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第十五話 さすがにそれはちょっと
泰美との通話を終えた由美香は、携帯をぎゅっと握り締めた。
ふたりから、話は一応聞いた。沙絵莉が体験したという出来事の数々を……
あー、何ひとつ信じられないわ。
テレポだぁ? 異世界からやってきただぁ?
テレポでその異世界に行っただぁ?
階段から落ちて死にそうな怪我を負ったが、彼の世界の治癒者たちが、たった一日で治してくれた?
……す、すべてが、嘘っぽい……
空中に浮かぶことができるという、超マジックな力を見せつけられても、実際、この自分が空中に浮かべられてしまっても……
だ、だめっ! やっぱり、信じられない!
沙絵莉たちには、納得したように対応していたのだが……冷静になればなるほど、信じられないという気持ちが強まる。
そして、いま泰美に電話していても、自分はやっぱりこのふたりに騙されているんじゃないのかと疑いがもたげてならなかった。
けど、ほんの数日前、沙絵莉が階段から落ちて大怪我を負ったのは、夢ではない。
この頭の記憶庫に、そのことはしっかりと保存されている。
そしていま、大怪我を負った沙絵莉は、わたしの目の前にいて、ピンピンしているのだ。
つまり、大怪我をあっという間に治してもらったというのは、信じられないが本当のことらしい。
だけどさぁ……わたしの中の常識が、どうしても、そんな非常識、認めたがらないのよね。
それにしても、自称、異世界生まれの魔法使いさん……どうしてこのひとは、沙絵莉の前に現れたのだろうか?
初めて沙絵莉の前に現れたのも、そんなに前のことじゃないらしい。
「あの……由美香? 飲み物でもどう?」
この状況で、そんな普通のことを言う沙絵莉に、由美香はブチ切れた。
飲み物だぁ。いまは、そんな場合かっ!
「いまはいい」
ぶっきら棒に言った由美香は、沙絵莉に顔を近づけ、耳元に囁いた。
「それより、このひと、ほんとのほんとにテレポなんてものができるの?」
アークと名乗るこのイケメンマジシャン、由美香にとっちゃ、とんでもなくうさんくさい人物だ。
この見た目が良すぎるのすら、うさんくさい。
何が異世界人だ。何が魔法使いだ。
このアークという人物、なぜか由美香とほとんど視線を合わせようとしない。こちらがじっと見つめていても、知らぬふりだ。
これって、おかしいよね? 目を合せてこないのは、後ろ暗いものがあるからじゃないの?
「だから、言ってるでしょ。わたしはもう、何度もアークと一緒にテレポしたことがあるんだってば」
アークを訝しく見ていた由美香は、力強く訴えてくる沙絵莉に視線を戻した。
「でもさ……」
「実際、テレポを経験していただかなければ、納得していただけないのではないかな」
イケメンマジシャンが丁寧な口調で提案してきた。
あまりに平然としていて、それがまたむかつく。
こっちは平常心を乱されっぱなしだというのに……
「そう……ね。それじゃ、もう行く?」
沙絵莉がイケメンマジシャンに同意し、由美香はたじろいだ。
テレポなんて到底信じられないが、体験することになるのも恐い。
「い、行くの?」
震え上がって言うと、イケメンマジシャンが口を開いた。
「安全は保証します。不安に思う必要はありません」
顔が引きつる。このひとに安全を保証されても……
「でも、アーク。まだ十分経ってないけど?」
「それについては別に問題はない。ただ、君のご友人がまだ移動中の場合……一度では無理かもしれないが……」
「一度では無理ってどういうこと?」
「説明するより、やった方が早い。サエリ、この方と手を繋いで。両手が望ましい。そして、テレポが完了するまで、けして離さないように」
「離してしまったら、危険ってことなの?」
不安が膨らみ、由美香がドキドキして問うと、イケメンマジシャンは「ええ」と口にしながらこくりと頷く。
「無の空間に飛び込むわけですからね。ですから、決して離さないように」
む、無の空間? なんか、いやーな響きだ。
「わかったわ」
頷いた沙絵莉は、イケメンマジシャンに指示されたとおり、由美香の手を力いっぱい握りしめてきた。
「さあ、サエリ。目的となるご友人をしっかり思い浮かべて。行きますよ」
イケメンマジシャンの口調はどこまでもおだやかだ。
沙絵莉に握り締められた両手を、恐れからギッと睨むように見つめたところで、身体が完全に安定を失った。
ふっと浮き、ぐわんと変な圧力を感じた瞬間、言うに言えない気分の悪さに襲われる。
手を口に当てようとしたが、沙絵莉に両手を掴まれているせいでそれができず、由美香はぎゅっと目を瞑った。
ぐるんぐるんと頭の中身が回る感覚に、気分の悪さが増長したところで、「ああ、やはり」と、イケメンマジシャンの声が聞こえた。
「サエリ、この辺りにご友人はいらっしゃいますか?」
「えっ? ……えっ、えっ?」
慌てふためいたような沙絵莉の叫びに、いまだに最悪なほど気分が悪かったものの、由美香は慌てて目を開けてみた。
な、なんだあ?
ここはアパートじゃない。別の場所にいる。しかもこの景色、普通じゃない。
「な、なんなのよっ」
どう考えてもここは屋根の上だ。
「ど、どうして?」
動揺してたたらを踏んでしまい、瓦に足を取られた。
「あっ!」
足が滑り、身体が斜めになった瞬間、痛みと衝撃を覚悟して目を瞑ったが、また先ほどのように身体が安定を失った。
「な、な、な……」
目を開いて叫びを上げ、またぎゅっと瞑る。
お尻の下に確かな感触を得た。
「あっ、ほら、ちゃんと着いたわよ、由美香」
肩を叩かれ、由美香は自由になった右手で口元を覆った。
「うぐっ」
強烈な吐き気が突き上げたとき、背中が急に熱くなった。その熱を感じたと同時に、気分の悪さが消えていった。
「は、はあ……はあ」
大きく喘いでいると、背中を大きくさすられていることに気づいた。
目を開いたら、瞼にたまっていた涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
背中をさすってくれているのは沙絵莉だ。
「あ、ありがと、沙絵莉」
「大丈夫? まだ気持ち悪い?」
「あんた平気なの?」
「う、うん。アークがすぐに治してくれたから。それより、ほら泰美の家よ」
沙絵莉の言う通り、泰美の家が目の前にあった。
わたしたち、ほ、ほんとに飛んで来ちゃったの?
あー、いや、いや、いやだ。こんな現実、信じたくないっ。
心の安寧のために必要な、秩序が崩壊してしまう。
泰美の家のガレージでは、泰美の母親がバックで駐車しているところだ。
由美香は、ごくりと唾を呑み込み、沙絵莉に寄り添って立っているイケメンマジシャンをちらりと見た。
彼は沙絵莉を気遣わしげな表情で見つめている。
このひと……ほんと沙絵莉に夢中って感じだわ。
この現実を受け止めることに気を回したくなくて、そんなことを意味もなく考えてしまう。
「由美香、これで、今度こそ信じられたでしょ?」
沙絵莉から期待するような目を向けられ、どっと疲労感に襲われた。
実際、テレポして見せたのだから、もう彼が異世界人だという事実を……信じろと……?
いやいや、さすがにそれはちょっと……
「このひとが、信じられない力を使えるってことは……まあ、わかったと言うしかないわね」
これが現実ならだ。
それにしても、泰美ときたら、わたしたちがここにいるというのに気づきもしない。
母親と能天気な顔で笑い合っている泰美に苛立つ。
よしっ。宣言通り、泰美を驚愕させてやらねばならぬ。
由美香は泰美を目指して、何も言わずに駆け出した。
「あっ、由美香?」
後ろで沙絵莉が叫んだが、振り向かずにそのまま駆けて行く。
「泰美」
目の前に立って呼びかけたが、泰美はなんの反応もしなかった。
母親のあとについて、自分の家のほうに歩いていく。
「えっ?」
ど、どうして?
思わず泰美の肩を掴んだ。泰美はぎょっとしたように足を止めて振り返った。
「な、なに?」
そう口にして、由美香が掴んでいる自分の肩を凝視する。
「な、なんか掴まれてるっ!」
驚愕した顔で、引きつった声を出し、泰美は勢いよく自分の肩を払った。
ぎょっとして手を引いたが、間に合わず、バチンと叩かれた。
「い、いたーっ」
「な、なんか当たった」
恐怖から泣きそうな顔で泰美が言う。
「ちょっと、どうしたのよ?」
戸惑った様な声が聞こえ、この一連の事態が把握できないでいた由美香は、泰美の母に顔を向けた。
「な、なんか、肩をぎゅっと掴まれたんだよ、心霊現象だよ。病院で変なもの拾ってきちゃったんじゃないかな」
「はあっ、なに寝ぼけたこと……あんた、まだ病院にいたほうがよかったんじゃない」
「由美香」
両肩を掴まれ、由美香は沙絵莉を振り返った。
「なんなの? なんで、泰美?」
沙絵莉は、由美香を落ち着かせようとするように、ポンポンとやさしく肩を叩いてくる。
「まだ姿を消したままなの。わたしたち、まだ泰美から見えてないの。それに声も届かないようにしてるみたい」
す、姿を消している? 声も届かないようにしている?
「な、何言って。ああっ、もしかして、やっぱし、泰美もグル?」
「グ、グルじゃないわ。……ねぇ、アーク、まだ姿を消しておく必要がある?」
「あの向こうに御婦人方がいるんだ。あの方たちに目撃されないとも限らないが。……サエリ、ここで騒ぎになっては困るのだろう?」
「そ、それは……ええ」
イケメンマジシャンが指さしている方向に沙絵莉が目を向け、由美香も顔を向けてみた。
ちょっと距離があるが、中年のおばさん三人が立ち話をしている。
「あのおばさんたち、そう簡単にはいなくなってくれないみたいね。アーク、どうしたらいいかしら?」
「もう一度、移動しよう。誰の目にも触れない死角で姿を現して、それから家に行くのではどうだ?」
「そうね、それがいいわ。そうしましょう」
あっさりと賛成する沙絵莉に、由美香は眉を寄せた。
「沙絵莉、それじゃ駄目よ」
「えっ? 由美香、どうして?」
「だって、泰美を驚愕させられないじゃないの」
すでに自宅の玄関先にいる泰美を指して、文句を言う。
泰美を驚愕させて、この胸にある鬱憤を解消してやろうと思っているのに……
「わかりました。貴方のご要望にお応えしましょう」
イケメンマジシャンが楽しげに言う。
「でも、アーク、あのひとたちは?」
「大丈夫だ。御婦人方の気を、ちょっと逸らすとしよう」
イケメンマジシャンが右手をすっと上に上げた。だが別に何も起こらない。
「なに?」
おばさんたちのほうを見ていた沙絵莉が小さく叫び、由美香も急いで顔を向けた。
「わわ」
おばさんたちの頭上に、何かキラキラしたものが舞っている。当然三人は、目を丸くしてその不思議な現象を見ている。
「あのキラキラ、なに?」
「幻です。すぐに消えてしまいます。さあ、行きましょう」
次の瞬間、由美香は泰美の真正面にいた。
泰美が度肝を抜かれた顔で、由美香を見ている。
泰美の母親はすでに家の中に入ったのか、辺りに姿は見当たらなかった。
「どう、驚愕した?」
したり顔で言ってやる。
泰美は腰が抜けたらしく、その場にへなへなとしゃがみこんだ。
ほんのちょっとだけ溜飲が下がった。
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