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第四話 内緒の訪問
遠ざかってゆくアークとサエリの後姿を見つめ、ジェライドは唇を突き出した。
やれやれ、お呼びがかかるまで、この場でじーっとしていなければならないとは…
肩を竦めて、改めて周りを見回す。
不思議な空間…異なるものばかりだ。
花瓶に挿してある花に気づき、ジェライドは歩み寄った。
見たことのない花だが…花は花なのだな…
これは素朴といえる形をしているが、きっとこの国にも、もっと派手な花もあれば、もっと小さな花もあるのだろうし…
上を見上げてみると、ガラスでできたものが天井にくっついている。
これは、灯りだろうな。
灯りのもとは、なんなのだろうか?
光源の種類は数が多い。実際点灯していないと、特定するのは難しいが…
電の力のようだな。だが、この球体の仕組みは…
球体に手を伸ばしたジェライドは無意識に身体を浮かしていた。
白い球に手を触れた瞬間、ジェライドは嫌な感覚を覚えて動きを止め、眉をひそめた。
なんだ?
ともかくアークとサエリに危険が及ぶ気配はない。
嫌な感覚を感じるのは、アークたちが向かった方向のようだが…
感覚を鋭くして気配を窺うと、ほとんど声になっていない微かな呻きを聞き取った。
…うなされているのか?
だが、いったい誰なのだろうか?
アークに危害を加えようとしているのではないし…放っておくべきかもしれないが…
うなされている相手があまりに辛そうで、ジェライドは、その者の意識に、自分の意識を少しだけシンクロさせた。
「うっ!」
闇と苦悩…悲しみ…
それらがどっと流れ込んできそうになり、彼は繋がりを打ち切った。
うなされている者は、たぶん幼少の者だ。
自分の中にある闇や苦悩を対処できずにいる。
もちろん、この屋敷にいるのだから、サエリ様の縁者だろう。
ご兄弟がおられるなどの情報は得ていないが…サエリ様の弟君か妹君だろうか?
それにしても、いったい何があって、これほどに闇を抱えることになったのか…
ジェライドは眉をひそめた。
呻きは徐々に強くなっている。
なのに、誰も気づかないらしい。
どうにも捨て置けなくなり、ジェライドは悩んだ末に、様子を見に行ってみることにした。
靴を脱ぎ、そっと足を踏み出し、呻きが聞こえるほうへと進む。
部屋の外でためらったが、ドアを使わずに部屋の中に入った。
可愛らしい部屋だった。
独特ではあるが、子どもの部屋とわかる。
風変わりな人形があちこちに置かれているし、ベッドにもいくつか置いてあった。
ジェライドはベッドに歩み寄り、寝ている者を覗き込んだ。
小さな娘だ。
唇をきゅっと噛み締め、苦痛に耐えているような顔をしている。
闇と苦悩を引き起こしている原因に触れて、緩和させることは可能だ。
だが、頼まれてもいないのに、それをしてもいいものだろうか?
異国のものだし…
そう考えるのに、小さな娘の苦痛を目の当たりにしていては、取り除いてやりたくてならない。
幼少時の自分と…重なるからか…?
ジェライドは自分に問いかけ、皮肉な笑みを浮かべた。
そうしながらも、彼の右手は小さな娘へと伸びてゆく。
ほんの少し…ほんの少し…楽になって欲しい…
苦悩の呻きは、耳にするのが辛い…
これほど小さき娘ではなおのこと…
お前に、何があったのか?
ジェライドは、眠っている小さき娘にやさしく問いかけた。
声でない問いかけは、娘の意識に伝わる。
上瞼がぴくぴくと震え、唇が震える。
その瞬間、ジェライドの前に大きな影が迫り、あっと思った瞬間、強い衝撃を感じた。
もちろん、現実ではない。
(ヒナ、ヒナ…ヒナ…ヒナ…)
誰かの声がする。 男? 女?
ヒナというのは、娘の名のようだ。
(わーん、わーん、わーん!)
恐れを含んだ激しい泣き声。
その後の空虚…灰色の世界…
一連のビジョンを体感したあと、ジェライドは柔らかに包み込んだ。
消したわけではないから、記憶には残り続けるが、これでもう、眠っている小さき娘を脅かすことはないだろう。
ふーっと息を吐きながら目を開けると、目の前に、ジェライドを見つめる瞳があった。
いや、見えてはいないはずだ。姿を消している。
その瞳には小さき娘にはあってほしくない、暗い影がさしている。
心の底から笑ったら可愛いだろうに…天真爛漫に笑わせてやりたい。
ベッドから起き上がり、哀しげに小さなため息をつくヒナを見守りながら、ジェライドは、姿を変えた。
小さき娘に、受け入れられそうな姿がいい…
「へっ?」
姿を見せたジェライドを見て、ヒナは素っ頓狂な叫びを上げた。
いまのジェライドは、娘と同じくらいに見えるはずだ。
彼はヒナに向けて、微笑みかけた。
「こんにちは、ヒナ」
自分の名を呼ばれたからか、驚き一杯に目を見開く。
「え…っと…誰なの?」
「僕はジェラだよ。君はヒナだろ?」
「う、うん。…ジェラ君? あの…陽奈のこと、知ってるの?」
「いま知ったところだよ」
「ふ、ふーん」
戸惑ったように答えたヒナだったが、次の瞬間「はっ」と喘ぎ、真っ青になった。
「あ、あ、あ」
ヒナを驚愕させているのは、もちろんジェライドの存在ではない。
いったい?
「どうしたの?」
いぶかしげなジェライドの問いかけに、ヒナは大きく喘ぐ。
その顔からは、さらに血の気が引いてゆく。
彼女の視線は、自分の寝ている布団の中へと、いったりきたりする。
そうか…この反応の原因が掴めた。
「ヒナ、大丈夫だよ」
ジェライドはあっかけらかんと囁きかけた。
彼の言っている意味が分からないヒナは、息をつめて、動揺した瞳をジェライドに向けてくる。
「実は、僕もやっちゃったんだ」
ずっと昔にね。と心の中で付け加える。
「えっ、えっ、や、やっちゃっ…たって?」
息を止めすぎてて、苦しくなったのか、ひどく喘ぎながら言う。
「君がいま、困ってることと同じこと」
ヒナがなるべく恥ずかしがらないように、内緒話のように明るく告げる。
「え……そ、それって」
「けどね。僕はそれをなかったことにできるんだ」
ジェライドは腰に両手を当て、胸を張ると、自慢そうに言った。
「な、なかったこと? できるの? ほんと?」
「うん。いつもなかったことにしてる。だから、君も僕にまかせなよ」
「ほんとに? ほんと?」
必死な形相で、縋るように聞いてくるヒナに、ジェライドは胸がきゅんとした。
「うん。ほんとに、ほんとだよ」
安心させようと、強く応じる。
「で、でも…どうすればいい?」
頬を真っ赤に染めたヒナは、顔をしかめ、恥ずかしそうに問いかけてきた。
「嫌かもしれないけど…布団をはいでもいい?」
「…う、うん」
もちろん、他人に見られたくないのだろう。
かなり考えた末に頷く。
渋々というようなヒナを気にせず、ジェライドは布団をそっとはいだ。そして、テキパキと処理した。
その昔、ヒナと同じ失敗をするたびにやったことだったりするため、自慢できないが、やりなれていて手際はいいのだ。
湿っていたシーツも、パジャマも綺麗に乾き、もちろん匂いもないし、シミも残っていない。
よし、完璧。
「わわわ」
ヒナは素直に驚き、ぱーっと笑顔になった。
「魔法みたい」
その無邪気な言葉が嬉しくて、ジェライドはくすくす笑った。
ヒナの笑顔は、思ったとおり可愛らしい。
「ヒナは、いっぱい笑った方がいいよ。それと、もう君は失敗しないよ」
「ほ、ほんと?」
「うん。僕が強力なおまじないしてあげたからね」
「おまじない?」
小首を傾げて聞いてくる。可愛いったらない。
ジェライドは思わず伸びをして、ヒナの頭をよしよしと撫でた。
「さあ、もう少し寝るといいよ。もう君の所に悪夢はやってこないからね」
そう告げながら、ベッドに横にならせる。
「悪夢?」
目をパチパチさせながら言う。
「そうだよ。これからは、君が楽しい、素敵な夢を見よう」
まだ自分を見つめている瞳に手を差し伸べ、ジェライドは手のひらで覆った。
すっと瞼を撫でた瞬間、ヒナは浅い眠りに落ちた。
これで、次に起きた時、ヒナはすべて夢だったと思うだろう。
やすらかであどけない寝顔をしばし見つめ、ジェライドはその場をあとにした。
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