白銀の風 アーク

第八章

第二話 ヒーロー登場



ど、どうしよう?

いったいなんでこんなところに来ちゃったの?

恐怖に顔を強張らせ、足を竦ませたまま、周りを必死に見回す。

アークの家はどこにあるの?

沙絵莉は泣きそうになって、その場にしゃがみ込んだ。

アークが目覚めさえすれば、きっと探しに…

そ、そうよ。心配しなくていいはず。

彼はいつだって、そうしたければ、私のところに飛んでこられるのだ。

そう考えた沙絵莉は、安堵を感じて泣き笑いした。

頬にポロリと零れ落ちた涙を手の甲で拭い、立ち上がる。

彼は来てくれる。

アークが起きたら、飛んできてくれるのだ。
だから私は、安心して、彼の目覚めを待っていればいいんだわ。

となれば…

沙絵莉は周りの景色を先ほどとは違ううきうきした気分で見つめた。

アークが迎えに来てくれるまで、早朝の町でも見物して回ろう。

治安がいいかどうかはわからないけど…花の祭りで回った感じでは、そう危険な町とは思わなかった。

ちゃんと警備兵とかって、おまわりさんもいるようだし…

深夜じゃないのだし、早朝からチンピラに絡まれるなんてこともないだろう。

異世界のチンピラか?
沙絵莉は自分で想像したものに、吹き出した。

背の高い街路樹がある道は、けっこうな道幅があり、遠目には人が歩いているのも確認できた。

作物を作っている畑が広がっていて、家らしきものはこの辺りにはないようだ。

ともかく、気の向くほうに歩いていってみよう。

そう決めた沙絵莉は、道の右と左に目を向け、左へと歩いてゆくことにした。

そっちのほうに、かなり遠目にだが、さっき人の姿が見えたのだ。

沙絵莉は景色を楽しみながらてくてく歩いて行った。

十分ほど歩いたあたりで、ようやく家が点在している場所へとやってきた。

家々はそれぞれに個性があって、どれも風変わりだが、異国の村って雰囲気なだけで、特別、魔法の存在は感じられない。

もう十分ほど歩くと、かなり家が立ち並び、町の景色になってきた。

人通りもあり、沙絵莉のことをうさんくさそうに見るひともいたが、ほとんどのひとは、彼女のことなど気にも留めずに歩いてゆく。

大きな馬のような動物に乗っているひともいたし、荷馬車らしきものも通ってゆく。

空を飛んでる人はいないみたいだ。

見世物小屋では、空を飛んで見せたりしたひともいたから、もしや、空を飛んで移動する人も多いのかと思ったのに…空を見上げても、人は飛んでいない。

もちろん、飛行機も飛んでいないし、絨毯も浮いていない。

移動手段は、案外、普通ね。

沙絵莉は、視察の気分でそう結論を出し、歩きながら頷いた。

この辺りは、花の祭りで遊び回ったところとは、また一風違う。

かなり大きな館が建ち並んでいて、普通の民家ではなそさうな建物が多い。

ここではなんと呼ぶのか知らないが、庁舎とか役所などの建ち並ぶ通りなのではないだろうかと思えた。

ときおり通りすがる人達の中には、同じような服を着て歩いている人もいる。
たぶん制服なんだろう。

散歩を始めてから一時間ほどが過ぎたあたりで、沙絵莉は急激にだるくなった。

すっかり良くなったつもりでいたのに…

アークが、まだ身体は完治したわけではないと言っていたが、その通りだったようだ。

一足歩むごとに、疲れが押し寄せてきはじめた。

アーク…まだ起きないのかしら?

は、早く、迎えに来てくれないかしら?

気分が悪い…

沙絵莉は歩くことが出来なくなり、壁に凭れた。

ひどい吐き気がする。

不安感が押し寄せた。
彼女はさらに増してきた吐き気を堪えるために胸と口元を押さえ、下唇を噛みしめた。

「どうした?」

すぐ近くから聞こえた声に、沙絵莉はビクンとしつつ顔を上げた。

そびえるほどの巨体!

彼女の目はまんまるになった。

で、でっかい!

一瞬の驚きのあと、喉元にせり上げてきて、沙絵莉はぐっと堪えた。

「大丈夫か? 顔色がひどく悪いようだぞ」

「はい…き…気分が…悪く…て」

吐き気を堪えながら、ようやく声を押し出した沙絵莉に、大男は厳つい顔を寄せて顔を覗き込んでくる。

「お前、どこのものだ? 家まで送っていってやろう」

荒々しい声とは裏腹に、言葉には優しさがこもっていた。

その優しさにふれて安心したためか、いくぶん吐き気が収まったように思えた。

「それが…わからないの。私…友達の家に…遊びに来たんだけど…」

沙絵莉の額に脂汗が滲んでいるのを目にして、男の表情が変わった。

「迷子なら、警備兵舎に行くか? いや、治療所がいいな」

「お、お金持っていないから…。私、しばらくここで休んでます。…帰り道は自分で捜しますから」

「そうはいかぬ。顔色が真っ青だ。いいから来い。治療所に行ったほうがいい、治療費ぐらい俺が出してやるから、安心しろ。そのあとは…そうだな、誰か一緒に家を探してくれる者を見つけてやろう。俺はこれから仕事なんでな」

見かけによらず、とんでもなくやさしい人だ。

知らない人を簡単に信じすぎてはいけないだろうかとも思ったが、このひとの眼差しはとても誠実そうだ。
それに、巨体な分だけ頼りがいもある。

この人の側にいると、自分が幼い子どもになった気分だ。

「すみません。…それじゃあ、お言葉に甘えてお世話になります」

男は頷き、沙絵莉を促してすぐに歩き出した。

彼女は男の後からついて歩いた。

だが、歩くせいで、気分はますます悪くなった。

一歩踏みだすごとに吐きそうになる。

十歩も歩かないうちに、男はもどかしそうな顔で立ち止まった。

「歩くのが辛いなら運んでやるぞ。どうする?」

ぶっきらぼうに言う。

その言い方に沙絵莉は少し笑ったが、その笑いがよくなかったらしい。ぐぐっと嘔吐物が喉元にせり上げてきた。

口を押さえた彼女を見て、相手も、これはのんびりしている場合ではないと悟ったらしい。

大男は沙絵莉が何か反応するより早く、軽々と彼女を抱え、そして駆け出した。

驚きに目を丸くしている間に、びゅんびゅん風を切って進んでゆく。

荷物を抱えてこの速さなら、このひと、オリンピックでメダルがもらえるかもしれない。

そんなことを考えて気を紛らせていたが、結局彼女は、堪えきれずに吐いた。

たくさん吐いたわけではない。ほんのちよっとだ。

それでも嫌な匂いがし、沙絵莉は惨めさに涙が込み上げてきた。

身体が上下に揺れるから、どうしても我慢しきれなかったのだ。

大男の紺色の服にも、吐いたものが少しついてしまっている。

恩人の立派な服に吐くなんて…なんてことをしてしまったのだろう。

謝罪の言葉を言おうにも、口を開けばまた二の舞になりそうだ。

沙絵莉は口元を押さえたまま、涙のたまった目で大男を見上げた。
その視線に気づいたのか男が彼女を見る。

「気にするな。もうすぐだ。我慢しろよ」

沙絵莉はこくりと頷き、安心して大男の胸に頭を凭れた。

「どうしたんだ? ギル」

誰かが、大男に声をかけた。どうやらこのひとは、ギルという名らしい。

友達か仕事仲間なのか、同じデザインの服を着ている。

ギルは走るスピードを緩めることなく「急患だ。治療所へ行く」と相手に怒鳴り返した。

「知らなかったな、お前にこんな女がいたなんて」

「なにを言っている。いまそこで拾ったんだ」

ひ、拾った?

犬ころ同然の扱いだ。「大事にな」と、後方から声が飛んできた。

治療所までが遠かったのか近かったのか、彼女には見当もつかなかった。

建物の内部に入り、廊下をひた走る。

治療所についたのか、ドアを開けて部屋の中に入った。

「急患だ。よろしく頼む」

「ギル殿、どうされたのですか?」

「わからん。道ばたで苦しんでいたんだ」

それだけ言うと沙絵莉は横に寝かされた。

治癒者なのか、男の人が沙絵莉の身体に向けて、手をかざしてきた。

癒しの術とやらをやったのか、気分の悪いのがふっと楽になった。

「これは…」

治癒者らしきひとが驚きの声を上げ、ギルが眉をしかめた。

「良くないのか?」

「はい。ひどく衰弱していますね。それに栄養も足りていないようだ。行き倒れかな」

…い、行き倒れ?

まるきり浮浪者扱いされ、惨めさを感じるより可笑しかった。

別の女性がやってきて、湿った布で汚れた手を拭いてくれた。

「す、すみません」

謝った沙絵莉に向けて、女性はやさしく微笑む。

「癒しを施しておきます。それから食事を取らせて、十分休ませるとしましょう」

「そうか。俺はこれから仕事なんでな。悪いがここで面倒を見てやってくれ。時間が取れたら、また覗きに来よう。…これを」

ちゃりんと音がした。

「ああ、これで十分ですよ」と男のひとの返事で、お金のやりとりをしているのだと分かった。

「いいんだ。全部とっておいてくれ。では後で」

「あ、あの、ありがとうございました。助かりました」

急いで出ていこうとするギルの背に、沙絵莉は慌てて声をかけた。

「あの、あとでお礼を…」

「そんな心配は無用。それより、ゆっくり養生しろ」

そう言って出て行く巨体のギルは、映画のヒーローのようだった。

なんと男気のある人だろう。

「気分はどうですか?」

先ほどの女性から声をかけられ、沙絵莉はドアから視線を外し、女性に顔を向けた。

「もう大丈夫みたいです」

「では、スープを持ってきましょう。ともかく食べて、体力をつける必要がありますから」

「は、はい」

顔を赤らめて沙絵莉は返事をした。

沙絵莉は持ってきてもらったスープをすすりながら、伏し目がちに部屋の内部を眺めた。

ベッドがたくさんある。
まだ朝早いためか、沙絵莉以外に患者はいない。

こんなところでスープを恵んでもらってるなんて…惨めだ。まったく情けない。

どうしてこんなことになっちゃったんだろう?

ふらふらと、窓から出たのが間違いのもとだったのだ。

おとなしくアークの側にいれば良かった…

「アークってば、まだ起きないのかしら?」

そう小声で呟く唇の側を、涙が一粒転がっていった。






   
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