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第八話 必要な会話
母上の衣は水色が多いな。となんら意味もないことを思いながら、アークはサリスがせっせと針仕事をしている様を、窓辺に寄りかかって眺めていた。
サリスはいま、紺色の布に銀糸で刺繍を施している最中だ。
家族三人の衣服の大半は、サリスが自ら仕立てている。
公務もあるし、色々多方面に渡って仕事をこなしているサリスだが、アークはこうして家族の服を縫っている母親を見ながら育ったような気がする。
そんな見慣れた母の姿を見つめながら、彼は思いを馳せた。
妻となったサエリも、こんな風に自分のために縫い物をするだろうか?
母親とサエリの姿をだぶらせてみようとしたが、うまくいかない。
サエリはサエリであって、母上のようではないだろう。
母サリスを妻の理想像としていたことが、いまとなればばかばかしい。
母親と同じ髪の色、瞳の色をした女がどこかにいたとしても、それは彼にとってなんら意味をなさない。
ただ母親に似た女でしかない。サエリではないのだ。
それにしても、明日の歓迎の宴は…大丈夫だろうか?
すでに夕食の時には、父はサエリが明日来ることを賢者から聞いて知っていた。
パンセに話したのはまずかったようだ…
まったく、自分の失態だ。
アークはため息をついた。
彼がつい口をすべらせたばかりに…余計な悩みを抱える羽目になってしまった。
「母上、明日のことですが…」
サリスは縫い物の手を止め、顔を上げて微笑んできた。
「明日はサエリに会えるのね。待ち遠しいわ。あなたときたら、なかなか彼女を連れてきてくれないのですもの」
そんなことより…
「歓迎の宴ですが、取りやめるわけにはゆかないでしょうか?」
「あら、どうして?」
「実は、少し困っているんです。彼女は来たいとは言ってくれましたが、はっきり明日と約束を交わしたわけではないのですよ」
今夜には、サエリと連絡を取って、確かな約束を取り付けるつもりではいるが…
もし明日は用事があって駄目だと断られたら、宴は取りやめだと言わねばならない。
やれやれだ。
「あらそうなの? その時は、まあ延期になったと伝えればいいのではない」
のんびりと言う母に、アークは気が楽になった。
「彼女が来るのが延期になったとしても、いずれは…。賢者たちが大袈裟なことをして、サエリを怯えさせなければいいのですが…」
「アーク。相手は賢者なのですよ。彼らは私たちの知らぬ秘技を持っているし、閃知を授かる率も多いようですからね。彼らは先のためによかれと思うことを成すのです」
苛立ちが湧き、アークは顔をしかめた
「彼らの成すがままになるよりないと、母上はおっしゃるのですか?」
「そうね。それが先の世のためとなるのでしょう」
そんな言葉は、素直に受け入れられるものではない。
「言いなりになるなんて、冗談じゃありませんよ」
アークは憤りのまま、母親に食って掛かった。
憤っている息子を見て、サリスは首を傾げてため息をつく。
「ゼノンもそれを嫌って、若いときはずいぶん反抗したようですよ。そのために、供人のパンセ殿はかなり大変な目に遭っているの。…若かりし頃のゼノンは、情け知らずの非情な方だったから…」
「母上」
サリスは手にしていたものを置いて立ち上がり、アークの傍らにやって来た。
「もちろんいまは違うわ。でも、それが真実なの」
そう口にし、サリスは息子の肩に手を置いて笑みを浮かべる。
そして笑みを消すと、また話し始めた。
「けれど、ゼノンの非情な行為は無意味なことだった。いくら酷い目に遭わせたとしても、それは賢者の心を苦悶させるだけ。彼らは成さねばならないことは確実に成すのよ。それが彼らのさだめですからね」
母の言葉は、アークの胸に重く響いた。
「たとえ自分が死ぬことになろうとも、けっしてさだめを放棄したりしない。賢者として生を授かったばかりに…」
サリスは俯いて大きく吐息をついた。そして顔を上げる。
「何か、私に聞きたいことがあるのではない? 違う?」
母から促され、アークはためらいがちに口を開いた。
「父上から、おふたりが出会ったときのことを少しばかりお聞きしたのですが…そのときの母上の心情はどうだったのか、お聞きしたいのです」
サリスは、当時を思い出してか宙に目を向けた。
「ゼノンは…口で言えないほど恐ろしかったわ。初めて会った時は、殺されると思った」
そう口にし、サリスは身震いした。
驚きが過ぎて、アークは目を丸くして母を見つめた。
「パンセとポンテルスが止めに入って…ポンテルスとゼノンが消えたの。テレポと言うものを知らなかったからとても驚いたわ」
サリスはアークに目を向け、小さく頷くとまた過去を辿り始めた。
「一週間ほどして彼がまたやってきたとき、私は母親と一緒だった。ゼノンが無惨に切り刻んだ花畑の修復作業をしていたの。現れたゼノンは私を捕らえて、母に『娘はもらっていく』と言ったわ、そして次の瞬間、私は此処にいたの。聖なる館に」
「まさかそれきり?」
「そう、それきりだったわ。…もちろんいまは親元に帰っているけれど…アーク、貴方も知っての通りね」
「え、ええ…」
だとしても、異国の地で育ち、カーリアン国どころか聖賢者の存在も知らなかった母にとって、まさに青天の霹靂だったろう。
「帰りたかったでしょうね?」
「ええ、とても。語れないほどにね。…けれど帰してはくれなかった」
そのときの母の心を思い、アークは胸に鋭い痛みを感じた。
「縋って泣いても、彼を叩いても、部屋中めちゃくちゃにしても聞き入れてもらえなかったわ」
は?
母の話に、アークは呆気に取られた。
部屋をめちゃくちゃ? …この母上が?
いまの母からは想像もつかない。
「何度か脱走もしたけど、すぐに見つかってしまって…まったく透視能力を持つ賢者たちというのはやっかいだったわ」
苛立たしげに語られたその言葉に、アークは驚いて目を剥いた。
そんな息子の反応をみて、サリスはくすくす笑う。
「そのうちに私のしていることはなんの意味もないし、罪もない下働きの者達や護衛兵に迷惑を掛けるばかりだと悟ったの」
アークは無言のまま母と目を合わせ、相槌を打った。
「ゼノンにしてみれば、私が帰りたがるのを見て、怒りが募ったようなのだけど」
サリスの表情は、過去を思い返しているのだろう、語りながらくるくると変化する。
「彼に初めてあったとき、恐ろしかったと言ったでしょ? あれは彼の悪鬼のような振る舞いを恐れたからばかりではないの。ゼノンのすさんだ魂から発してくる虚無感のようなものが、恐ろしいほど私の魂を震撼させたの。だから、ゼノンと視線を合わせるのを避けてばかりいたわ」
窓の外に目を向けて語っていたサリスが、彼に振り返ってきた。
アークの固い表情を目にしたからだろう、サリスは話を止めて眉を上げ、笑みを浮かべた。
「ここに来た頃の私は、彼の心の叫びを受け止められるほど強くなかったのよ。それまでは慈しんでくれる家族の中で、しあわせに暮らしていたのですもの」
サリスはそう言葉を添え、顔を強張らせたままの息子の気持ちをほぐそうとしてか、肩に触れて癒すように撫でてきた。
「でもそのうちに、私は彼の視線を受けとめるだけの魂の強さを得たし、あなたも授かった」
「父上を…憎みましたか?」
「ええ、もちろん」
母の即答は胸に堪えた。
しばらく俯いて押し黙っていたアークは、吐息をつき顔を上げた。
「私は、サエリに憎まれたくないのです」
言葉に苦悩が混じってしまい、彼は唇を噛み締めた。
時の大波が過ぎたのを見定めてから、サエリを迎えるべきだろうか?
だが、ジェライドは大波がサエリを襲わぬとは断言できぬと言っていた。
もし遠く隔たった場所で、彼女に何事かあったらどうする?
「いまは、流れに身をまかせてみてはどうかしら?」
アークは母の言葉を胸に入れ、素直に頷いた。
気を急いて、誤った決断をしないようにしなければ…
「母上、それは?」
元の場所に腰かけ、また縫い物を再開した母を見つめ、アークは問いかけた。
「父上の服ですか?」
輝くような笑顔を浮かべ、サリスはぱっと服を広げた。
「あなたの婚儀の衣装よ。素敵でしょう?」
アークは目眩がした。
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