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第八話 湯船で思案
「サエリ、着替えを用意してきたわ」
部屋に入ってきたサリスは、手にしているものを沙絵莉に見せながら言う。
「は、はい」
「起き上がってふらつくようなことがなければ、お風呂に入ってみる?」
「は、はい。お風呂、入らせていただきます」
サリスは沙絵莉に向けて頷いてから、アークを振り返った。
「アーク」
「なんですか、母上」
母上という呼びかけを聞き、沙絵莉はちょっぴり笑いが込み上げた。
「立ち上がるのに、手を貸してあげてはどう?」
「あ、はい。そうですね。それでは…サエリ」
アークが手を差し出してきて、沙絵莉はおずおずと彼に手を預けた。
月を見ようと、すでに一度ベッドから飛び出ているわけで、それでふらつくこともなかったのだが…
そんなことをしたとは言い出せず、沙絵莉はアークに手伝ってもらいながら立ち上がっている自分に頬を赤らめた。
「この扉が浴室に通じているの。さあ、入って」
サリスの後に続いて、サエリは中に入った。
へっ?
洗面所のような場所を想像していた沙絵莉は、目にしたものに呆気にとられた。
な、なんなのだ、この部屋は?
まるで、まるで…
だ、駄目だ。この場を適切に表現する言葉を思いつけない。
いままでいた部屋は、どちらかというと殺風景で、ベッドとテーブルがあるだけのシンプルさだったのに…
この風呂場は、さすが異世界と呼びたくなる。
突っ込みどころ満載というか…
ドドドド…という水の落ちる音が意識に入り、沙絵莉はガラス扉の向うに顔を向けた。
「ここに着替えを置いておくわね」
「は、はい。ありがとうございます」
振り返った沙絵莉は、アークの姿がないのに気づいて周囲を見回した。
彼も一緒に入ってきたものと思ったのに?
「アークは部屋にいますよ」
「えっ? 自分の部屋に戻ってしまったんですか?」
「いいえ、貴方の部屋よ」
「わ、私の…」
私の部屋と言いそうになった沙絵莉は、戸惑いを覚え、最後まで言葉にせずに口を閉じた。
あの部屋は、もちろん彼女の私室というわけではない。なのにアークの母は、サエリの私室とはっきりと意味していっているように聞こえて、違和感を覚えたのだ。
「国が違うと、勝手が違うものだから。わからないことがあったら、なんでも気軽に聞いてね、サエリ」
沙絵莉は「はい」と頷いた。
アークの母の言う通りだ。きっとわけがわからないことばかりだろうと思う。
「いま着ている服は、この中に入れておけば、お風呂から出たときには洗濯が終わっているから」
こ、この中って?
サリスが手で示しているものは、でっかい丸い球体だ。それが、なんでか浮いているのだ。
「あの、これって、どうやって浮かべてあるんですか?」
「さあ? 私にもわからないわ。はじめてみたときは私もびっくりして…。これが何かの説明もしてもらえなかったから…」
「は、はあ」
ほかに言いようがなくて、沙絵莉は曖昧な相槌を打った。
「ともかく、脱いだものを入れるだけなの」
「入れるって、あの、どこから?」
沙絵莉は球に近づき、球の周囲を眺めまわした。
ただの球体だ。浮かんでるって点で、ただのと言っては間違いのような気がするけど…
「球に差し出すと、すっと入ってしまうの。それで勝手に洗濯してくれて、綺麗になったらこの球の下のカゴに」
「は、はあ〜」
沙絵莉は戸惑い混じりの感心した声を上げた。
さっぱり構造はわからないが、魔法世界の自動洗濯機ってことらしい。
「凄いですね。この世界って、こんな便利なものがあるんですか?」
まだ使ったことがあるわけではなく、使用感がどんなものかはまだわからないが…
「色々なものがあるわ。まあ、どんなものを使うかは、ひとの好みですけどね。ここではこれを使っているわね」
どうやら、この自動洗濯機の球、色んな機種があるということか?
「お風呂から上がってくるまでに、お洗濯が終わってしまうんですか?」
「そこが不思議なの」
ふ、不思議?
この世界の住人であるサリスの不思議発言に沙絵莉はきょとんとした。
ここの住人でも、魔法の代物を不思議と感じるのか?
「あの、何が不思議なんですか?」
「それは、これからサエリが自分の身で体験してみるといいわ。楽しみがなくなってしまうもの」
体験する楽しみ?
「洗面所はここよ」
球から少し離れた場所にあるところには、繊細な彫刻がほどこされた洗面台と見えなくもないものが壁から突き出ている。
「水はつねに綺麗なものがたたえられているから、ここで手を洗ったり顔を洗ったり口を濯いだり…そうそう、これが歯磨き水」
「歯磨き水?」
「これを両手ですくって口に含むの。最初は抵抗感があるかもしれないけど…。これにもそのうち慣れると思うわ」
沙絵莉は、洗面台の端っこにたまっている澄んだ緑色をした液体をじっと見つめた。
この液体、歯磨き粉ってことらしいけど…いったいどんな味がするというのだろう?
抵抗したくなるような味ってことは、苦かったり、辛かったりするのかも。
「タオルはここにあるわ。好きなだけ使ってね。これも使い終わったら球の中に入れておけばいいわ。服は自分で片付けないとならないけど、タオルは元の場所に戻るから」
か、勝手に元の場所に戻るのか?
魔法世界だとわかっていても、サリスの説明に思考がついてゆけず、彼女は少々頭がふらついてきた。
浴室の説明、さらにお手洗いの場所と使用方法も教えてくれ、サリスはこの場から出て行った。
ひとりになった沙絵莉は、肩から力を抜き、周りを見回した。
その視線は、空中に浮いている球に自然と向く。
沙絵莉は球に近づき、手で触れてみた。
温かくも冷たくもなく、柔らかいのか固いのかも判断できない。
周囲を撫でてみても、何も変化がない。
本当にこれは洗濯機なのか?
沙絵莉は疑り深い目を向けつつも、服を脱ぎ始めた。
ともかく、言われた通りにやってみるしかない。
水色の服を脱いだ沙絵莉は、両手でささげ、球を見つめた。
畳んだ方がいいだろうか?
考えた末に、沙絵莉は丁寧にたたみ、ごくりと唾を飲み込むと、服を球に向けて差し出した。
はっと思ったときには、服は消えていた。彼女は狐につままれた気分でしばし茫然とした。
吸い込まれた瞬間を、どうして目に出来なかったのだ?
「マ、マジですか?」
数十秒して我に返った沙絵莉は、球に向けて叫び、今度はブラを外して、決定的瞬間を目にしてやろうと、そろそろとブラを差し出した。
結果は同じだった。吸い込まれる瞬間などどう頑張っても見えない。
最後の一枚も球の中に消え、理不尽さを感じてならず、彼女はむっとして球を睨んだ。
次第に笑いが込み上げてきて、沙絵莉はぷっと吹き出した。
真っ裸で、いつまでも球を睨んで突っ立っているわけにはゆかないだろう。
彼女はガラス扉に近づき、手のひらで触れた。扉は開ける動作の必要なく、すーっと開く。
ずっと聞こえていたドドドドド…という水の落ちる音が少し大きくなった。
でも、耳障りではない。とても心地よい音だ。
水しぶきが立ち、浴室に湯気が立ち上っている。
楕円形の湯船は、かなりの広さだった。
あの部屋のすぐ隣に、これほどの規模のお風呂があるなんて…
窓から月を見た時、外を見たわけだが、外の風景は確認していなかった。
ここって、やっぱり一階なのよね?
サリスの説明を思い出しつつ、石鹸らしい液体を肩からそっとかけてみた。
ちょっと独特の匂いがする。爽やかなハーブのような香り。
手のひらで腕に塗ってみると、かなりぬるっとしている。
そいつで髪も洗ったが、嬉しいことに、この液体は目に沁みないようだった。
流れ落ちてくるお湯で泡を落とし、浴槽に浸かった沙絵莉は、お湯のぬくもりを味わいながら、先ほどのことを思い返した。
私ってば、もう少しで、アークにキスされちゃうところだったのだ。
破裂してしまうのではと思うくらい、心臓がバクバクして…
沙絵莉は胸に手のひらを当て、スーハースーハーと息を吸って吐き、自分を落ち着かせた。
彼は異世界のひとだけど…私は彼が好き。彼を愛している。彼と逢えなくなるなんて、考えたくない。
アークも彼女を好きでいてくれてる…と思う。
結婚指輪まで、すでに用意してくれてるみたいだし…
私、アークと結婚するのかな?
もちろんいますぐってわけじゃないけど…
それでも、いまの沙絵莉は、結婚するならアークしか考えられない。
けど…異世界のひとだってのが、やっぱり、ネックで…
あのときアークは、愛を契ったと言った。そして、もう後戻りは出来ないって…
言葉に並々ならぬ重みを感じ、沙絵莉は不安な気持ちで顔をしかめた。
それに、あの光を帯びたような白い炎…あれはなんだったのだ?
いくら考えたところで、彼女に答えは導き出せない。
沙絵莉はこの件について考えるのを止めた。
お風呂から上がったら、アークに詳しく聞いてみよう。
そういえば、彼ってば、母親を母上と呼んでいたっけ。
母上だなんて…普通の家庭ではあり得ない。
まあ、ここは異世界だ。この世界のひとは、みんなそんな呼び方をするんじゃないだろうか?
そうだった。私はこの国の言葉を、直接聞いているわけではないのだ。アークがくれた、通訳してくれる首飾りのおかげで…
あ、あれっ?
沙絵莉は目を見開き、眉をぐっと寄せた。
あの首飾りは消えたのだ。いまだってしていない。
なのに、なんで私は、アーク以外のひととも普通に話すことができたの?
私ときたら、みんな日本語でしゃべってるような感覚だった。なわけないのに…
ああ、そうか。
首を傾げていた沙絵莉は、急にピンときた。
みんな、沙絵莉の言葉がわかるように、通訳してくれる首飾りをつけていたのだろう。
そうか、そうか。
納得して頷いた彼女は、いまさら豪華な浴室を眺めて微笑んだ。
何はともあれ、初めて味わう異世界のお風呂だ。
めいっぱい堪能するとしよう。
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