白銀の風 アーク

第五章

第九話 張りつめた問い



その夜、アークはシャラドの明かりを眼下に窓辺に立っていた。

母親の言葉から思い出したことがあった。

サエリと初めて顔を合わせたあのとき、彼は彼女の魂の響きを感じ取ったのだ。
彼女の悲哀を感じた。

そのことをうっかり失念していたとは…

長い時間を一緒に過ごし、たくさんのことを話したり…互いを知り合う時間はかなりあったのに、愚かな自分は、そのほとんどを無駄に費やしてしまっていた。

サエリのことを知らなさすぎることに、今頃になって気づくとは…

彼女が母の家だと言ったことが引っかかる。

それならば、あの父親はどこに住んでいるのだ?

いつでも会えるほど近くにサエリの両親はいるのに、なぜ独りで暮らしているのだろう?

ヒナという幼子は、もちろん彼女の妹なのだろうが…

アークは唇を噛み締めた。

まったく、そんなことすら知らないのだ。

考えてみれば彼女だって同じだろう。アークについて何一つ知らないに等しい。

サエリは、彼の仕事について質問してきたのに……私は…

自分が、あの国では特異といえる生まれなことを、知られたくなかった。

それを知れば、サエリは彼の妻になることを、躊躇するかもしれない。

アークは部屋の中を行ったり来たりし始めた。

明日のことを考えると居ても立ってもいられない。

彼女を歓迎する宴は催されることに決まってしまっている。

なるべく宴が簡素なものであるように祈るしかない。

いまごろは着々と準備が進んでいるのだろうが…

一瞬様子を見に行ってみようかと玉を手に取ったアークだが、すぐポケットに戻した。

やはり恐ろしくて覗きに行けない。

それにあれこれ文句をつけたくなるだろうし、そんなことをしたら、手伝っている者達を困惑させるだろう。

「ああ、やめよう」

考えてもきりがない。
もうこれは、流れに身を任せるしかない。

アークは首飾りを握りしめた。玉が光を放つ。

「サエリ」

「アーク。どこ?」

彼女のはっきりとした声がすぐに返ってきて、気分が高揚したアークだったが、いまの現状を思い出し、高揚感はすぐに掻き消えた。

「自分の家にいる。いまひとりか?」

「ええ、そう。もう夜中ですもの。あなたも…ひとり…なの?」

ためらいがちな彼女の問いかけには、何か含みが感じられて気になった。

「ああ、もちろんひとりだ。サエリ、何かあったのか?」

「え? いいえ、何も?」

「そうか。サエリ、別れ際に渡した玉だが…」

「きれいな玉ね。いま金色に輝いてるの。眩しいくらい」

「通信の玉だ」

「通信の? へえーっ」

彼女の感心したような声が響くように伝わってくる。

何か心に引っかかりを感じた。が、引っかかりの正体を見極める余裕が、いまの彼にはなかった。

「サエリ…あの、明日なんだが、こちらに来ないか?」

「ええ。もちろん。いつ迎えに来てくれるの?」

嬉しそうな声での即答に、アークは嬉しさと安堵を感じて笑みを浮かべた。

「できれば、朝早い方がいいんだが」

「そうね。じゃあ。十時くらいでどうかしら?」

「わかった」

少しの間、沈黙が満ちる。

「アーク?」

サエリの切迫した声に、アークは「聞こえている」と慌てて返事をした。

「ご、ごめんなさい。声だけだと、不安で。それに夜は好きじゃないの。自分がひとりぼっちなのを強く感じて…しまうっていうか…」

「君はひとりじゃないのだろう? その家には、君の母がいるんだろう? 君の妹も…」

「ええ、そう。だけど、そういうことではないの。…なんていうか、心に隙間があるっていうか、心細さみたいなものが…あって。とにかく夜は嫌いなの。暗闇も嫌い。私…」

黙り込んでしまったサエリの言葉を促すため、彼は「サエリ」と呼びかけた。

「逢いたいの。姿を見なくちゃ駄目なの。声だけじゃ駄目なの。私もう寝るわ。そうしたら早く朝が来て、声だけじゃないあなたに逢えるもの。これが…これが夢なんかじゃないって…確認できるもの」

サエリは言葉の途中から泣き出したようだった。
そして、嗚咽を飲み込みながらようやく言葉を口にしている感じだった。

「サエリ、これはもちろん夢なんかじゃないさ」

アークは苛立ちを感じて叫んだ。

「信じられないのっ! いまは駄目。夜は駄目なの。明日、明日必ず来てね、アーク。待ってるから、待ってるから…」

すすり泣くサエリの声…
アークは衝動を抑えきれず、一瞬にして彼女の側に立っていた。

「サエリ?」

「もう、寝るんだってば!」

その言葉通り、彼女はベッドの中だった。

頭まで上掛けを被り、こもったヒックヒックという声が洩れてくる。

あまりの愛しさに、アークは上掛けの上から彼女の身体にそっと触れた。

サエリの身体がビクリと大きく震え、間をおかずに、彼女はガバッと上掛けをはいで起き上がった。

「サエリ」

「ど、どういうこと? 貴方ってば、初めから此処にいて、私のこと、からかってたの?」

怒った声は凄まじいが、泣きはらした瞼が痛々しい。

「いま来たんだ。君があんまり泣くから。放っておけないだろう?」

「来れるんなら、通信の玉なんていらないじゃない。声だけ飛ばさずに、身体ごと飛んできなさいよ」

アークはその言葉に吹いたが、鋭い目でサエリに睨まれ、慌てて真顔に戻した。

「テレポは、魔力をかなり消耗するんだ。今日はすでに一回飛んでいるし。ここに飛んだ初めの日、一日に三回飛んだ為に魔力を使いすぎて…みなに心配をかけてしまったんだ。そんなこともあって、なるべく回数を控えなければならないんだ」

頻繁に行き来できなくなった理由は他にもあるが、いまはそれを言っても仕方がない。

「そ、そうだったの」

サエリの表情が曇った。そしてうなだれてしまった。

「あの…ごめんなさい、アーク。私が泣いたから…。明日には会えるのに、ごめんなさい」

「いいさ、もう来てしまったし」

彼はそう言うと、サエリの横に座り込んだ。

本心は、彼女に密着するように座り、彼女を抱きしめたかったが、とてもそうはできなかった。

結婚を申し込もうというのに…こんなことでは…

「私、あなたがいなくなると、あなたの存在を信じていられなくなるの。とっても不安になっちゃって…とくに夜は暗いし寂しいし」

「そうか。でも闇は人を癒す。人には眠りのときが必要だし、闇の中での眠りは人の心を安らがせる」

「…だって、自分が独りなのをひしひしと感じるのよ。闇が囁くの、お前は独りぼっちだって…」

「君は独りじゃない。君には…私がいる」

彼の言葉を聞いてサエリが笑みを見せ、アークはほっとした。

「初めて逢ったときも、君は泣いていたな。あのときはどうして泣いていたんだ?」

父親と諍いをしていたようだが…いったいどんなことが原因で…

そのときの会話を思い出そうとしてみたが、残念ながらまるで覚えていない。

「説明するのはとっても難しいし、長くなっちゃうけど…いいの?」

アークは真剣な顔で頷いた。

もちろん、彼女が許すならば、サエリの何もかもが知りたい。

「私の父は…その…私の母ではない人を愛してたの」

サエリはアークの反応を窺うように視線を向けてきた。

アークは、安易な返事をすることをやめ、無言で頷くだけにとどめ、彼女の話の先を促した。

そんな彼の反応を目にしたサエリは、安堵を浮かべて話を続けた。

「でも、そのひとはもう他のひとと結婚してて…元々ね、そのひとも父を好きで、つまり、相思相愛だったわけ」

サエリは、軽い調子で言葉を口にする。だが、彼女が内面でひどく葛藤しているのが痛いほど伝わってくる。

サエリは、その事実を本当には受け入れられずに苦しんでいる。

アークは、手を伸ばし膝の上に置いているサエリの手をそっと握り締め、光の癒しを送り込んだ。

「温かいわ…ううん、貴方の手、熱いくらい…」

「そうか」

アークは彼女の手の甲を、もう片方の手のひらでそっと撫でた。

「父と母は大学で出会って、とっても気が合ったんですって。それで仲良くなって…」

「それで結婚したのかい?」

サエリはこくりと頷き、自分の手の甲を撫でているアークの手にもう片方の手を重ねた。

そんなサエリの頬に涙が伝い落ち、彼女の顔をくしゃりと歪めた。

「サエリ」

アークは呼びかけたと同時に、彼女の体を包み込むように抱きしめていた。

とても自然で、話の内容は重いし、サエリは苦しんで泣いているというのに、不届きなことだろうが深い喜びを感じた。

「私が五歳になったとき、美月さん…父の好きだった人が離婚したの…それで…父は…」

言葉を止めてしまったサエリの背中を、アークはやさしく撫でた。

サエリはアークの胸に顔をうずめ、涙を流し続ける。

「あったかいわ。貴方はちゃんと存在してる。私…貴方の世界をあまり知らないけど…とても好きよ」

「そうか? 住んでみたいか?」

サエリが顔を上げ笑みを浮かべた。

瞼を赤く腫らしていながらも、サエリの笑みは輝き、とても美しかった。

「お家を建ててくれるの? 私の」

「えっ?」

「住む家がないと、暮らせないわ。それに仕事も必要だし…働かないと食べてゆけないものね」

「働きたかったら、いくらでも仕事はある。君の気にいる仕事につけばいい。それに、家ならちゃんとある」

思わぬ話の成り行きに、いくぶん興奮しつつアークは言った。

「そうなの? アークはどんな家に住んでるの? 借家?」

「私は…」

「そうだった。貴方は、魔法使いの弟子なんだものね。それだったら、大体想像がつくわ」

「想像?」

眉を寄せるアークを見て、サエリは楽しげな笑みを浮かべた。

「山の中の一軒家。ちょっと薄暗い感じの。丸太とかで作ってある、小さな家。でしょ? それが魔法使いの定番なんだけど…」

「私の住んでいる家は、そんなに小さくない」

「あら…そうなの? それじゃ、どんなところに住んでいるの?」

「どんなと言われても…そうだ。明日来てくれるんだろう? 説明するまでもなく、どんなところか君は見られる」

「ああ、そうよね。楽しみだわ」

「サエリ…君に…その…」

アークはごくりと唾を飲み込んだ。

彼女に結婚の申し込みをするには、まさに今がいいタイミングだと思えた。

「つまり、結婚して…」

「ああ、そうだったわ。話の途中だったのよね。ごめんなさい。すっかり話を逸らしちゃって…えっと、どこまで話したんだったかしら…えーと、そう、美月さんが離婚して…」

サエリは小さくため息をつき、頭の中で言葉を整理しているのか、しばらく黙り込んだ。

ため息をつきたいのはアークのほうだった。結婚の申し込みをするつもりが…

まったく私ときたら…口ごもってなどいるからだ。自分に呆れてならない。

「母が言うにはね、母は自分から離婚しようって父に言ったらしいの。それで、美月さんと再婚すべきだって…父は結局その言葉を受け入れて…離婚して、美月さんと結婚…」

サエリの口許が震えだし、彼女はそれが許せないとはがりに口許を強張らせた。

アークは、サエリの唇に指で触れた。

「サエリ?」

「離婚するんなら、結婚なんかしなきゃよかったのに! おかしいわよ! アーク、そう思わない?」

憤るまま叫ぶサエリの手首を、アークは両手で握り締めた。

「だが、そうなると、君はこの世に生まれていない」

サエリははっとしたように目を見開き、アークを見つめてきた。

「それで? 君はどうしていまひとりで暮らしているんだい? どうして母と暮らしていないんだ?」

「この春、お母さんが再婚したの。岡本俊彦っていうひと。陽奈ちゃんはその人の姪なの」

「妹ではなかったのかい?」

「ええ、陽奈ちゃんの両親は、交通事故で一緒に亡くなったの。俊彦さんは、私の両親の恩師の次男で、陽奈ちゃんは長男夫婦の娘なの。両親の恩師のひとも同じ事故で亡くなって…母は両親を亡くした陽奈ちゃんの面倒をずっと見てあげてたの」

「コウツウ事故?」

正直、彼女の話は、半分ほどしか理解できていなかった。

眉間を寄せているアークを見て、サエリも彼が話を理解できていない事実に気づいたようだった。

「そう。自動車に乗っていて…自動車はわかるでしょ」

「ああ」

「カーブを曲がってきた対向車が、トラックって言うとても大きな車でね、彼らの路線に入ってきて、真正面にぶつかってきたんですって、分かる?」

「あまり…いや、まったくわからない」

アークは気まずく言った。そんな彼の言葉に、サエリは笑いだした。

「アーク、私ね」

「うん」

「お母さんに頼れる人ができて良かったって、心の底からそう思ってるの。それに、両親をいっぺんに亡くした陽奈ちゃんも、両親が揃って、これで幸せになれたのかなって思えて本当に嬉しいし…」

サエリはそう言ってしばらく押し黙った。

「だけどね…ひどく身勝手で我が儘な自分が…ここにいるの」

彼女は自分の胸を指す。アークは頷いた。

「父と母が、それぞれの愛する人と幸せでいて、喜んでいる自分がいる傍らで、そのことに怒りや悲哀や…憎しみを感じている私もいるのよ。私は…」

一点に目を据えて話していたサエリが、アークに縋るような瞳を向けてきた。

「私は…母にも父にも、一番に愛して欲しいの…そんなの、無理なのに…」

サエリは悲しげに瞳を揺らして俯いた。

「君に…君が欲しがっている愛をあげると言ったら…君は両親を捨てて、私と来るか?」

ひどく張りつめた声で、アークはサエリに問いかけた。

彼の真剣な眼差しに、サエリが目を見張る。

アークは息をつめて、彼女の返事を待った。





   
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