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第三話 泣きたい気分
「サエリ」
ゼノンという紳士に呼びかけられ、俯いて唇を噛んでいた沙絵莉は、顔を上げた。
「はい」
「君は、ここが何処だか、わからないのだろう?」
「は、はい。わかりませんけど……。あの、病院とかではないんですか?」
「ここは、私の屋敷だ」
「そ、そうなんですか? お邪魔してしまって……い、いえ、ご迷惑をおかけしてしまって、すみません」
「気にすることはない。ともかく、命に関わらず、良かった」
「はい。あの、私、ひどい怪我をしたんですよね?」
ゼノンは無言で頷き、沙絵莉の問いを肯定した。
「治癒者のひとたちが、魔法で治してくださったんですよね?」
「ああ、癒しの技で。そうだ、アークが来る前に、少し調べておくとしようか…サエリ」
「調べてって……あの、何を?」
そう問い返したものの、癒しの技を使用した治療費がいったいいくらなのか聞くつもりだった沙絵莉は顔をしかめた。
…切り出せなくなってしまった。
治療費がいくらなのか、沙絵莉に払う方法があるのか、早く知りたいのに…
このアークのお師匠様に頼んで、仕事をもらって、お金を稼いで…そして、支払いを終えたら、沙絵莉の世界に帰るのだ。
お風呂に入っているアークなんて、もうどうでもいいし…
彼なんて、あの美女と勝手に仲良くしてればいい。
「横になってくれるか?」
「横に?」
戸惑った沙絵莉は、なぜ?という問いを込めて言った。
「治療の経過を見ておきたい」
「あ、はい」
沙絵莉は素直に返事をし、ベッドに横になった。
アークのお師匠様は、治癒者でもあるということなのか?
ゼノンは先ほどのセドルという治癒者と同じように、沙絵莉の身体の上に手をかざした。
そうやって、何かを感じているようだ。
初め、胸の辺りにかざされた手は、探るようにゆっくりと全身を移動した。
「このあたりに、微かでも違和感などは感じないか?」
ゼノンは、左胸のあたりを指している。
微かでもという言葉に、沙絵莉は眉をひそめて心臓のあたりに手を置いて、意識を集中してみた。
沙絵莉は、きゅっと眉を寄せた。
そう言えば…なんだか、ちょっと…
「熱いです。いえ…冷…」
沙絵莉は言葉を止めた。
なんと言っていいのかわからないのだ。
熱いなと思った瞬間には、冷たいような感覚を感じ、なにがなんだかわからない。
「サエリ!」
鋭く呼ばれ、集中していた沙絵莉は、はっとして顔を上げた。
「すまない。もう感じなくてよい。リラックスして…全身の力を抜いて」
沙絵莉は、叱るように呼ばれたことで、不安になった。何か彼女はしらぬ間に不味い事をしたのだろうか?
「あの、私…何かしてはいけないことを、してしまったんですか?」
「いや、何もしていない。身体…」
ゼノンが話しているところで、ドアをノックする音が聞こえた。
「サリスですわ。よろしいかしら?」
「ああ、入ってくれ」
ゼノンの返事に、すーっとドアが開いた。
沙絵莉は眩暈がした。またまた凄みを増して美しい女性が現れた。
ウエストの下までもある長い髪は、きれいな曲線を描いて揺れている。その髪の色は淡い水色だ。何か髪につけているのか、キラキラと輝いて見える。
そのひとは、小さなトレーを抱えていて、沙絵莉のほうを気にしつつ、テーブルにトレーを置いた。
そういえば、このゼノンというひと、アークと同じ銀色の髪…この世界のひとの髪は、色々のようだ。
先ほどの美女の紫色の髪も、とんでもなく綺麗だった。
自分のありふれた栗色の髪が恥ずかしくなってくる。
「サエリ」
やさしい笑みを浮かべ、女性は嬉しげに沙絵莉に近づいてきた。
そして、そうするのが当たり前というように、何も言わずに沙絵莉の手を取り、握り締めた。
親しげな行為に、一瞬戸惑ったが、ほんわりとした温もりと肌は心地よく、沙絵莉は手を引くようなことはしなかった。
包まれた手に意識を向けていると、ぬくもりが腕を伝って流れ込んでくるのをはっきりと感じた。
その不思議な現象に沙絵莉は驚いた。それでも、嫌な感覚ではない。
これも、魔法なのだろうか?
「サリス」
「わかっていますわ」
ふたりは、沙絵莉にはわからない会話をしている。いったい、何がわかっているというのか?
この世界のひとは、不思議ばかり…
「サエリ、目覚めてからは、はじめてね。はじめまして」
「は、はい。はじめまして」
目覚めてからは、はじめて?
それって、沙絵莉が意識を失っている間に、会ったということだろうか?
このひとも、治癒者。ゼノンというひとと、親しいようだが、どんな関係…
「私はサリスよ。アークの母です」
その自己紹介に、沙絵莉は唖然とした。わ、若い!若すぎる!
「アークの? 本当にお母様なんですか?」
「ええ。似ていないかしら? 目元とか、ちよっと似ていると言われるのだけど…」
沙絵莉は、パチパチと瞬きし、淡い水色の髪をしているサリスの目元を見つめた。
「に、似てるかも…少し…」
彼女の返事に、サリスは楽しげな笑みを浮かべ、頷くとまた口を開いた。
「本当に良くなったようね。お顔の色も、とてもいいわ」
ほのぼのとした雰囲気の笑顔につられて彼女は微笑み返した。
「そうか、自己紹介を忘れていたな」
そう呟くように言ったゼノンに、沙絵莉は視線を向けた。
「私はアークの父親だ。すでに知っているだろうが、名をゼノンという」
沙絵莉は、ゼノンの顔をまじまじと見つめた。
なんと、アークのお師匠様は、彼の父親だったのか?
それでは、ここはアークの家ってこと?
彼女は、いまさら部屋を眺めた。彼は、素敵なお家に住んでいるようだ。
そして、ここで父の仕事を手伝っているわけか?
てことは、この家のどこかに、魔法の薬を作る釜とかがあったり?
「さあ。沙絵莉、少しでも何か口にした方がいいわ。治癒者のセドルに、食事のこともちゃんと聞いておきましたからね。これからは、私が看護するわ。なにもかも安心して私に任せてね」
その申し出に、沙絵莉は萎縮した。
アークの母に自分の看護などさせられない。
「私、もう全然大丈夫です。どこも痛くないし。癒しの技とかいうので、怪我を治してもらえて、本当に助かりました。あの…」
「まあ、サエリ。遠慮などしないでちょうだい。そんな必要はないのよ」
そう言われても…そうですかとはゆかない。
「お茶を持ってきたの。少し飲んでみる?」
「はい」
ベッドに寝ていた沙絵莉は、身を起こし、サリスが差し出してきたカップを受け取った。
曇りガラスのような材質のカップには、リアルな花が描かれている。
「わあっ、素敵なカップですね」
「気に入ったかしら?」
「はい。こんなのみたことない…」
沙絵莉は、ぎょっとしてカップの花を見つめた。蕾が描かれていたのだが、ぷくっと膨らみ、ゆっくりと花が開いてゆく。
「うそ…」
「驚かせてしまった? これは、私の生まれた部族の工芸品なの」
「工芸品? これも魔法なんですか?」
「ええ、もちろんそうよ。シャラドには、これよりも透き通った材質のものがあるのだけど…生まれ故郷のもののほうが、私にとっては温かみが伝わってくるし…好きなの」
沙絵莉は、曖昧に頷いた。
正直、いまのサリスの言葉は、半分ほどしか理解できなかった。
まず、シャラドとはなんなのだ? 地名?
カップのお茶は、すでに知っている味だった。花の祭りの時に飲んだクコティ。
沙絵莉は、少しずつ時間をかけて飲んだ。
アークの両親が、慈しむような眼差しで自分を見つめていて…なんとも落ち着かない。
「サエリ、クコティはお口にあったかしら? 初めての飲み物は、不安ではない?」
「あ、いえ…。クコティは、花の祭りのときに、飲んだので…」
サリスが驚いたように目を見開き、ゼノンに振り返ってふたりは見詰めあった。
「あ、あの…どうかしたんですか? 私、いま何かおかしな事を言いました?」
「いえ。そうではないのよ。そう、花の祭りに。楽しかった?」
「はい。とっても。初めてのものがもういっぱいで。見世物小屋で、色んな魔法を見ました」
「そうなの」
沙絵莉は頷き、あの日のことを思い返した。
花の祭りに誘ってくれて、私ってば、最初アークのこと疑っちゃって…
けど、彼はとってもやさしくて…本当にあの日は楽しかった。
「若いひとたちが着ていた花の衣装が、とても素敵でした。私、とっても羨ましくて…」
「来年の花の祭りには、私に作らせてちょうだいね?」
来年と言われ、沙絵莉は返事に困った。
それに、作らせてちょうだいって…
まさか、アークの母が、沙絵莉のために花の衣装を作ってくれるというのか?
まともに受け取っていいのだろうか?
これって、単に、この世界の社交辞令だったりして…
「そ、そうだ。この服…あの、どなたの?」
沙絵莉は自分が着ている水色のドレスのことを思い出し、アークの母に尋ねた。
「ああ、それは私の夜着ですよ。でも、新しいのよ。だから安心して着てちょうだい」
「すみません。私ってば、自分の不注意で怪我をして、こんなにお世話をかけてしまって…」
「そうだったな。サエリ、いったいどうして、そんなひどい怪我を負ったのだね?」
「階段から落ちて…足を踏みはずしてしまったんです」
「うむ。そうか。これも運命か…」
う、運命?
あっ、そうだ、治療費のこと聞かなきゃ…
「あの…」
突然、ノックも断りもなくドアが開いた。
アークが飛び込んできたのだ。
「サエリ。やっと目覚めたんだね。気分はどうだ。どこか痛くはないのか?」
ポンポンと質問してくるアークは、上掛けの上に両手をつき、彼女の顔を覗き込んでくる。
彼ときたら、髪から雫はたれているし、上着も羽織っただけで、前がはだけてしまっている。
「アーク。髪から水がしたたっていますよ。肩も濡れているじゃありませんか。それに、その格好はなんですか?」
母親に叱られたアークは、やたら気まずそうに顔をしかめた。
「すみません、母上。風呂に入っていたところで…、ジェライドからサエリが目覚めたと聞いたものですから…すぐに乾かしますよ」
その彼の頭の上にタオルがかけられ、アークは後ろに振り向いた。
先ほどの美女だ。
沙絵莉は胸が焼け、唇をきゅっと噛み締めた。
「ああ、すまないジェライド。気がきくな」
「ずぶぬれのまま、すっ飛んで行こうとするんですからね。素っ裸のまま、ほんとうに出て行くんじゃないかと思いましたよ」
「ジェライド!」
す、素っ裸? それって、このジェライドいう名の美女は、アークの裸を見慣れているということ?
沙絵莉は気分が悪くなった。
もうこれ以上、ここにいたくない。
「あ、あのっ!」
沙絵莉は、この場の全てを消し去りたい気持ちを抱きながら、大声を上げた。
全員が沙絵莉に注目し、沙絵莉は顔を真っ赤にした。
「わ、私の服は…あの、どこに…?」
叫んだまでは良かったが、沙絵莉の声は尻つぼみに小さくなった。
「ふ、服を着替えたいんです。それと、私のバッグは、ここにありますか?」
沙絵莉は誰とも目を合わせずに、誰にともなく尋ねた。
「着替える? どうして?」
驚いた声でアークが言った。
「どうしてって…もう帰るから。もちろん」
当然でしょ。という口調で沙絵莉は言ったが、心の中では泣きたい気分だ。
彼女の胸は嫉妬の感情が渦巻いている。
そんな自分が嫌でたまらない。
できることなら、この世界から自分を消し去りたい。
いますぐにでも自分の世界に戻りたい。
「私の服は…どこに?」
全員が、目配せし合った気がして、沙絵莉は眉を寄せた。
「サエり。今日はもう遅い。それに、君はまだまだ看護が必要だ」
ゼノンが言った。
とてもやさしい言葉だったが、沙絵莉は頑として首を横に振った。
「もう大丈夫です。それに、私が戻らないと、家族に心配をかけてしまいます」
彼女はもごもごと言いながら、ベッドから出ようとした。だが、アークの手が、そっと沙絵莉の両肩を押さえつけた。
その手を彼女は反射的に払った。
いまは、彼に触れられたくなかった。
ショックを受けたように、目を見開いたアークを見て、沙絵莉は気まずく視線をそらした。
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