白銀の風 アーク

第七章

第四話 信じること



「もう、本当に大丈夫です。頭がふらついたりもしないし…あの、みなさんのおかげです。本当にありがとうございました」

アークの手を振り払ってしまい、沙絵莉は気まずさに耐えられず、顔を下に向けてお礼を言い、最後に深々と頭を下げた。

この世界の常識がどんなものかは知らないけれど、怪我を治してもらい、元気になった途端、帰ると言い出すなんて…みんな、恩知らずで非常識者と思ったのではないだろうか?

…けど、もうこれ以上、アークと美女が一緒にいるところを見たくない。耐えられないのだ。

胸がひりついて、鋭い痛みすら感じる。

この世界は魔法ありきの世界…彼女にとっては普通でない世界だ。

それでも…花の祭りのときは、あんなにも楽に溶け込めたのに…

なのに…いまは…この場に存在することがいたたまれない。

沙絵莉ははっとした。

そ、そうか…

いま、自分がこんなにも、この場に馴染めず心細いのは、自分がアークを拒絶しているから…

彼を信じられないからなのだ。

私が悪いの?

心が不安定に揺れ、胸が苦しくなり、涙が込み上げてきた。

嗚咽が込み上げてきそうになった沙絵莉は、手のひらで口を覆った。

「サエリ、少しの間、ふたりだけで話をしませんか?」

アークの母が顔を近づけてきて、囁くように言った。

「貴方がたは、少し、外に出ていてくださらないかしら?」

「うむ。そうするとしょう、アーク」

「ですが!」

「アーク、話を終えたら、すぐに呼ぶわ」

サリスから諭すように言われたアークは、返事をしなかった。

母の言葉を受け入れたのか、サリスだけを残して、部屋から出て行くことにしたようだ。

先ほど彼を拒絶したくせに、沙絵莉は彼がこの場からいなくなると知り、パッと顔を上げた。

アークは戸口から出ようとしているところだった。

ジェライドという名の美女と顔を寄せるようにして、小声で何か話しながら出て行く。

とんでもなく親密そうなふたりをみて、沙絵莉の胸は虚無感に襲われた。

ドアが閉まる音を耳にした途端、悲しくて、悲しくて、涙が零れた。

顔を覆っていた沙絵莉は、そっと右肩に手を置かれ、びくんと身を震わせた。

「サエリ…」

サリスは彼女の名を呼び、肩に置いた手を、やさしく背中へと回した。

手のひらは熱く感じるほど温かかった。

また先ほどと同じような不思議な振動が、身体の内部へと伝わってきていたが、アークと美女のことで頭が一杯の沙絵莉には意識できなかった。

ふと気づくと、サリスがとても小さな声で歌っている。

その歌声はとても澄んでいてやさしく、自分の殻に閉じこもっていた沙絵莉の心は、しらぬ間に落ち着きを取り戻していた。

彼女は顔を覆っていた両手をそろそろと外し、サリスの方へおずおずと目を向けた。

サリスは沙絵莉を見てはいなかった。
そのことに彼女はほっとして、歌い続けているサリスの横顔を見つめた。

サリスは、沙絵莉の視線に気づいているのだろうが、気づいていないように振舞ってくれているように思えた。

アークの母の肌は信じられないくらい透明感がある。そして長い髪は、水色と銀色に輝いている。

「美しい…髪ですね」

感嘆の想いが湧き、沙絵莉は自然に口にしていた。

サリスが歌うのを止め、ゆっくりと沙絵莉に振り返ってきた。

「昔はね、こんな髪の色ではなかったのよ」

親しげに返された言葉に、沙絵莉は面食らいながらも頷いた。

ありがとうとかの言葉を予想していたのに…

「あ、あの。それじゃ、どんな色だったんですか?」

「普通の水色」

「ふ、普通の?」

「ええ。私の部族は、水色の者が多いの」

「そ、そうなんですか? 部族?」

「ええ。私はね、このカーリアンの生まれではないの」

「カーリアン…ですか?」

口にしてみて、沙絵莉は眉をひそめた。

カーリアンというのは、前にも耳にした気がする。

たぶん、アークではないだろうか?

彼が一度、口に…

ああ、そうだ。花の祭りの日だ。

カーリアンのシャ…

「この国はカーリアンというのですよ。私たちが住んでいるここは、シャラド」

そうそうシャラド。先ほども、アークの母が口にした。

ここはカーリアン国のシャラドなのだ。

「アークから聞いてました。いま思い出しました」

頷きながら言った沙絵莉に、サリスは小さく微笑み、話を続ける。

「この国には戸惑うことが多いと思うわ。私もそうだったから…」

「そうなんですか?」

「ええ。魔法を統括できているから…。あら、そんな話はどうでもいいわね。アークはヤキモキしているでしょうし、早く呼び戻してあげたいけれど…」

アークのことが話題になり、沙絵莉はまた落ち着かなくなった。

「あの…。怪我を治していただいたことは、本当に感謝しています。でも、ともかく今夜はもう帰りたいんです。治療費のほうは…その…」

「サエリ…両親の元に帰りたい気持ちは、とても、とてもよくわかるわ」

そう口にしたサリスの表情が、唐突に暗く翳り、沙絵莉は驚いた。

「あ、あの…アークのお母様…?」

「ああ、ごめんなさい。なんでもないのよ。…そうそう、治療費のことなど心配しなくていいのよ」

沙絵莉は首をブンブン横に振った。

「そうはゆきません。ご迷惑をかけたのに、高い治療費を…あ、あの、私の治療ってどのくらいかかったんですか?」

「さあ。わからないわ」

困ったように言われ、沙絵莉は眩暈を感じた。

それって、わからないほど高額ってことじゃないのか?

「サエリ、貴方はご兄弟はいらっしゃるの? 私には兄が三人と、妹がふたりいるのよ」

「そうなんですか。ご兄弟が多いんですね。私には兄弟はいないんです」

「…そう」

沙絵莉の返事に、なぜかサリスは、どことなし気落ちしたように見えた。

彼女に兄弟がたくさんいたら、そこから話が広がったのにとでも思ったのだろうか?

「あの、アークには、兄弟とかは?」

「彼に兄弟はいないわ」

「そうなんですか」

そうか、アークも私と同じで一人っ子なのね。

「あの、聞いてもいいかしら…」

「はい、何をですか?」

「アークは、貴方の前に、どんな風に現れたのかしらと思って」

その問いに、少し戸惑ったものの、沙絵莉はアークと初めて逢ったときのをことを思い返した。

あのとき…

「私、父の車に乗ってて…」

「クルマ?」

「はい。乗り物なんです。私の世界の…」

わかります?というように、彼女はサリスを見つめ返した。

「乗り物の名前だったのね。ええ、わかったわ。それで?」

「はい。それで車から降りて…ちょっと考え事してて。振り返ったら、目の前に彼がいたんです」

初めは俳優か、有名人かと思ったのだ。だって、彼のまとうオーラは、半端じゃなかった。

それがまさか、異世界人だったとは……それも魔法使いだし。

「まあ、驚いたでしょうね」

「はい。もうびっくりしました」

「それで、突然現れたアークは、貴方になんと言ったの?」

「何も…わたし、その場からすぐに立ち去ったので…」

「あらまあ。それじゃ、次はいつ?」

「次は…」

二度目に彼と逢ったのは…?

ほんの一瞬…なのに、彼女の記憶に強烈に刻まれている。

「劇場から出てきたら…彼がいたんです。目が合って…でも目を外した一瞬後には、もういなくて…」

たくさんのひとがいた。それなのに沙絵莉の目は、アークしか見えなかった。

アークは、ふたりの心は繋がっていると言った。あれは彼の本心だったと思う。

本気の言葉だってことは、信じられるんだけど…

不安が渦巻くのだ。
彼を信じてしまっていいのかと…

だって、彼は異世界のひと。沙絵莉とは違う世界のひと。

世界が違えば、意識も考え方も違うのではないだろうか?

この世界のひとたちは、恋愛をどう考えているのか?

どう意識づけているのか?

「サエリ?」

サリスから呼びかけられ、彼女は顔を上げた。

「は、はい」

「驚いたのでしょうね」

「はい? 驚いたって?」

「アークですよ。彼が突然現れて、一瞬後に消えたのでしょう?」

ああそうだった。その話をしていたのだった。

「すみません。考え込んでしまってて…」

サリスがすっと手を差し出してきて、沙絵莉の手を取った。

そして、彼女の心をあやすかのように、そっとそっと手の甲を撫でてくれる。

アークの母の手は、どうしてこんなにもやすらぎを感じさせるのだろう?

「ありがとうございます」

感謝が湧き上がり、沙絵莉はサリスに言った。

サリスの眼差しが話の続きを望んでいるようで、沙絵莉は視線を宙に向けて、言葉を探した。

「私のいる世界は、魔法なんて夢物語なんです。だから、彼がふいに現れたり消えたりして、言葉に出来ないくらい混乱しました。なかなか信じられなくて…」

「いまは、信じられる?」

沙絵莉は一瞬返事に詰まった。

「信じるしかないって…感じかも…」

「それでいいわ。ゆっくり慣れてゆけば…」

ゆっくり慣れてゆく? それって、どういう意味で口にされた言葉なのだろう?

「それから? 次にアークはどんな風に貴方のところにやってきたの?」

「えーっと…そうそう、公園にいたときです。彼が現れて…。どうして私の前に当たり前のようにして現れるのか…もうわけがわからなくて…。ひどく動揺してるのに、彼は遊びに行こうって誘ってきて…」

「サエリ、もしかして、また逃げ出したのではなくて?」

「は、はい。だって、彼ってば、唐突過ぎるし…まさか魔法が使えるなんて思わないし…正直、気味も悪くて…」

「それで?」

サリスはずいぶんと楽しそうだ。

自分まで楽しい気分になってきた沙絵莉は、笑みを浮かべながら話を続けた。

「図書館にいたときに、また現れたんです。それで花の祭りに行こうって、誘ってくれて…」

「それで花の祭りを楽しんだのね?」

「はい」

彼との出会いからこっち、驚きの連続だった。

でも、逢いに来てくれないときもあって…もう忘れられたと思って…失意のどん底に落ちたりもした。

思えば、そのあたりから、沙絵莉の心はアークに囚われてしまっていたのだ。

彼に二度と逢えないのではと、辛くて悲しくて…

ふたりの心は繋がっていると、アークは沙絵莉に言った。

その言葉を、沙絵莉はストレートに受け入れた。

…信じるべきなのではないだろうか?

ただ、アークを…無条件に…






   
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