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第十四話 頭がぐらぐら
「ねえってば、どこか行きたい場所があるう?」
耳にその言葉が飛び込んできた瞬間、沙絵莉はどきりとして顔を上げた。
「あ、あなた……」
「いやだ。ようやくなわけぇ〜。散々声をかけてたのにぃ」
不服そうに頬を膨らませているのは、『沙絵莉』だ。しかも、四歳くらいの……
「な、なんなの?」
小生意気としかいいようのない『沙絵莉』に微妙な不服を感じながら、沙絵莉は返事をする。
わたし、こんなに生意気じゃなかったわと、内心反抗的に思う。
「ようやく馴染んだみたいね。彼の魔力がいい感じに交ざり込んで……制御してくれてるわね」
口元に指をあて、沙絵莉のことを検分するように見つめてくる。
四歳くらいのくせに、その目はなんともふてぶてしい。
それにしても、何が起こっているのか不安が湧く。
沙絵莉は周りを見回した。
何もない空間だ。けれど真っ白というわけでもなく、全体がぼんやりと光っている。
「ねえ、これからが大変なわけだけど……前渡しで、ご褒美を上げようかと思ってるのよ」
「は、はいっ? ご褒美?」
前渡しってどういうことなのだ?
「目覚めたら、お父様に会うのでしょう?」
「えっと……」
そうか。これは夢の中。確かに父と会うことになるけど……
「ええ、そう……だけど、それが?」
「過去は変わらないけど、過去の記憶は変えられる。塗り替えたい過去があるなら、そうさせてあげようかと思ってるのよ。どう?」
高慢な感じで問いかけられ、沙絵莉は眉をひそめた。
「あなた……わたしなのよね?」
「そうあって欲しくないって、言われてる気がするんだけど……」
ぴたりと当てられ、沙絵莉は焦った。
「そ、そんなつもりじゃ……」
口ごもった沙絵莉を見て、『沙絵莉』が苦笑する。
幼顔なのに、その表情は沙絵莉よりも大人に見えた。
「あなたは生まれ変わってあなただけの意識を持った。そんなあなたの意識はわたしがあなたであることを受け入れたくはないでしょうし、それが、まあ当たり前よね?」
「それって……あなたは、生まれ変わる前のわたしって言ってるように聞こえるんだけど」
「そうじゃないわ。あなたは……こんなこと言われたら嫌なんでしょうけど、ストレートに言わせてもらうと、わたしの一部よ」
沙絵莉はしばし無言で『沙絵莉』を見返してしまう。
「一部? わたしがあなたの?」
「そういうこと。正直、こんな会話していることすら、わたしにすれば、自分自身との会話なわけで、少々馬鹿馬鹿しくもあるんだけど……」
『沙絵莉』はそういうと、改めて周りを見回し、つまらなさそうな顔になり、右手をくるんと回した。
足元に、桃色の大きなクッションが現れ、『沙絵莉』はクッションに目を向けずにポンと腰を落とす。
「うふふっ。ふっかふか。あなたも座ったら?」
『沙絵莉』が沙絵莉の後ろを指さして言う。
さっと視線を向けてみると、同じようなクッションが転がっていた。
沙絵莉は『沙絵莉』を見つめ、無言で座り込んだ。確かに、ふわふわで心地よい。
「もちろん、あなたのほうはそうじゃないわね」
「な、なにが?」
「会話よ、か・い・わ。そんなことより、どうなのよ? 塗り替えたい記憶はないの?」
「で、でも過去って塗り替えられるようなものじゃないし、そんなの意味がないと思うわ」
沙絵莉の言葉を聞いた『沙絵莉』は、ちっちっと舌を鳴らして指を振る。
「過ぎ去ったものに、こだわっているのはあなたの意識。そしてあなたの記憶している過去がどれだけ真実かもわからない。幼い時の記憶は特に、無意識なうちに変化させちゃったりしてるものなのよ。さらに記憶に関わっている他者の意識にも影響されるし……」
『沙絵莉』の口にしたことは、理解できる気もするが……
「どのみちあなたは変化するわ。道を決めたから」
「それって、アークの世界に行くことを言ってるの?」
「もちろん」
「ええ、もちろん行くわ。アークと会えなくなるなんて、いまのわたしには考えられないもの」
『沙絵莉』がぴょこんと立ち上がり、沙絵莉の横に座ってきた。
「もし、二度と帰れないとなったら? それでも行く?」
「えっ?」
『沙絵莉』の眼差しは、緊張をはらむほどに真剣で、沙絵莉は動揺した。
「あなたの世界に二度と帰れないとしても、アークについて行く?」
「どうして? あ、アークは、いつでも飛んでこられるんでしょ?」
「できなくなるとしたら、貴方の決意は変わる?」
「どういうことなの? どうして帰って来られないの?」
「ゼノンがそう決めたから」
「アークのお父様が? で、でも、どうして?」
「彼らは時の大波という表現を使っているけど……不穏なものが影で何やら動いてるようなのよ」
「不穏なもの?」
「怖い?」
じっと見つめられ、沙絵莉は顔をしかめた。
四歳の子に「怖い?」なんて聞かれて……年上としての立場がない。
「そ、そんな風に聞かれても……」
「とにかく、それがあるから、国に悪影響を及ぼす可能性をすべて排除しようとしてるの。まあ、ゼノンの考えは当然といえるわ。……何が災いに通ずるか、はっきりとは見通せないんですもの」
「そうなの? 不思議な力を使えるひとたちなのに」
「影で動いている者が、大きな力を持っていたら、見通せないわ」
「そんなものなの。あの、でもあなたにはわかるんじゃないの? あなたって、なんでも知っているみたいだし……」
「沙絵莉、魔力のことについて、あなたは無知すぎる。でも、それは武器にもなるわね」
武器などという物騒な単語が飛び出て不安にかられ、沙絵莉は眉を寄せた。
「そしてあなたには、他の者にない能力が備わっている」
「えっ?」
「さあ、塗り替えたい過去はある?」
「あの……いまの……?」
「ただ知っていればいいの。それより、ほんとにないの?」
改めて問われた沙絵莉の頭に、ある記憶が浮かび上がった。
拳を固め、歩道の堅い地面を打ちつけている父……
「あ、あるかも。……でも、どうすればいいの?」
「それはあなたが考えること」
その『沙絵莉』の声は、ひどくこもって聞こえた。
周りの空気がビンビンと振るえはじめ、次第に景色が立ち上がってゆく。
これ、夢……なのよね?
すでに見たことのある景色……
歩道に座り込んでいる父の背が、すぐ目の前にある。
右腕で目を塞ぎ、肩を小刻みに震わせ、嗚咽を呑み込むようにして泣いている。
夢……なのよね?
わたしの記憶の世界……
沙絵莉はそっと手を伸ばし、父の背に触れた。
びくりと身体を揺らし、ゆっくりと父が振り返ってくる。
赤く腫れた目元を痛ましく見つめると、父は顔を歪めて沙絵莉から視線を逸らす。
「な、なにか?」
「お父さん」
沙絵莉の呼びかけに、父はぎょっとしたようだった。
夢なのに、父は成長した沙絵莉を、娘として認識してくれないらしい。
「驚かせてごめんなさい。わたしは沙絵莉、十五年後の」
「は?」
「信じてくれなくてもいいの。ただ、一言伝えたかったの。わたしをずっと愛してくれてありがとう。わたしもお父さんのこと、大好きだから」
父にぎゅっと抱き着いた次の瞬間、父が消えた。
「沙絵莉」
振り向くと、『沙絵莉』が微笑んでいる。いまの沙絵莉より、少し大人に見える。
「小さくなったり、大きくなったり、器用なのね?」
文句を言うと、『沙絵莉』はくすくす笑い出した。
「わたしは同じよ。あなたの精神の変化で変わって見えるだけ」
「……よくわかんないけど……とにかくありがとう。心が軽くなったわ」
「さあ、それじゃ進まないとね。沙絵莉、たとえびっくりするようなことが現実に起こっていてもよ」
その言葉に首を傾げている間に、『沙絵莉』がぼんやりとかすんでいく。
ふーっと後方へ身体がかしいでいく感覚に陥った沙絵莉は、驚きとともにパッと目を開けた。
現実の光だ……
そして彼女のことを覗き込んでいるのは……
「アーク」
微笑んで呼びかけたが、アークは何か言いたいことがあるような表情をするばかりだ。
「どうかしたの?」
「いや……その……君の」
「はい? わたしが、何?」
「その……魔力の受け渡しの……影響が……」
「影響?」
アークは息をつき、困ったように頷くと、サエリの髪に触れた。
「えっ、こ、これ?」
アークの指にかかっているのは、ひと房の髪のようだ。けど……
「寝る前は生え際だけだったんだ。まさか一晩でこんなにも変化するとは……」
「う、うっそーーーっ!」
叫んだ沙絵莉は、アークの手ごと髪を掴み、ベッドから飛び降りた。
そして、ドレッサーに駆け寄る。
まさか、まさかと思いながら、鏡を凝視する。
「ああーっ!」
心臓がでんぐり返った気がした。
「こんなのありえないしぃ」
情けない声を出す沙絵莉の髪は、淡い銀色の光を放つ桃色に変わっていた。
『沙絵莉』が言っていたのは、このことだったのだ。
頭がぐらぐらした。
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