白銀の風 アーク

第七章

第十一話 気にかかかるもの



お湯から上がった沙絵莉は、少々疲れを感じた。

けれど、頭がぼおっとしたりくらくらしたりとかいうのではなく、ただ身体が重い。

重力を感じるというのか…

湯あたりしちゃったのかしら?

「ふうっ」

沙絵莉は息をつき、ガラス戸に手をかけた。

力を入れなくてもするするっと開く。

この素材、ガラスじゃないのかも。プラスチックというのでもないみたいだし、世界が変われば材質も変わるってことね。

浴室から出た沙絵莉は、タオルで濡れた頭を包み、身体を拭いた。そして、サリスが貸してくれた服を手に取った。

服のデザインを見て、沙絵莉は笑いの混じったため息をつき、首を左右に振った。

これが寝間着?

どうみても、完璧なフォーマルなドレスって感じだ。

淡い水色の布地に、銀色の糸で刺繍がほどこされている。

またこの刺繍が見事なのだ。

刺繍の機械なんてこの世界にはありそうもないし、これって手縫いなのよね、たぶん…

手の込んだ贅沢なドレスを寝間着にしちゃうなんて…

もしかして、こういうのも、魔法でちょちょいのちょいなんてできちゃうんだろうか?

首をふりふりドレスの下に置いてあった布を視線を向けた沙絵莉は、きゅっと眉を寄せた。

こ、これ…何?

もちろん下着だろうと思うけど…

銀色の布地でとっても柔らかい。

なんか、筒みたいになっているのだが…?

両手で持って両側に軽く引っ張ってみたら、びょーんと伸びた。

わわっ!

慌てた沙絵莉だが、両手の幅を戻すと、筒も元のサイズに戻った。

そういえば、首飾りもこんな感じだった。これもあれと同じにように伸縮するようだ。

首を傾げつつ、沙絵莉は残っているもう一枚を取り上げた。

これは悩む必要なく、わかった。

沙絵莉は目の前までもってきて、その小さな下着を眺めて吹き出した。

ずいぶんとおしゃれなパンティ…これまた手の込んだ刺繍入り。

ともかく悩まずにすんでよかったと思いつつ無事パンティを履いたが、ブラがない。

こうなると、もうさっきの筒状のもの。こいつがブラなのに違いない。

腹巻みたいに胸に当てる…とか?

たぶんそうなんだろう。そうとしか考えられないし。

沙絵莉は筒に両足をとおし、胸まで引き上げた。

な、なんか変だ…

ぴったり肌にくっついている部分もあるが、胸のところも裾もあたりも、変としかいいようがない状態。

これって…もしや、逆さま?

沙絵莉は唇を突き出し、筒をいったん脱ぐと、上下逆にして履きなおした。

あっ、い、いいんじゃない?

ちゃんと胸の山ができたし…

布が伸びると、筒がちゃんと形になったようだ。

はあっ…

下着ひとつ着るのに、なんか体力消耗…

沙絵莉はドレスに手をかける気力がなく、床に座り込んだ。

肩紐があれば、すぐにわかったのに…

頭のタオルに手をかけた沙絵莉は、目を閉じて髪を拭いた。

あ…そうだった。

洗濯物、終わってるんじゃないだろうか?

ならば、履きなれない下着を履くことなく、自分の下着を着ればよかったんだ。

だけどもう着ちゃったし…

明日、自分の世界に帰る前に、着替えて洗濯して、アークのお母さんにお返ししないと。

いや、さすがに下着は返せないか…

沙絵莉は無意識に「よいしょ」と掛け声をかけながら立ち上がり、魔法世界の自動洗濯機に歩み寄った。

おおっ、確かに…

球の下に置かれたカゴの中に、沙絵莉が入れた服がちゃんとある。

畳んではないが皺ひとつない状態だ。

触れてみると、柔軟剤を入れたどころでない、いい感じの手触りに仕上がっている。

こ、こいつは…す、凄い!

他のどんなものよりも、家に持って帰りたい一品だ。

浮いてるけど、しっかりと固定されてる感じで、両手で持って移動なんてできそうもない。

沙絵莉は自分が使ったタオルの端っこを握り締め、反対側の端をゆっくりと近づけていった。

吸い込まれそうになっても、けして手から離れないようにぎゅっとタオルを握り締めていたというのに、タオルが球に触れる前に、タオルは沙絵莉の手から消えていた。

「もおおっ」

もどかしさに囚われ、沙絵莉は小さく地団駄を踏んでいた。

球を敵のように鋭い目で見つめていたが、なんの反応もしない球を睨んでいるのは、さすがに虚しい。

向うに戻って、この自動洗濯機のことを、由美香や泰美に話したいものだけど、話したところで絶対に信じてくれないだろう。

アーク、これと同じ機種の洗濯機、プレゼントしてくれないだろうか?

プレゼントが無理でも、月払いとかで買えないものだろうか?

この世界のお金は持っていないけど…そうだわ、アークは自転車を気に入ってたようだし、自転車と交換っていうのならどうだろう?

なんかそれならイケそうだ。

沙絵莉はにこっと笑い、球を見つめた。

これって、両手で掴んで引っ張ったら、動かせるんだろうか?

試したくてならない。

ち、ちょっとだけ…

沙絵莉は両手を差し出し、球に触れた。ぐっと力を入れて引っ張ろうとした時、「無駄じゃ」という独特な響きの男性の声が聞こえた。

ぎょっとした彼女はパッと手を離し、声のしたほうに顔を向けてみた。

だ、誰もいない。

けど、いま確かに、声が聞こえた。

アークではなかったのは確かだ。そしてアークの父の声でもなかったと思う。

「だ、誰?」

恐る恐る呼びかけた沙絵莉は、自分がまだ下着のままだということに気づき、ドレスに飛びつくと、慌てふためいてドレスを頭から被った。

一応服を着た沙絵莉は、改めて部屋の中を見回した。

…誰も、いないわよね?

いまのって、空耳…だったのだろうか?

悪さをしようとしていたから、後ろめたさで声が聞こえたように思ったのかも知れない。

沙絵莉は臆病な自分を笑い、洗面所に近づいた。

さて、異世界、歯磨き初体験だ。

歯磨き水って、アークのお母さんは言ってたわね。

両手ですくって、口に含むんだって…

沙絵莉はサリスに教えられたとおり、緑色の液体を両手にすくい、口元まで運んできた。

ちょっとだけためらいを感じてしまう。

匂いを嗅いでみたが、臭いという部類の匂いじゃない。でも、ちょっと癖のある匂い。

抵抗感を感じるほど癖のある匂いじゃない。

安心した沙絵莉は、両手にすくった液を一度に口に含んだ。

ヴッヴヴ…

な、なんだこれは?

ヴヴヴ…ヴヴヴ…

口の中で何かがざわざわと動く。

舌を刺激され、沙絵莉は堪らずぶはっと吐き出した。

「な、なによ、これぇ?」

沙絵莉は水をすくい、口に含むと必死になって口をゆすいだ。

「あ゛ーーっ」

これが歯磨き?

正直なところ、一生かかっても馴染めそうもない。

鏡に向き、べーっと舌を突き出した沙絵莉は、ハッと大きく喘いだ。

身が凍るほどぞっとした。

鏡に映っているのは沙絵莉ではない。見も知らぬ老人だ。

沙絵莉のことを、厳つい顔で見つめ返している。

本来なら、危険を感じ取って飛びのき、悲鳴を上げているはず…

けれど彼女は、そのどれもできなかった。

全身が動かないのだ。

ただ、頭は普通に動いている。

脳内では驚きも恐怖も感じているし、全身の毛も総毛立っている。

これって、鏡ではなかったのか?

「待っておったぞ」

真っ白な髪に真っ白なひげの老人が言った。あまり人相が良くない。

「まもなくじゃ。だが、鍵となるおぬしは赤子」

正直、お友達にはなりたくないような、悪人顔が冷たい口調で言う。

「善は悪なるときもある。…信じる者を選べ」

沙絵莉は混乱して老人を見つめた。いったいこのひと、何を言っているのだ?

「汝に与えられし運命(さだめ)を受け入れよ」

老人の顔が白くぼやけ、次の瞬間、鏡に自分の顔が映った。

くらっとめまいがし、沙絵莉はその場にへたりこんでいた。

息苦しさを感じた彼女は、空気を求めて深呼吸した。


あれっ? 私、どうして床に座ってるんだろう?

沙絵莉は、周りを見回し、首を傾げた。

歯磨き水の初体験があまりに衝撃的で、それで…私、知らない間にしゃがんじゃってたのか?

どうやらそうらしい。

本当にとんでもない代物だった。

沙絵莉は立ち上がり、緑色の液体を見て顔をしかめた。

こんなんで、本当に歯が綺麗になるんだろうか?

それでも、歯磨き粉はこれしかないのだ。

ため息をついた沙絵莉は、渋々緑色の液体をもう一度口に含んだ。

先程より少量にしたおかげか、最初よりは耐えられた。

十秒程度経ったあたりで、うごめく感覚が不意に消えた。

やれやれ、これで終了ってことらしい。

うがいを終えて口の中をすっきりさせた彼女は、鏡に向いて自分の頭に巻いてあるタオルを手に取り、濡れている髪を拭いた。

ドライヤーみたいなものはないのだろうか?

ぶわーっとか、熱風が吹き出してくる穴とか…いっぺんで髪を乾かせるアイテムがありそうなものだけど…

そういえば、風呂から飛んで出てきたアークも、髪を濡らしてたっけ…

それって、ドライヤーのようなものはないってことかしら?

沙絵莉は髪に触れて、見苦しくない程度に乱れを直すと、湿ったタオルを何気なく球に向けて放った。

洗濯の終わった服と下着を抱えた彼女は、新しいタオルを一枚手に取りドアに向かった。

取っ手に手を掛けたところで、彼女はなんとなく後方に振り返り、鏡を見つめた。

何か…気にかかる…

頬に手を触れて眉をひそめた沙絵莉だったが、何が気にかかるのかさっぱりわからない。

肩を竦めた彼女は、ふたたび取っ手に手を触れた。

化粧水とかはないのだろうか?

アークの母に聞いてみることにしよう。






   
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