途端、彼女がくるりと振り向いた。
眉間に不機嫌を表す縦皺が寄っている。
マリアナが強烈に機嫌の悪いときと同じ表情で、アークは思わず身を引いた。
「教え諭すぅ〜?」
反論をたっぷりと含んだ声でサエリは言い、腕を組んでアークの真正面に立った。
何かを言いかけた彼女はいったん口を噤み、周囲にチラチラと視線を向けた。
サエリにつられてアークも視線を向けてみると、すれ違う通行人たちが、彼のことをジロジロと見ているようだ。
彼のこの服装が、やはり異様に見えるのだろう。
「私、これから昼食を食べるんだけど、あなたは何か食べたの?」
アークは首を振った。
いま来たばかりだ。
ケムカラーのところから父のところに行き、難題を突きつけられたところで…
「それじゃ…」
サエリは周りを見回し、アークを促して歩き出した。もちろん彼としては彼女についてゆくしかない。
風変わりな建物の中へと入り、ふたりは空いたテーブルに座った。
食堂だとすぐ分かった。あちこちのテーブルで、みな食事をしている。
「まず、ふたりの住む世界が違うという点を思い出して貰いたいわ」
住む世界が違うという言葉が心にぐさりと刺り、アークは口許を強張らせた。
彼女は、自分の住んでいる世界とはまったく異なる彼の国に、果たして来てくれるだろうか?
可能性はないも同じと思える。
帰れないとなれば、答えなど聞くまでもないだろう。
馴染みの世界、そして両親に友人…それらと決別することになるのだ。
それと引き換えとなるのは、彼と一緒にいられるということだけ…彼の妻として…
まだ結婚の申し込みすらしていないのに…いや、それ以前に、彼らはまだ出逢ったばかりで…
彼が考え込んでいるところに、店員がやってきた。
何がいいかと聞かれたところで、彼には答えようがないと自らの体験で理解しているからだろう、サエリはアークに声をかけてくることなく注文を終えた。
テーブルに両手を置き、面を改めたサエリは、アークに向けて口を開いた。
「あなたが言うところの淑女がどういう女性を指すのか私には理解できないけど…、店員さんと親しく話していたくらいで淑女ではないとなじられるとしたら、とても淑女の仲間入りはできないみたい」
アークは顔をしかめた。
なじるつもりはなかったのだが…男と親しく話している彼女にひどく苛立ちが湧いて…思わず…
「それに、そういう意味合いの淑女には、なるつもりもないわ。あなたに気に入られたいがために自分を曲げたり、気持ちを殺すようなこともしない。私は言いたいことは言うし、しゃべりたかったら店員さんとでも平気で話をするわ。男女に関係なくね」
サエリの言葉は正論だ。彼の言葉は嫉妬にかられてのもので…
「君の気持ちは分かる…だが私は…他の男と…あまり親しげに話して欲しくないのだ」
正直な言葉を口にし、アークは上目遣いに彼女を見つめた。
懇願の表情をしているアークは、ひどく少年ぽい目つきで、沙絵莉は思わずぽおっとなった。
胸キュンを感じて、胸が切なく疼く。
彼の訴えてくるような眼差しには本気がほの見えている気がするけれど…それを信じてしまっていいのだろうか?
「君は…私が他の女と親しげに話していても平気でいられるのか?」
その問いに胸がドキンとした。
確かに…彼がきれいな女性と、親しそうに笑いながら話をしていたりしたら…
「そうね。…平気ではいられないみたい」
照れくささにぽそぽそと呟くと、その声を聞き取ろうというのか、アークがぐっと顔を近づけてきた。
ゴンッと、大きな音が響き、沙絵莉はギョッとして顔を上げた。
ウェイトレスの女の子が運んできた料理を、凄い力でたたきつけたのだ。
「ア、アーク」
音に反応したアークが、素早い身のこなしで立ち上がり、女の子に手のひらを向けた。
まさに攻撃態勢で、まさかとは思ったが、その手のひらから何か魔法ビームのようなものを発しそうな雰囲気で、彼女は慌てて彼の手を掴んでいた。
「アーク、なんでもないのよ」
「なんでもない。なんでもないなら、なんだったんだ? この者はいったい何を?」
アークの剣幕に、十代にしか見えないウェイトレスは泣きそうな顔で後じさる。
きっと、アークが沙絵莉に顔を近づけてきたのを、キスでもしようとしていると思ったのかもしれない。
それだけで皿を叩きつけるように置くなんてありえないが…
ウェイトレスが何を考えてこんなことをしたのか、沙絵莉には分かるような気がする。
彼がハンサムすぎたから…たぶんそう…
「お料理を運んできて、手を滑らせたのよ。ねっ?」
沙絵莉はこの場をまるく納めるために、ウェイトレスの彼女に向けて笑みを向けた。
ウェイトレスは、身を強張らせて小さく頷き、駆け戻っていった。
「さあ、食べましょう」
アークの眉間の皺がようやく消え、沙絵莉はほっとした。
彼はいまいち納得できない顔をみせながらも食べ始めた。
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