|
第四話 信じること
「もう、本当に大丈夫です。頭がふらついたりもしないし…あの、みなさんのおかげです。本当にありがとうございました」
アークの手を振り払ってしまい、沙絵莉は気まずさに耐えられず、顔を下に向けてお礼を言い、最後に深々と頭を下げた。
この世界の常識がどんなものかは知らないけれど、怪我を治してもらい、元気になった途端、帰ると言い出すなんて…みんな、恩知らずで非常識者と思ったのではないだろうか?
…けど、もうこれ以上、アークと美女が一緒にいるところを見たくない。耐えられないのだ。
胸がひりついて、鋭い痛みすら感じる。
この世界は魔法ありきの世界…彼女にとっては普通でない世界だ。
それでも…花の祭りのときは、あんなにも楽に溶け込めたのに…
なのに…いまは…この場に存在することがいたたまれない。
沙絵莉ははっとした。
そ、そうか…
いま、自分がこんなにも、この場に馴染めず心細いのは、自分がアークを拒絶しているから…
彼を信じられないからなのだ。
私が悪いの?
心が不安定に揺れ、胸が苦しくなり、涙が込み上げてきた。
嗚咽が込み上げてきそうになった沙絵莉は、手のひらで口を覆った。
「サエリ、少しの間、ふたりだけで話をしませんか?」
アークの母が顔を近づけてきて、囁くように言った。
「貴方がたは、少し、外に出ていてくださらないかしら?」
「うむ。そうするとしょう、アーク」
「ですが!」
「アーク、話を終えたら、すぐに呼ぶわ」
サリスから諭すように言われたアークは、返事をしなかった。
母の言葉を受け入れたのか、サリスだけを残して、部屋から出て行くことにしたようだ。
先ほど彼を拒絶したくせに、沙絵莉は彼がこの場からいなくなると知り、パッと顔を上げた。
アークは戸口から出ようとしているところだった。
ジェライドという名の美女と顔を寄せるようにして、小声で何か話しながら出て行く。
とんでもなく親密そうなふたりをみて、沙絵莉の胸は虚無感に襲われた。
ドアが閉まる音を耳にした途端、悲しくて、悲しくて、涙が零れた。
顔を覆っていた沙絵莉は、そっと右肩に手を置かれ、びくんと身を震わせた。
「サエリ…」
サリスは彼女の名を呼び、肩に置いた手を、やさしく背中へと回した。
手のひらは熱く感じるほど温かかった。
また先ほどと同じような不思議な振動が、身体の内部へと伝わってきていたが、アークと美女のことで頭が一杯の沙絵莉には意識できなかった。
ふと気づくと、サリスがとても小さな声で歌っている。
その歌声はとても澄んでいてやさしく、自分の殻に閉じこもっていた沙絵莉の心は、しらぬ間に落ち着きを取り戻していた。
彼女は顔を覆っていた両手をそろそろと外し、サリスの方へおずおずと目を向けた。
サリスは沙絵莉を見てはいなかった。
そのことに彼女はほっとして、歌い続けているサリスの横顔を見つめた。
サリスは、沙絵莉の視線に気づいているのだろうが、気づいていないように振舞ってくれているように思えた。
アークの母の肌は信じられないくらい透明感がある。そして長い髪は、水色と銀色に輝いている。
「美しい…髪ですね」
感嘆の想いが湧き、沙絵莉は自然に口にしていた。
サリスが歌うのを止め、ゆっくりと沙絵莉に振り返ってきた。
「昔はね、こんな髪の色ではなかったのよ」
親しげに返された言葉に、沙絵莉は面食らいながらも頷いた。
ありがとうとかの言葉を予想していたのに…
「あ、あの。それじゃ、どんな色だったんですか?」
「普通の水色」
「ふ、普通の?」
「ええ。私の部族は、水色の者が多いの」
「そ、そうなんですか? 部族?」
「ええ。私はね、このカーリアンの生まれではないの」
「カーリアン…ですか?」
口にしてみて、沙絵莉は眉をひそめた。
カーリアンというのは、前にも耳にした気がする。
たぶん、アークではないだろうか?
彼が一度、口に…
ああ、そうだ。花の祭りの日だ。
カーリアンのシャ…
「この国はカーリアンというのですよ。私たちが住んでいるここは、シャラド」
そうそうシャラド。先ほども、アークの母が口にした。
ここはカーリアン国のシャラドなのだ。
「アークから聞いてました。いま思い出しました」
頷きながら言った沙絵莉に、サリスは小さく微笑み、話を続ける。
「この国には戸惑うことが多いと思うわ。私もそうだったから…」
「そうなんですか?」
「ええ。魔法を統括できているから…。あら、そんな話はどうでもいいわね。アークはヤキモキしているでしょうし、早く呼び戻してあげたいけれど…」
アークのことが話題になり、沙絵莉はまた落ち着かなくなった。
「あの…。怪我を治していただいたことは、本当に感謝しています。でも、ともかく今夜はもう帰りたいんです。治療費のほうは…その…」
「サエリ…両親の元に帰りたい気持ちは、とても、とてもよくわかるわ」
そう口にしたサリスの表情が、唐突に暗く翳り、沙絵莉は驚いた。
「あ、あの…アークのお母様…?」
「ああ、ごめんなさい。なんでもないのよ。…そうそう、治療費のことなど心配しなくていいのよ」
沙絵莉は首をブンブン横に振った。
「そうはゆきません。ご迷惑をかけたのに、高い治療費を…あ、あの、私の治療ってどのくらいかかったんですか?」
「さあ。わからないわ」
困ったように言われ、沙絵莉は眩暈を感じた。
それって、わからないほど高額ってことじゃないのか?
「サエリ、貴方はご兄弟はいらっしゃるの? 私には兄が三人と、妹がふたりいるのよ」
「そうなんですか。ご兄弟が多いんですね。私には兄弟はいないんです」
「…そう」
沙絵莉の返事に、なぜかサリスは、どことなし気落ちしたように見えた。
彼女に兄弟がたくさんいたら、そこから話が広がったのにとでも思ったのだろうか?
「あの、アークには、兄弟とかは?」
「彼に兄弟はいないわ」
「そうなんですか」
そうか、アークも私と同じで一人っ子なのね。
「あの、聞いてもいいかしら…」
「はい、何をですか?」
「アークは、貴方の前に、どんな風に現れたのかしらと思って」
その問いに、少し戸惑ったものの、沙絵莉はアークと初めて逢ったときのをことを思い返した。
あのとき…
「私、父の車に乗ってて…」
「クルマ?」
「はい。乗り物なんです。私の世界の…」
わかります?というように、彼女はサリスを見つめ返した。
「乗り物の名前だったのね。ええ、わかったわ。それで?」
「はい。それで車から降りて…ちょっと考え事してて。振り返ったら、目の前に彼がいたんです」
初めは俳優か、有名人かと思ったのだ。だって、彼のまとうオーラは、半端じゃなかった。
それがまさか、異世界人だったとは……それも魔法使いだし。
「まあ、驚いたでしょうね」
「はい。もうびっくりしました」
「それで、突然現れたアークは、貴方になんと言ったの?」
「何も…わたし、その場からすぐに立ち去ったので…」
「あらまあ。それじゃ、次はいつ?」
「次は…」
二度目に彼と逢ったのは…?
ほんの一瞬…なのに、彼女の記憶に強烈に刻まれている。
「劇場から出てきたら…彼がいたんです。目が合って…でも目を外した一瞬後には、もういなくて…」
たくさんのひとがいた。それなのに沙絵莉の目は、アークしか見えなかった。
アークは、ふたりの心は繋がっていると言った。あれは彼の本心だったと思う。
本気の言葉だってことは、信じられるんだけど…
不安が渦巻くのだ。
彼を信じてしまっていいのかと…
だって、彼は異世界のひと。沙絵莉とは違う世界のひと。
世界が違えば、意識も考え方も違うのではないだろうか?
この世界のひとたちは、恋愛をどう考えているのか?
どう意識づけているのか?
「サエリ?」
サリスから呼びかけられ、彼女は顔を上げた。
「は、はい」
「驚いたのでしょうね」
「はい? 驚いたって?」
「アークですよ。彼が突然現れて、一瞬後に消えたのでしょう?」
ああそうだった。その話をしていたのだった。
「すみません。考え込んでしまってて…」
サリスがすっと手を差し出してきて、沙絵莉の手を取った。
そして、彼女の心をあやすかのように、そっとそっと手の甲を撫でてくれる。
アークの母の手は、どうしてこんなにもやすらぎを感じさせるのだろう?
「ありがとうございます」
感謝が湧き上がり、沙絵莉はサリスに言った。
サリスの眼差しが話の続きを望んでいるようで、沙絵莉は視線を宙に向けて、言葉を探した。
「私のいる世界は、魔法なんて夢物語なんです。だから、彼がふいに現れたり消えたりして、言葉に出来ないくらい混乱しました。なかなか信じられなくて…」
「いまは、信じられる?」
沙絵莉は一瞬返事に詰まった。
「信じるしかないって…感じかも…」
「それでいいわ。ゆっくり慣れてゆけば…」
ゆっくり慣れてゆく? それって、どういう意味で口にされた言葉なのだろう?
「それから? 次にアークはどんな風に貴方のところにやってきたの?」
「えーっと…そうそう、公園にいたときです。彼が現れて…。どうして私の前に当たり前のようにして現れるのか…もうわけがわからなくて…。ひどく動揺してるのに、彼は遊びに行こうって誘ってきて…」
「サエリ、もしかして、また逃げ出したのではなくて?」
「は、はい。だって、彼ってば、唐突過ぎるし…まさか魔法が使えるなんて思わないし…正直、気味も悪くて…」
「それで?」
サリスはずいぶんと楽しそうだ。
自分まで楽しい気分になってきた沙絵莉は、笑みを浮かべながら話を続けた。
「図書館にいたときに、また現れたんです。それで花の祭りに行こうって、誘ってくれて…」
「それで花の祭りを楽しんだのね?」
「はい」
彼との出会いからこっち、驚きの連続だった。
でも、逢いに来てくれないときもあって…もう忘れられたと思って…失意のどん底に落ちたりもした。
思えば、そのあたりから、沙絵莉の心はアークに囚われてしまっていたのだ。
彼に二度と逢えないのではと、辛くて悲しくて…
ふたりの心は繋がっていると、アークは沙絵莉に言った。
その言葉を、沙絵莉はストレートに受け入れた。
…信じるべきなのではないだろうか?
ただ、アークを…無条件に…
|
|