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第九話 張りつめた問い
その夜、アークはシャラドの明かりを眼下に窓辺に立っていた。
母親の言葉から思い出したことがあった。
サエリと初めて顔を合わせたあのとき、彼は彼女の魂の響きを感じ取ったのだ。
彼女の悲哀を感じた。
そのことをうっかり失念していたとは…
長い時間を一緒に過ごし、たくさんのことを話したり…互いを知り合う時間はかなりあったのに、愚かな自分は、そのほとんどを無駄に費やしてしまっていた。
サエリのことを知らなさすぎることに、今頃になって気づくとは…
彼女が母の家だと言ったことが引っかかる。
それならば、あの父親はどこに住んでいるのだ?
いつでも会えるほど近くにサエリの両親はいるのに、なぜ独りで暮らしているのだろう?
ヒナという幼子は、もちろん彼女の妹なのだろうが…
アークは唇を噛み締めた。
まったく、そんなことすら知らないのだ。
考えてみれば彼女だって同じだろう。アークについて何一つ知らないに等しい。
サエリは、彼の仕事について質問してきたのに……私は…
自分が、あの国では特異といえる生まれなことを、知られたくなかった。
それを知れば、サエリは彼の妻になることを、躊躇するかもしれない。
アークは部屋の中を行ったり来たりし始めた。
明日のことを考えると居ても立ってもいられない。
彼女を歓迎する宴は催されることに決まってしまっている。
なるべく宴が簡素なものであるように祈るしかない。
いまごろは着々と準備が進んでいるのだろうが…
一瞬様子を見に行ってみようかと玉を手に取ったアークだが、すぐポケットに戻した。
やはり恐ろしくて覗きに行けない。
それにあれこれ文句をつけたくなるだろうし、そんなことをしたら、手伝っている者達を困惑させるだろう。
「ああ、やめよう」
考えてもきりがない。
もうこれは、流れに身を任せるしかない。
アークは首飾りを握りしめた。玉が光を放つ。
「サエリ」
「アーク。どこ?」
彼女のはっきりとした声がすぐに返ってきて、気分が高揚したアークだったが、いまの現状を思い出し、高揚感はすぐに掻き消えた。
「自分の家にいる。いまひとりか?」
「ええ、そう。もう夜中ですもの。あなたも…ひとり…なの?」
ためらいがちな彼女の問いかけには、何か含みが感じられて気になった。
「ああ、もちろんひとりだ。サエリ、何かあったのか?」
「え? いいえ、何も?」
「そうか。サエリ、別れ際に渡した玉だが…」
「きれいな玉ね。いま金色に輝いてるの。眩しいくらい」
「通信の玉だ」
「通信の? へえーっ」
彼女の感心したような声が響くように伝わってくる。
何か心に引っかかりを感じた。が、引っかかりの正体を見極める余裕が、いまの彼にはなかった。
「サエリ…あの、明日なんだが、こちらに来ないか?」
「ええ。もちろん。いつ迎えに来てくれるの?」
嬉しそうな声での即答に、アークは嬉しさと安堵を感じて笑みを浮かべた。
「できれば、朝早い方がいいんだが」
「そうね。じゃあ。十時くらいでどうかしら?」
「わかった」
少しの間、沈黙が満ちる。
「アーク?」
サエリの切迫した声に、アークは「聞こえている」と慌てて返事をした。
「ご、ごめんなさい。声だけだと、不安で。それに夜は好きじゃないの。自分がひとりぼっちなのを強く感じて…しまうっていうか…」
「君はひとりじゃないのだろう? その家には、君の母がいるんだろう? 君の妹も…」
「ええ、そう。だけど、そういうことではないの。…なんていうか、心に隙間があるっていうか、心細さみたいなものが…あって。とにかく夜は嫌いなの。暗闇も嫌い。私…」
黙り込んでしまったサエリの言葉を促すため、彼は「サエリ」と呼びかけた。
「逢いたいの。姿を見なくちゃ駄目なの。声だけじゃ駄目なの。私もう寝るわ。そうしたら早く朝が来て、声だけじゃないあなたに逢えるもの。これが…これが夢なんかじゃないって…確認できるもの」
サエリは言葉の途中から泣き出したようだった。
そして、嗚咽を飲み込みながらようやく言葉を口にしている感じだった。
「サエリ、これはもちろん夢なんかじゃないさ」
アークは苛立ちを感じて叫んだ。
「信じられないのっ! いまは駄目。夜は駄目なの。明日、明日必ず来てね、アーク。待ってるから、待ってるから…」
すすり泣くサエリの声…
アークは衝動を抑えきれず、一瞬にして彼女の側に立っていた。
「サエリ?」
「もう、寝るんだってば!」
その言葉通り、彼女はベッドの中だった。
頭まで上掛けを被り、こもったヒックヒックという声が洩れてくる。
あまりの愛しさに、アークは上掛けの上から彼女の身体にそっと触れた。
サエリの身体がビクリと大きく震え、間をおかずに、彼女はガバッと上掛けをはいで起き上がった。
「サエリ」
「ど、どういうこと? 貴方ってば、初めから此処にいて、私のこと、からかってたの?」
怒った声は凄まじいが、泣きはらした瞼が痛々しい。
「いま来たんだ。君があんまり泣くから。放っておけないだろう?」
「来れるんなら、通信の玉なんていらないじゃない。声だけ飛ばさずに、身体ごと飛んできなさいよ」
アークはその言葉に吹いたが、鋭い目でサエリに睨まれ、慌てて真顔に戻した。
「テレポは、魔力をかなり消耗するんだ。今日はすでに一回飛んでいるし。ここに飛んだ初めの日、一日に三回飛んだ為に魔力を使いすぎて…みなに心配をかけてしまったんだ。そんなこともあって、なるべく回数を控えなければならないんだ」
頻繁に行き来できなくなった理由は他にもあるが、いまはそれを言っても仕方がない。
「そ、そうだったの」
サエリの表情が曇った。そしてうなだれてしまった。
「あの…ごめんなさい、アーク。私が泣いたから…。明日には会えるのに、ごめんなさい」
「いいさ、もう来てしまったし」
彼はそう言うと、サエリの横に座り込んだ。
本心は、彼女に密着するように座り、彼女を抱きしめたかったが、とてもそうはできなかった。
結婚を申し込もうというのに…こんなことでは…
「私、あなたがいなくなると、あなたの存在を信じていられなくなるの。とっても不安になっちゃって…とくに夜は暗いし寂しいし」
「そうか。でも闇は人を癒す。人には眠りのときが必要だし、闇の中での眠りは人の心を安らがせる」
「…だって、自分が独りなのをひしひしと感じるのよ。闇が囁くの、お前は独りぼっちだって…」
「君は独りじゃない。君には…私がいる」
彼の言葉を聞いてサエリが笑みを見せ、アークはほっとした。
「初めて逢ったときも、君は泣いていたな。あのときはどうして泣いていたんだ?」
父親と諍いをしていたようだが…いったいどんなことが原因で…
そのときの会話を思い出そうとしてみたが、残念ながらまるで覚えていない。
「説明するのはとっても難しいし、長くなっちゃうけど…いいの?」
アークは真剣な顔で頷いた。
もちろん、彼女が許すならば、サエリの何もかもが知りたい。
「私の父は…その…私の母ではない人を愛してたの」
サエリはアークの反応を窺うように視線を向けてきた。
アークは、安易な返事をすることをやめ、無言で頷くだけにとどめ、彼女の話の先を促した。
そんな彼の反応を目にしたサエリは、安堵を浮かべて話を続けた。
「でも、そのひとはもう他のひとと結婚してて…元々ね、そのひとも父を好きで、つまり、相思相愛だったわけ」
サエリは、軽い調子で言葉を口にする。だが、彼女が内面でひどく葛藤しているのが痛いほど伝わってくる。
サエリは、その事実を本当には受け入れられずに苦しんでいる。
アークは、手を伸ばし膝の上に置いているサエリの手をそっと握り締め、光の癒しを送り込んだ。
「温かいわ…ううん、貴方の手、熱いくらい…」
「そうか」
アークは彼女の手の甲を、もう片方の手のひらでそっと撫でた。
「父と母は大学で出会って、とっても気が合ったんですって。それで仲良くなって…」
「それで結婚したのかい?」
サエリはこくりと頷き、自分の手の甲を撫でているアークの手にもう片方の手を重ねた。
そんなサエリの頬に涙が伝い落ち、彼女の顔をくしゃりと歪めた。
「サエリ」
アークは呼びかけたと同時に、彼女の体を包み込むように抱きしめていた。
とても自然で、話の内容は重いし、サエリは苦しんで泣いているというのに、不届きなことだろうが深い喜びを感じた。
「私が五歳になったとき、美月さん…父の好きだった人が離婚したの…それで…父は…」
言葉を止めてしまったサエリの背中を、アークはやさしく撫でた。
サエリはアークの胸に顔をうずめ、涙を流し続ける。
「あったかいわ。貴方はちゃんと存在してる。私…貴方の世界をあまり知らないけど…とても好きよ」
「そうか? 住んでみたいか?」
サエリが顔を上げ笑みを浮かべた。
瞼を赤く腫らしていながらも、サエリの笑みは輝き、とても美しかった。
「お家を建ててくれるの? 私の」
「えっ?」
「住む家がないと、暮らせないわ。それに仕事も必要だし…働かないと食べてゆけないものね」
「働きたかったら、いくらでも仕事はある。君の気にいる仕事につけばいい。それに、家ならちゃんとある」
思わぬ話の成り行きに、いくぶん興奮しつつアークは言った。
「そうなの? アークはどんな家に住んでるの? 借家?」
「私は…」
「そうだった。貴方は、魔法使いの弟子なんだものね。それだったら、大体想像がつくわ」
「想像?」
眉を寄せるアークを見て、サエリは楽しげな笑みを浮かべた。
「山の中の一軒家。ちょっと薄暗い感じの。丸太とかで作ってある、小さな家。でしょ? それが魔法使いの定番なんだけど…」
「私の住んでいる家は、そんなに小さくない」
「あら…そうなの? それじゃ、どんなところに住んでいるの?」
「どんなと言われても…そうだ。明日来てくれるんだろう? 説明するまでもなく、どんなところか君は見られる」
「ああ、そうよね。楽しみだわ」
「サエリ…君に…その…」
アークはごくりと唾を飲み込んだ。
彼女に結婚の申し込みをするには、まさに今がいいタイミングだと思えた。
「つまり、結婚して…」
「ああ、そうだったわ。話の途中だったのよね。ごめんなさい。すっかり話を逸らしちゃって…えっと、どこまで話したんだったかしら…えーと、そう、美月さんが離婚して…」
サエリは小さくため息をつき、頭の中で言葉を整理しているのか、しばらく黙り込んだ。
ため息をつきたいのはアークのほうだった。結婚の申し込みをするつもりが…
まったく私ときたら…口ごもってなどいるからだ。自分に呆れてならない。
「母が言うにはね、母は自分から離婚しようって父に言ったらしいの。それで、美月さんと再婚すべきだって…父は結局その言葉を受け入れて…離婚して、美月さんと結婚…」
サエリの口許が震えだし、彼女はそれが許せないとはがりに口許を強張らせた。
アークは、サエリの唇に指で触れた。
「サエリ?」
「離婚するんなら、結婚なんかしなきゃよかったのに! おかしいわよ! アーク、そう思わない?」
憤るまま叫ぶサエリの手首を、アークは両手で握り締めた。
「だが、そうなると、君はこの世に生まれていない」
サエリははっとしたように目を見開き、アークを見つめてきた。
「それで? 君はどうしていまひとりで暮らしているんだい? どうして母と暮らしていないんだ?」
「この春、お母さんが再婚したの。岡本俊彦っていうひと。陽奈ちゃんはその人の姪なの」
「妹ではなかったのかい?」
「ええ、陽奈ちゃんの両親は、交通事故で一緒に亡くなったの。俊彦さんは、私の両親の恩師の次男で、陽奈ちゃんは長男夫婦の娘なの。両親の恩師のひとも同じ事故で亡くなって…母は両親を亡くした陽奈ちゃんの面倒をずっと見てあげてたの」
「コウツウ事故?」
正直、彼女の話は、半分ほどしか理解できていなかった。
眉間を寄せているアークを見て、サエリも彼が話を理解できていない事実に気づいたようだった。
「そう。自動車に乗っていて…自動車はわかるでしょ」
「ああ」
「カーブを曲がってきた対向車が、トラックって言うとても大きな車でね、彼らの路線に入ってきて、真正面にぶつかってきたんですって、分かる?」
「あまり…いや、まったくわからない」
アークは気まずく言った。そんな彼の言葉に、サエリは笑いだした。
「アーク、私ね」
「うん」
「お母さんに頼れる人ができて良かったって、心の底からそう思ってるの。それに、両親をいっぺんに亡くした陽奈ちゃんも、両親が揃って、これで幸せになれたのかなって思えて本当に嬉しいし…」
サエリはそう言ってしばらく押し黙った。
「だけどね…ひどく身勝手で我が儘な自分が…ここにいるの」
彼女は自分の胸を指す。アークは頷いた。
「父と母が、それぞれの愛する人と幸せでいて、喜んでいる自分がいる傍らで、そのことに怒りや悲哀や…憎しみを感じている私もいるのよ。私は…」
一点に目を据えて話していたサエリが、アークに縋るような瞳を向けてきた。
「私は…母にも父にも、一番に愛して欲しいの…そんなの、無理なのに…」
サエリは悲しげに瞳を揺らして俯いた。
「君に…君が欲しがっている愛をあげると言ったら…君は両親を捨てて、私と来るか?」
ひどく張りつめた声で、アークはサエリに問いかけた。
彼の真剣な眼差しに、サエリが目を見張る。
アークは息をつめて、彼女の返事を待った。
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