笑顔に誘われて…
第15話 呟きにぽかん



「お邪魔します」と言いながら、吉倉は部屋に入ってきた。

昨夜この部屋で長いこと一緒に過ごしたのに、どうしてか今の方が動揺してしまっている。

時間に追われながら、かぶり物を作るという作業に必死だったから、吉倉を気にする余裕がなかったからなのかもしれない。

「凄いな」

朝食が並べられたテーブルの前に歩み寄り、吉倉が言う。
少し笑いを含む声だった。

「た、たくさんあったほうがいいかなって思って…すみません」

言い訳めいた事を言っている気がして、由香は無意識に謝罪の言葉を付け加えてしまっていた。

吉倉がこちらに向いた。
どうして謝るんです?とその表情は言っている。

「す、すみません」

彼に言われる前にと焦ったために、由香はまたすみませんと繰り返していた。

「高知さん、どうしたんですか?」

落ち着いている吉倉と、焦りまくっている自分の差に、由香は情けなくなった。

「あ…いえ。ご、ごめんなさい」

しどろもどろに答え、また謝罪の言葉を口にしてしまったことに気づき、由香は情けない表情で水道の蛇口を見つめ、ため息をついた。

「腹ペコなんですよ。出来ればすぐに食べさせてもらいたいな」

その声は、すぐ近くから聞こえた。
はっとして顔を上げると、カウンター越しに吉倉が立っていた。

「お、お茶でいいですか?」

慌てた由香は、反射的に問いかけた。

「ええ。私が手伝えるようなことはありませんか?」

「いえ、大丈夫です。座っててください。お茶持ってゆきます」

吉倉は笑みを浮かべて頷き、テーブルの方へ戻っていった。

由香はどうしてか分からないが、笑いが込み上げてきた。

それはきっと、吉倉のさりげない気遣いが心に沁みたからなのだと思う。

吉倉は大人だ。彼女よりずっと。

冷たい水を出し、彼女は手を洗った。
水の冷たさで、少し冷静に戻れた気がした。





「どうぞ、お好きなだけ食べてください」

「ありがとう。いただきます」

吉倉が食べ始めたのを見て、由香も食事を始めた。

「あ、あの、眠くないですか? 吉倉さん、あんまり寝る時間なかったから…」

「眠たそうに見えますか?」

笑いながら吉倉が聞いてくる。

「いえ。寝不足みたいには見えませんけど…」

「徹夜はよくしてるんで、あまり堪えないんですよ。私より、高知さんのほうは大丈夫ですか?」

「はい。私も大丈夫です」

「そうだ、まだ遅れた謝罪をしてなかったな。高知さん、遅れてすみませんでした」

「あ、謝らなくていいです。私に付き合ってくださって、私よりもずっと睡眠時間が短かったんですし、吉倉さんがなかなか起きられなくても当たり前なくらいで…」

「起きられなかったわけじゃないんですよ。被り物に似合う服がないかと、探していたら遅れてしまったんです」

「あ、ああ…」

改めて吉倉の服装を見ると、アイボリーの、ざっくりと編まれたセーターを着ている。
ズボンはダークブラウンだ。

「あと、コートもこげ茶のものにしたんですよ」

吉倉は、ほらというように、自分の傍らに置いていたコートを取り上げて見せた。

「どうですか? 高知さん、トナカイらしいですか?」

「ええ。とてもトナカイさんらしいと思います」

「良かった」

由香の言葉に、吉倉はほっとした笑みを浮かべた。

彼の口元を見つめ、胸がきゅんとし、その事実に由香は内心まごついた。

「それで、靖章さんのほうですが、彼の家はここからは遠いんですか?」

「三十分くらい…かかるかしら」

「そうか。できれば、私の車で、まず靖章さんを迎えに行って、それから真央さんを迎えに行くというのが…被り物のこともあるし、一番良いと思うんですが。高知さんいかがですか?」

「そうですね。それじゃ、ともかく義兄に電話してみます」

吉倉が加わることになったことや、被り物についても話さないと…

「吉倉さんは、どうぞ朝食を食べててください」

由香はすぐに携帯を取り出し、靖章に電話をかけた。

「靖章さん、おはようございます」

『ああ、おはよう。晴れて良かった。真央はどうしてるかな?』

靖章の明るい声に、思わず由香は笑みを浮かべた。
目の前で朝食を食べている吉倉と目が合い、由香は笑顔のまま、彼に頷いていた。

「真央は…あっ、実は私、いま両親と住んでいないんです」

『えっ、そうなのかい?』

「はい。いまはアパートに」

姉が実家に戻ってきたから家を出たとはもちろん言えず、由香はそれだけ答えた。

「それで、色々考えたんですけど…。真央は、お義兄さんと会ったこと、姉に話してしまうんじゃないかって…」

電話の向うの靖章が、息を飲んだような音が聞こえ、由香は言葉を止めた。

「あの、お義兄さん?」

『話すと思うかい? 真央はそんなに言葉が話せるように? …いや…由香さん、真央は…僕を…覚えてくれているかな?』

由香は、一瞬、言うべき言葉をなくした。

靖章の言葉には、不安と、喜びと、切なさがあった。

胸がひどく痛んだ。
半年もの間…靖章は真央と会っていないのだ。

「ちゃんと覚えています。お父さんのこと、真央ちゃん、忘れてるはずないですよ」

『そう…かな?』

そうあって欲しいとの期待を込めた靖章の声に、由香は思わず唇を噛んだ。

私ときたら…彼を元気づけたいばかりに…
真央が覚えているかどうか、わからないくせに…

『でも、覚えてくれているとしたら…残念だけど、真央と顔を合わるわけにはゆかないな。僕は…真央はまだ思うように言葉が話せないだろうから、会っても大丈夫じゃないかと考えていたんだけど…』

確かに、半年前の真央は、いまほどうまく言葉が話せなかったっけ…

『真央に顔を見られないようにするなら、ついていってもいいかな?』

「あのっ、かぶり物作ったんです」

『えっ?』

「サンタのなんですけど」

『サンタ? あの、意味がよくわからないんだけど』

「あの…つまり…顔を見られないようにしたほうがいいんじゃないかって…サンタの被り物を作って…えっと…」

吉倉のことを言おうと思うのに、どう切り出していいかわからず、由香は吉倉にちらりと視線を向けた。

吉倉は、由香を見つめていたらしく、ふたりの目が合った。

「私から説明したいが…させてもらえますか?」

由香に向けて吉倉が手を差し伸べてきた。

彼女はためらったものの、「あの、ちょっと代わります」と曖昧に答え、吉倉に携帯を手渡した。

「君は、私が話している間に、食事を終えた方がいい」

吉倉は由香に指示し、携帯を耳に当てた。

吉倉の方は、すでに食べ終えたようだ。

「靖章さんはじめまして、吉倉佳樹と申しますが。…ええ、彼女とは恋人の間柄で」

躊躇のない吉倉の言葉に、由香はドギマギした。

恋人だということにするって話になってはいたが、こうして実際口にされると…

「実は、私も一緒に行く予定でして。…いえ、もちろんお邪魔なんてことはありません。それより、彼女から色々と話を聞いて、差し出がましいかもしれませんが、私も役に立てないものかと…」

吉倉は、自分をじっと見つめている由香に目を向け、小さく手を振ってきた。

こっちは気にせず、食事をしろと言いたいらしい。

由香は頷き、食事を再開した。

吉倉は、本当に頼りになるひとだ。
彼に任せておけば、何もかも上手く行く気がしてくる。

「実はかぶり物という案は私が提案したんです。彼女とふたりで昨日作ったんですよ。貴方はサンタで、私はトナカイ…ええ、貴方ひとりで被るのは抵抗があるだろうと…」

靖章が何か話しているらしく、吉倉は長いこと耳を傾けている。

「大丈夫ですよ。場所は遊園地ですし。それでは支度ができしだい、まずは貴方を迎えに行こうと思っていますが…。そうです。…ええ、そんなに遅くはならないと思います。貴方を乗せたら、真央さんを迎えに…うまくゆきますよ。大丈夫」

吉倉は靖章に向けて確信を込めて言い、由香に向けても笑みを浮かべて小さく頷いた。

「ああ、そうだ。服ですが、赤っぽい色のセーターとかお持ちではありませんか? ズボンは何色でもいいでしょうけど、サンタらしい色としては、赤い方が」

靖章は、赤いセーターなど持っていないだろうと思うけど…

「ない? そうですか…」

やっぱり…

困ったなというように眉を寄せた吉倉が、由香に向いてきた。

「どうします? 赤でなくてもいいかな? …えっ?」

靖章が何か言ったらしく、吉倉が小さな叫びを上げた。

「トナカイですか? …ええ、まあ、そうでしょうか? わかりました。ともかく、これについては、お会いしてから相談しましょう。では、後ほど」

話を終え、吉倉は携帯を切り、由香に返してきた。

「あの、何か…?」

「靖章さんは、トナカイのほうを被りたいそうです」

「えっ、そうなんですか? でも、どうして?」

「サンタよりトナカイのほうが、真央さんが注目しないだろうから…自分が父親だとバレる可能性が低いと考えたようですね」

まあ、それはいえるかもしれないが…

「吉倉さん、サンタでも構いません?」

「もちろん私はどちらでもいいですが…高知さん、急いでここを片付けて出かけませんか? サンタかトナカイかについては、靖章さんとお会いしてから決めるとしましょう」

吉倉に急かされ、彼の手伝いをもらいながら、由香はテーブルの上の片づけを始めた。

「高知さん」

由香が最後の皿を洗い終えたところで、吉倉が話しかけてきた。

「はい」

「お互いに苗字で呼び合うのは不味いんじゃないかと思うんです。名前を呼び捨てにしたほうが、恋人らしいと…」

「え、ええ。そうですよね」

「それでは、貴方のことは由香と呼ばせてもらいますので。私のことは佳樹と呼んでください」

「そ、それじゃあ…佳樹さんで」

彼の名を口にし、赤くなって欲しくないのに、どうしても顔が赤らむ。

鼓動までも、ありえないほど速まったことが恥ずかしく、頬はさらに赤く染まっていく。

由香は、熱く火照った頬を隠そうと、自分の変化を見つめている吉倉から顔を背けた。

くっくっと、吉倉が笑い始めた。

「笑わないで下さい」

文句を言った途端、由香は手首を掴まれ、キッチンから連れ出された。

「さあ、行こう。由香」

「もおっ、吉倉さん、私をからかって楽しんでますね?」

「ええ。楽しんでますよ。今日は素敵な一日になりそうだ」

笑いながら答える吉倉とともに、由香はアパートを後にした。

素敵な一日になるのだろうか?

吉倉の車の助手席に乗り込み、後部座席に置いた被り物の入った袋を目に入れてから、由香は運転席の吉倉を見つめた。

「うまくいくと思います?」

「さあ…どうだろう。けど、今日という日を無心に楽しみませんか? 不安を抱えてスタートを切るより、楽しい気分で挑む方が、うまくゆく確率は増すと思うな」

吉倉が指摘したとおり、不安を抱いていた由香は、ぎゅっと唇を噛み締めた。

「そうですよね。吉倉さんのおっしゃるように、楽しい気分でいるほうが、うまくゆくに決まってます」

「佳樹だよ。由香、忘れないで」

本当の恋人のように、甘く言われ、由香はポンと顔が爆発した気分を味わった。

「吉倉さ…」

思わずまた彼の苗字のほうを口にしてしまった由香は、いったん口を閉じ、改めて口を開いた。

彼にドギマギさせられっぱなしなんて、面白くない。

「佳樹さん、忘れません」

由香は吉倉の方に顔を突き出すようにして、わざと馴れ馴れしく言った。

吉倉がぎょっとしたように身を引き、その彼の反応に驚いた由香も、ぱっと身を引いていた。

「あ…ご…」

「まったく…私は、貴方にしてやられてばかりだな」

ごめんなさいと言おうとしていた由香は、彼の言葉に目をぱちくりさせた。

わ、私が…?

「由香…本当に、素敵な名前だ」

独り言のように口にした吉倉は、彼の呟きにぽかんとしている由香に気づくことなく、車をスタートさせたのだった。





   

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