白銀の風 アーク

第七章

第一話 まさに、異世界



鼻にツンとくる刺激臭に反応し、沙絵莉は意識を取り戻した。

先ず目に入ったのは人の背中だった。

何か手に持っているようで、テーブルに近づき、それを置いたようだ。

見てすぐはアークかと思ったが、彼ではない。

…いったい誰だろう?

それに、ここはどこなの?

疑問が浮かぶものの、ぼんやりした意識の反応はひどく鈍い。

ともかくその背中に声をかけてみようとしたが、口の中が渇ききって固まってでもいるような感じで、声どころか唇さえも開かなかった。

手足もひどく重たい。

いったい、私はどうしたのだろう?

右手を動かしてみようとしたが、思うように力が入らず、ほんの僅かしか動かせなかった。

身体を動かすためには、少しずつ全身の強ばりをほぐすしかないようだ。

ここはアークの世界に違いないと思う。

彼はどこにいるのだろう?

それに、なぜ私はベッドに寝ているのだろうか?

どうして身体がうまく動かせないのか?

ぼんやりした頭が、少しずつ起動しはじめ、彼女は眉をひそめた。

私…バスに乗って…アパートに戻ったよね?

着替えをして、シャワーを浴びて…アークが来る前にって…

あれっ? どうしたんだっけ?

そのあたりの記憶が、まるでない。

シャワーを浴び、着替えをしたのか?

でも、アークが迎えに来てくれたから、私は彼の世界にいるのではないの?

彼が来るまでに、私はきちんと身繕いを終えられたんだったかしら?

どうしてここにアークはいないの?

ここにいる人は誰で、どうして私は身体が動かせないの?

…さっぱりわからない。

こうなった状況が、まったくわからず、もどかしさに沙絵莉は苛立ちを感じた。

ダメダメ、沙絵莉、落ち着いて。

初めからきちんと整理して考えるのよ。

岡本の家を出て…バスに乗って…そうそう、それはちゃんと覚えてる。

それで間に合わないって、焦ってアパートまで走って…階段を…

沙絵莉ははっとした。

そうよ、落ちたんだわ、階段を踏み外して。

泰美と由美香がいて…

わ、私…大丈夫だったのね?

あんなところから後ろ向きに落ちたのに、いま、全然痛みがない。

ということは…?

ああ、もしかして、落ちてきたところをアークが受けとめてくれたとか?

…いえ、ちょっと…待って。

沙絵莉は、自分の思考に矛盾を感じて待ったをかけた。

落ちたわ。痛かったもの。

落ちた瞬間の感覚がはっきりと脳裏に蘇り、沙絵莉は身震いした。

グギッっとかって…思い出したくもない、ひどく嫌な音がしたっけ。

あれは夢じゃなかった。

とすると、やはり大怪我をした筈だわ。

ろっ骨か背骨あたりが折れたと思えた。

沙絵莉は身体をどうにか左右に揺らし、背中の状態を確かめた。

な、なんともないみたい。

てことは、治療してもらったってことよね?

それって誰が? ま、まさかアーク?

『癒しは使う者の命を危うくすることもある』という、アークの口にした言葉がまざまざと頭に浮かび、彼女は震え上がった。

まさか、まさか…ア、アーク…

「ア…ク」

沙絵莉は、必死にアークの名を口にした。

この場にいる唯一の人に気づいてもらい、アークの安否を聞かなければ!

「ア…ク!」

引きつったような叫びに、背を向けていた人がすばやい動作でこちらを向いた。

そしてさっと寄ってきた。

「お目覚めになりましたか?」

彼女に向けて、必要以上に礼儀正しく頭を下げる。

「ア…ク、ア…ク」

沙絵莉は、もどかしさを感じながら、懸命にアークの名を口にした。

知的そうな目がきらりと光り、すべてを飲み込んだというように頷く。

「アーク様は、いまここにはおられません」

「だ…い…じょ…ぶ」

強張った口を無理やりこじ開けながら、沙絵莉は言った。

「ア…ク、か…」

「少しお待ち下さい」

几帳面な口調で言い、彼は背を向け、テーブルに置いてある小鉢を手にして振り向いた。

「失礼致します」

堅苦しく断りを述べてから、彼はそっと沙絵莉の後頭部の下に手を差し入れて頭を支え、「さあ、これを」と、小鉢を唇に当てた。

どうやら液体状の薬らしい。

この男のひとは、お医者様なのだろうか?

ずいぶん若く見えるけど…

少しぬくもりのあるさらさらした液体が喉を通りすぎてゆき、乾ききっていた喉、そして身体の内部までが、いっきに潤った感じがした。

だるかった両手足もふっと軽くなった。

なんだか知らないが、凄い薬みたいだ。

あえて言うならば、超スペシャル栄養ドリンクってところだろうか?

「あー」

ためしに声を出してみた沙絵莉は、嬉しさに笑みを浮かべた。

「良かった。声が出るわ。あの、ありがとうございました」

まだ沙絵莉の頭を支えていた手が、すっと外された。

急いで外したというほどではなかったのだが、どうも焦って手を引き抜いたように感じられて沙絵莉は戸惑った。

もしや、彼女の言葉に、気を悪くしたのだろうか?

「礼には及びませぬ。これが私めの仕事でございますゆえ」

「仕事って、貴方はお医者なんですか?」

「はい。治癒者です」

やはり、治癒者なのね。

「私、怪我をしてたんですよね?」

「はい」

「貴方が、怪我を治療してくださったんですか?」

「私も手伝わせていただきましたが、貴方様の治療にあたらせていただきましたのは、私の父である治癒者マドラス。そして大勢の治癒者たちでございます」

大勢の?

「あの…アークは、彼は元気なのよね?」

「はい、ご安心ください。アーク様は、無事に回復なされました」

「か、回復って…。そ、それじゃあ、癒しの技とかいうのを、アークは私に使ったのね?」

「はっきりそうとお聞きしたわけではございませんので…私にはなんとも」

どうやら、彼は何もかも知っているというわけではないらしい。
それに、アークの親しい友人とかいうのでもなく、ただ、治療を終えた沙絵莉を、看護してくれていただけの人らしい。

「そう。…とにかく、彼は大丈夫なんですよね?」

「はい」

沙絵莉はきっぱりとしたその返事に心から安堵し、全身の力を抜いた。

だが、アークは、治癒というのは高価な技だと言っていた。

あの衝撃からすると、彼女の怪我は相当酷かったと思える。

つまり、沙絵莉の治療もひどく高い治療費を支払わなければならないのではないだろうか?

高価って、どれくらいの値段なのだろう?

彼女に払えるくらいの値段なのだろうか?

そう考えた沙絵莉は、顔をしかめた。

支払うったって、この世界のお金などもっていないのに…

彼女の世界のお金を、この世界のお金に換金するなんてわけには…ゆかないわよね?

こ、困った。

とりあえず、アークにお金を立て替えてもらっといて、こちらで働かせてもらって、お金を稼いで…

就職口はあるようなこと言ってたし…

アークの師匠である魔法使いの家のお手伝いとか…やらせてもらえるだろうか?

今後の事を色々考えつつ、沙絵莉は治癒者と名乗った男性をそっとうかがった。

このひとに、治療費を尋ねたところで、お金の価値を知らないんじゃ話にならないし…

また次の薬でも作り終えたのか、男性がこちらを向き、ふたりの視線がぱちりと合う。

と、その男性、電光石火の早さでさっと視線を外した。

なにも、こうもあからさまに視線を外すことはないんじゃないか。

もしやこの世界では、ひとと目を合わせるのは、失礼なことだったりするわけ?

淑女はどうとかって、アークがいちゃもんをつけてきたが…この世界の淑女は、男性と視線を合わせちゃいけないのかもしれない。

治癒者は、前と同じ要領で、沙絵莉に薬を飲ませてくれた。

相手は彼女と視線が合わないように苦心しているように見えて、なんだか精神的に疲れる。

「お名前は、なんておっしゃるの?」

沙絵莉の問いに、相手はぎょっとしたようだった。

なんで名前を聞かれたくらいで動揺するのか知らないが、手元がぴくりと引きつり、平皿の中の緑色の薬が、一滴彼女の頬に飛んだ。

「ご、ご無礼を」

とんでもなく狼狽えた彼は、慌てふためいて布を手にして戻ってきた。

だが、そのときには、彼女が手の甲で拭った後だった。

「このくらい大丈夫です。もしかしたら、女性が男性に名前を聞いたりしてはいけないきまりでもあるんですか?」

沙絵莉の言葉に、相手はどう答えていいのかわからないようで、返事をしてくれない。

「やっぱり、この国の淑女はそういうことをしないのね。アークが言っていたわ、淑女は見知らぬ男性と軽々しく口を聞かないものだって…。私、貴方を困らせるつもりじゃなかったの。これからは必要なこと以外、大人しく口を閉じてますから」

相手は戸惑い気味の表情を浮かべたが、やはり何も言わなかった。

宣言どおり、沙絵莉は口を閉じた。だが、口を聞かないなどと約束したために、かえって質問が無数に頭に浮かぶ。

まったく、人と思うように口も聞けないなんて、とんでもないところだわ。

沙絵莉は疲れたため息をつきつつ、首を回して周りを見回した。

大きな窓がある。外を窺うと、どうやら夜中らしい。

「わっ」

とんでもないものが目に入り、口を聞かないつもりが、彼女は思わず大声を張り上げていた。

「ど、どうなされました?」

沙絵莉の叫びに驚いたらしく、治癒者は慌てて問いかけてきた。

「あれです、あれ」

治癒者の男性は、沙絵莉の指さす窓へ凄まじい勢いで駆け寄った。

窓越しに外を窺いながら「何が見えたのですか?」と、急くように言う。

驚かせてしまったらしいことに、恐縮しつつ沙絵莉は「あれです」ともう一度言った。

沙絵莉にとっては、驚くべきものだったが、この世界の彼にとっては当たり前のものだろう。

だが、信じられないほど巨大な三日月なのだ。驚かずにいられない。

沙絵莉は思わずベッドから降り、治癒者のいる窓に歩み寄って、空を見上げた。

「信じられない、なんて大きいの」

これじゃあ、地球の月をウズラの卵とすると、こっちのはダチョウの卵なみ。

治癒者が、ぎょっとしたようにぴょんと横飛びに退いた。

月を見てばかなことを口走っている沙絵莉が自分のすぐ横に立ったからだ。

「お、起き上がっては…お身体は、…だ、大丈夫でございますか?」

大丈夫なようだ。

沙絵莉は数メートル後ろにいる治癒者に頷き、また月に視線を向けた。

巨大なだけ、神秘さが増しているみたいだ。

輝きが銀色の粒になって、キラキラと舞い落ちてくるみたいに見える。

沙絵莉は、その幻想的な眺めに感嘆のため息をついた。

まさに、異世界…






   
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