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第七話 唐突に儀式
「彼女はいったいどこにいるんだ?」
周りを眺め回し、顔をしかめたアークは苛立ちを感じつつ呟いた。
彼は深い森にいて、アークの名を呼ぶサエリを長いこと捜し回っていた。
声は確かに聞こえるのに、その出所は皆目見当がつかない。
耳を澄まし、周囲を窺っていたアークは、藪の向うから声がしたように思え、茂みをわけ入ってみたが、サエリの姿は見あたらなかった。
いったいどういうことだ?
この森のどこかに、彼女は絶対にいるはずなのに…
それにしても、なんでこんな森の中に入り込んだのだろう?
アークも、サエリも…
こうなった経緯を思い出そうとするのだが、頭の芯がぼんやりしていて、記憶を探ることができないのだ。
…アーク……
サエリ?
どうも目の前にそびえ立っている巨木の頂上から聞こえた気がした。
アークは、浮遊の技を使おうとしたが、なぜか使えない。
な、なんだ?
眉間を寄せたアークは、手のひらを上に向け、光の魔力を発動させようとしたが、やはり何も起こらない。
不可解には思ったが、危機感など感じず、アークは浮遊をあっさりと諦めた。
大きな木の幹に飛びつくと、彼は苦労しててっぺん近くまで上っていった。
眺め回してみたが、限りない地の果てまで森林が続いているばかりだ。
くねくねと曲がる大小の川が森に筋をつけている。
道もなければひとの気配もない。もちろん獣の気配も…
ふいに深い孤独感に襲われた。
「サエリーっ!」
「アーク、アークね」
これまでと違う、彼の声に応えているサエリの声に、アークは胸が躍った。
ようやく彼の声はサエリに届いた。
「サエリ」
「あなたどこにいるの? ずっと捜していたのよ」
アークの呼びかけに間をおかず、喜びを滲ませた彼女の返事が聞こえた。
声はかなり近いのに、なぜだか、どこにも姿は見えない。
「いったい君はどこにいるんだい? サエリ、頼むから姿を見せてくれ」
アークは頼み込むように声をかけた。なのに、サエリは気楽そうにくすくす笑いだす。
「サエリ、笑ってないで…」
「あなたこそ、どこにいるの? 姿を現すのは、あなたの得意じゃない」
せっぱ詰まったアークと違い、サエリにはずいぶんと余裕があるらしい。
天真爛漫で、とても楽しげな笑い声を耳にして、アークは安堵しつつも不満を感じて片頬を膨らませた。
「あなたは私の居場所が分かるって言ってたでしょ? 私を感じると飛んでこられるって。飛んできてアーク、いますぐに」
それが飛べないのだ。浮遊の技さえも使えない。なぜだ。
…ポンテルス。そうか。彼が金縛りを…
アークはパチリと目を開けた。
ポンテルスの顔がそこにある。
「いい加減に、このいまいましいまじないを解いて下さい!」
憤りにかられて叫んだアークに、ポンテルスが笑う。ポンテルスの背に隠れるように立っているジェライドも、笑いを噛み殺している。
「ジェライド、何がおかしい!」
「だってさ、アーク。君はもうすでに動いてるだろ?」
アークはきゅっと眉を寄せ、ポンテルスとジェライドに目を向けてから、自分の身体を見下ろした。
そして右腕を上げ、ぎゆっと拳に固めた。
ほんとだ…。すでに金縛りは解けているし、ポンテルスに怒鳴った勢いで、起き上がってすらいる。
ほんのり赤くなったアークは、何も語らず、仏頂面でベッドから出た。
しばらくはベッドすら見たくない気分だ。
サエリの顔をやっと間近に見て、アークは体中の力が抜けるほど安堵した。
背後に両親とポンテルスに加え、治癒者のセドルまでもいたが、彼の意識には眠り続けているサエリしかなかった。
アークはそろそろと手を伸ばし、彼女の頬にそっと触れた。
やわらかな感触、そしてぬくもり。
心が和んだ。
彼の指先は、知らず知らずのうちに頬の赤みから唇を巡り、閉じられたままの瞼に辿り着いた。
致命傷と思われた怪我も、治癒者たちの手により完治したとのことだった。
もちろん完治といっても、急激な治癒は彼女の身体に負担になっている。まだ充分な休養が必要だ。
それでも、早く目覚めてはくれないだろうか?
サエリの瞳が見たくてならない。
言葉は交わせなくていいから、見詰めあって意思を繋ぎたい。
そのとき、アークの望みに応えるように、サエリの瞼が開いた。
薄く開かれた瞼の間から覗く彼女の瞳を捉えた瞬間、胸が震えた。
震えの激しさに、痛みさえ感じる。
「アーク…捜したの…よ…」
夢とは違い、彼女の声は痛々しいほど弱いものだった。
「ああ、私も」
サエリの瞳の光が揺れ、彼女は一度目を閉じてからゆっくりと息をついた。
そしてまた目を開いてアークを見つめ、ようやくというように口を開く。
「アーク…、わたし…、あなたに…」
息を押し出す勢いを借りて、どうにか声を出している状態だ。
「サエリ、苦しいんだろう? いまは…」
彼女は微かにくびを振り、手を差し延べてきた。
その腕は小刻みに震えている。
ひどく衰弱しているサエリを見て、胸が疼いた。
アークは彼女のほうへと屈み込み、サエリの手を取ると、瞳を見つめたまま大切なものに命を吹き込むように、ほっそりとした指にそっと唇を当てた。
「言いたい…、ことが…、あるの…」
酷く息が苦しいのだろう、一言を口にするたびに、彼女は大きく喘ぐ。
「アーク…、わたし…、あなたを…、愛してる」
サエリ…
ずっと彼女の指に唇を当てていたアークは、そっと唇を離した。
「サエリ。私も君を愛している。この世のありとあらゆるすべてのもののなかで、なによりも誰よりも、君を愛している」
アークは、心からあふれ出るまま言葉を口にした。
彼を見つめていたサエリの目が閉じたとき、目尻から涙が零れ落ちた。
その涙にアークはそっと指先で触れた。
アークははっとした。
指先から、アークの意志と関係なく、聖なる光が流れ出てゆく。
光は、彼女の全身を包み、淡く輝いたあと、吸い込まれていった。
アークは驚きに目を見開いた。
こんな現象が起きたのは、生まれて初めてのこと…
「これは…?」
「アーク。おめでとう。指輪は? 」
アークは母の言葉に眉をひそめ、後ろに振り返った。
そ、そういえば、この場にいるのは自分一人ではなかったのだった。
「は、はい? 母上…」
アークは、なぜか大喜びしている母親に抱きつかれ、眉をひそめた。
指輪? なぜ父は苦笑しているのだ。
ポンテルスがすっと前に進み出てきた。そして両手を胸にあててから、右手をすっと顔の横に差し上げた。
「ポンテルス殿?」
「聖なるアーク様、聖なるサエリ様。誓いの儀式、大賢者ポンテルス、しかと見届けましたぞ」
は?
突然、真面目な顔で意味のわからないことを言い出したポンテルスを、アークは唖然として見つめた。
聖なるサエリと、いま言わなかったか? それに誓いの儀式と…?
「どうやら、本人は、分かっていないようだぞ」
「そのようだけど…」
ゼノンの言葉に、サリスはそう言ったものの、力強く頷いて言葉を続けた。
「すでに儀式は完了したのですもの。本人が分かっていようといまいと…」
「うむ。サリス様の申されるとおり」
「あのいったいなんなのですか? 何をおっしゃっているのか、皆目意味が…」
「アーク。いま愛の言葉を贈り合ったでしょ。そしてあなたは、光を注いだ。あなたたちは正式に婚約したのよ」
「婚約…正式な?」
「ええ。婚約したのです。それで? アーク、指輪は?」
ゆ、指輪?
「指輪とは……もしかして、婚約指輪のことをおっしゃっているのですか? 母上」
「そうでしかありえないではありませんか。結婚指輪はいくらなんでもまだ早いわ。で、指輪はどこ?」
まるでいますぐにでも、アークの手にひらに指輪がころりと転がり出てくるとでもいうように母は手を差し出しながら言う。
その手に視線を当てたアークの頭は、これ以上ないほど混乱していた。
話の筋がまったく見えないのだ。そして指輪?
婚約指輪とは、いったいどこで手に入れればよいものなのだ?
「さあ、アーク様。参りましょうぞ」
アークは、ふいに腰のあたりを掴んできたポンテルスを見上げた。
どこに?
そう戸惑いながら考えた途端、アークはポンテルスの手でその場から消えていた。
突然消えた息子に、むーっと頬を膨らませている妻を見つめ、ゼノンは笑いを押し殺した。
「あの子、指輪はどうしたのかしら?」
眉を寄せて独り言のようにサリスが言う。
ゼノンの笑いはさらに増した。
アークは、たぶん忘れている。父親の自分がそうだったように…。
だが、ここで吹き出したり笑い声を上げたりしたら、彼の過去の失態を、妻が思い出さないとも限らない。
ゼノンは口許を歪めながら、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「サリス、すぐ見つけてくるさ。心配はいらな…」
そう口にしたのは失敗だったと、ゼノンは振り返った妻の顔を見て気づいた。
「そうでしたわ、殿方たちは、女性にとってとても大切なもののことを…ついうっかりと…忘れておしまいになれるんでしたわね?」
ゼノンはぐうの音もでず、愛するサリスのむっとした顔を、気まずく見つめ返した。
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