白銀の風 アーク

第六章

第三話 緊急事態



バスを降りた沙絵莉は、自分のアパートに向けて全速力で走った。

今日は陽気が良すぎるようだ。
額からだらだらと汗が落ちてきて、目に入ってしまう。

もおっ、急いでるのに…

もう約束の十時は過ぎてしまっている。
いまにもアークがやってくるかもしれない。

顔をしかめた沙絵莉は、走り続けながら、バッグからハンカチを取り出そうと手を突っ込んだ。

まだこんな服装だし、髪も汗でべったりしてるっていうのに…

シャワーを浴びて、おしゃれな服に着替えて…それから、それから…

もおっ、ハンカチはどこ? ちゃんと入れたのに…

アパートの前に帰りついたところで、ようやくハンカチを掴み出した。

階段を駆け上がりながら、彼女は額に伝い落ちる汗を拭った。

「さ、沙絵莉!」

その叫びと同時に、沙絵莉は人と勢い良くぶつかっていた。

階段の踊り場にひとがいたらしいが、ハンカチを顔に当てていて視界が悪く、気づけないまま相手の背中にぶち当たったのだ。

はっと思った瞬間、沙絵莉の身体は後ろ向きに反り返り、宙に浮いていた。

その一瞬、彼女の瞳が捉えたのは、由美香と泰美の唖然とした顔。

沙絵莉はぎゅっと目をつぶり、これから体験するだろうことを覚悟した。

激しい衝撃!

骨が砕ける鈍く気味の悪い音。

バウンドする身体。

最後に、この悪夢の決定打のように、無抵抗な身体が地面に叩きつけられた。

「沙絵莉!」

「さ、沙絵莉ぃ」

くらりと揺れる視界に、由美香と泰美が駆け下りてくる様が映った。

そんなに急いじゃ危ないと、遠のく意識にあらがいながら、彼女は唇だけを開いた。





地面についた沙絵莉の頭がぐらりと右に傾き、その身体はピクリとも動かなくなった。

階段を飛ぶように駆け下りた由美香は、息が出来なかった。

この惨状を、受け入れられない。

「沙絵莉。いやー」

恐れのこもった叫びを上げた泰美が、沙絵莉の身体に取り縋り、夢中になって揺すり始めた。

いけない…由美香は大きく息を吸い込み、泰美の肩を掴んだ。

「泰美、落ち着くのよ。そんな風に身体を揺らしちゃ駄目!」

「だって、だって…」

恐怖の表情を浮かべている泰美を見つめ、由美香はパニックに陥りそうになる自分を、必死に宥めた。

「き、救急車。呼ぶのよ」

そう叫んだ由美香は、自分のポケットをまさぐった。だが携帯は見つからない。

「電話。携帯。早くっ」

自分に向かって叫んでいるのか、目の前にいる泰美に叫んでいるのか、もう自分でもわからなかった。

恐れで顔が引きつり、手足が思うように動かない。

どうしたらいいの? 誰か、誰か…助けて…

由美香は周囲を見回し、地面に転がっている沙絵莉に目を向けた。

唇を薄く開いた沙絵莉…その口は、息をしていないように見える。

「沙絵莉っ、死んじゃダメ!」

「ゆ、由美香…救急車って何番だっけ?」

不自然に単調な泰美の声に、由美香は顔を向けた。

携帯を握り締めている泰美の手は、尋常でなく震えている。

「119番に決まってるじゃない」

「けど…119って消防車でしょ? 救急車なのよ、私たちが呼ばなきゃならないの」

泰美の言葉に、由美香は混乱した。

「117…違う! あれは…ああーもうっ、110番で警察呼ぶのよ。そうすれば…」

「どけっ!」

由美香は突然誰かに突き飛ばされ、二メートル近く吹っ飛んだ。

思わぬことに、由美香は唖然として身を起こした。

だ、誰? 

銀色の髪の男性が、沙絵莉に屈み込んでいる。

緊急事態なのに気づいて、助けにきてくれたの?

由美香と同じ目にあったのか、ひっくり返った泰美がすぐ近くに転がっていた。

とその時、昼間にもかかわらず、凄まじいほど眩い(まばゆい)光がたち、由美香は目がくらんで瞬きした。

「な、何?」

素っ頓狂な声を上げて、泰美が手のひらで目を覆っている。

いまのはいったい何の光だったのか?

もちろん分からないが、いまはそんなことに構っていられない。

後姿の男性が、沙絵莉を抱え上げようとしていると気づき、由美香は慌てて立ち上がった。

「動かしちゃダメよっ! 救急車を呼んで…」

由美香はぎょっとして思わず口を閉じた。

男がすっくと立ち上がったのだ。

逆光を受けた男性の姿には、圧倒的な威圧感があった。

男性の腕に沙絵莉が抱えられているのが、そのシルエットで分かる。

「あ、あなた…」

男性がこちらに振り返った。

目が合ったと思った瞬間、由美香は額に強い衝撃を感じた。

日の光に溶けるように、男性と沙絵莉のシルエットが消えたが、由美香は激しいめまいを感じて地面に両手をついていた。





目の乾きに痛みを覚え、由美香はパチパチと瞬きした。

私…?

どうしたというのか、頭がひどくぼおっとしている。

彼女はまた瞬きし、自分が地面に座り込んで両手をついているのに気づいて驚いた。

いやだ。
私ってば、何してるんだろ?

由美香は慌てて立ち上がり、埃がついてしまっているスカートを(はた)いた。

「ゆ、由美香?」

声をかけられて顔を向けると、すぐ側に泰美がいて、彼女と同様に地面に座り込んでいる。

「泰美。地面に座り込んで何してんの?」

「何って…由美香こそ」

額に手を当てた泰美は、ぼんやりとした目を由美香に向けて聞き返してきた。

確かにだ。
私、何やってんだろ? …それに泰美まで…

納得のいかない顔で泰美は立ち上がると、ぱんぱんと服の汚れを払いはじめた。

「えーっと。そうそう、沙絵莉よ。私たち、遊びに来たんじゃない」

あやふやな口調で泰美が言い、由美香もこくんと頷いた。

「そうだったわ。…それで…行ったけど…いなかったのよ」

「そうよ。そしたら…」

「そしたら?」

由美香は泰美に問いかけた。だが、泰美は首を振る。

「わ、わかんない…」

由美香は口を歪めた。

私もわからない…?

どうして私たちは、ふたりして地面に座り込んでいたんだろう?

狐に抓まれたような顔で、泰美は由美香を見つめてくる。

自分も、泰美と似たような顔をしているに違いない。

いったい…?

彼女は、無意識にアパートの階段を見上げた。

頭の中にぼんやりと映像が浮かびそうになったが、白い靄に埋もれてゆく。

それはひどく奇妙な感覚だった。

由美香は、擦り傷のある手のひらをぼんやりと見つめた。

そこに、何か忘れてはならない大切なものが書きとめられているような…そんな不思議な思いが心を占めたのだ。





「父上!」

突然、書斎に現れたアークの悲痛な叫びに、ゼノンは急いで駆け寄った。

「いったい、どうしたのだ?」

現状を確認しつつ、ゼノンは問いかけた。

アークが腕に抱えている女性は、もちろんサエリだろう。

「彼女が、サエリが…すぐに癒しを施したのですが、かなりの深手を負っているようで…」

「わかった」

ゼノンは、即座に治癒者マラドスを呼び寄せた。

突然連れてこられたマラドスは、一瞬呆気に取られたようだったが、ゼノンに気づき、状況を察したようだった。

「深手を負っている頼む」

アークが抱えているサエリを見つめ、マラドスは深く頷いた。
そして、彼女の身体にすぐさま両手を当てた。

虹色に光る癒しが施され、ゼノンはいくぶん安堵を感じつつ、サエリを見守った。

「マラドス。どうだ?」

「脊柱を酷くやられておいでです。それに肺と頭、いくつかの臓器にも損傷が見られるようです」

マラドスは、この国で屈指の治癒者。その彼が厳しい表情をしているのを見て、ゼノンは顔をしかめた。

サエリを抱えているアークは、意識のない彼女の表情を見つめ、顔を恐怖で強張らせている。

「マラドス殿、彼女は助かりますね?」

「ともかく、このお方をベッドに」

マラドスはアークの問いに対する返事を避け、ゼノンに言ってきた。

事態は思わしくないのだ。それも、ひどく…

歯を食いしばり、真っ青になっている息子の肩にゼノンは手を置き、聖なる館の空いている部屋へと移動した。

すぐにサエリをベッドに寝かす。

その間にも、治癒者たちが続々とやってきて、マラドスが綿密な細かい指示を与えてゆく。

そうだ。サリスに、この事態を知らせなければ…
いま、王妃ミュライのところにいるはず。

妻を呼ぼうとしたゼノンは、隣に立っている息子が、急に床にしゃがみこんだのに気づいて顔を向けた。

「アーク?」

アークは頭を深く屈め、片膝をついている。

「アーク、どうしたのだ?」

肩に手を置き、声をかけた途端、もう片方の膝も折れるように曲がり、アークは音を立てて床に倒れた。

「アーク!」

ゼノンは思わず切迫した叫びをあげていた。

サエリの身体を取り囲んで癒しを施していた者全員がこちらに向いた。

駆け寄ろうという仕草を見せる者達に、ゼノンは片手を上げた。

「アークは私に任せろ。よいか、マラドス、決してその娘を死なすな! 頼んだぞ」

荒々しく叫び、ゼノンはアークを抱えて聖なる地へ飛んだ。






   
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