笑顔に誘われて…
第19話 笑いのわけ



「はふっ」

トナカイ靖章の肩に顎を載せた真央が、大きなあくびをした。

目はトロンとして、すでに意識の半分は夢の国のようだった。

主役が寝てしまったら、もうお開きにするしかない。

ここには真央を楽しませるためにやってきたのだ。
眠っている真央を連れ回っても意味は……ない。

ないのだけど……

時刻は四時ちょっと前。

……そろそろ真央を、病院に連れて行って、姉に会わせてやらなければ。

でも靖章は、少しでも長く真央といたいに決まっている。
今日別れたら、次はいつ会えるかわからないのだから……

明日は姉も退院する。
それはとても嬉しいことなのだが……

靖章のことを思うと、辛くなる。

これから先、真央だけを連れ出すなんてことはできなそうだし……

それでも、遊園地を出るなら、真央が寝てしまっている今が一番いい。

そろそろ帰りましょうか?

その言葉を口に含んだまま、由香は靖章の背中を見つめた。

真央を宝物のように抱き締めて、ゆっくりとした歩調で歩く靖章。

由香は開いていた口を、役目をまっとうすることなく、そのまま閉じた。

とても告げられない。

いまの靖章にとって、残酷な言葉だ。

ど、どうしよう……

困った由香は、眉を寄せて真央を確認した。

どうやらすっかり熟睡してしまったらしい。靖章の歩みに合わせて頭が揺れている。

真央……

ぐっと熱いものが喉元に込み上げ、由香は息苦しくなった。

「寝てしまったようだな」

不意に、隣を歩いている吉倉が言った。

由香は顔を上げて吉倉に向いた。

困っていたところだったから、ひどくすがるような目を向けてしまったかもしれない。

吉倉の言葉を耳にしたらしい靖章も足を止め、振り返ってきた。

「ええ。もう夕方だし……」

靖章は囁くような声で言い、由香に視線を向けてきた。

「由香さん」

靖章に呼びかけられた由香は、落ち着きを失くして彼と目を合わせた。

「は、はい」

「真央は、このまま真っ直ぐ、お義父さんと義母さんのところに送るんですか? それとも……早紀のところに?」

「あっ、はい。連れてゆくって……言ってあります」

「そうですか。それから高知の両親のところに?」

「いえ。今日は私が預かることになってます。両親も、姉があんなことになって、ここ数日とても大変だったので……」

「そうか。君のところに……」

そう言ったのは、吉倉だった。

「実は、由香、重要な話があるんだ」

「えっ? 重要な話って……どんな?」

「ここでは……。じっくり腰を据えて相談したいんだが……真央さんがいるのでは……ずっと被り物を被ってなきゃならなくなるが……」

「お、俺は構いませんよ。ずっとこれ、被ってるんでも……」

靖章は焦った様子で、勢い込んで言う。

「靖章さん、声を出せないんじゃ、話ができませんよ」

苦笑しつつ吉倉が言い、靖章は気まずそうに顔をしかめた。

「そう……ですよね」

「でもまあ、真央さんが寝てしまってから相談しても……必要なだけ時間は取れるかな」

吉倉と靖章のやりとりを、黙って聞いていたものの、さっぱり話が見えない。

いったいどういうことになっているだろう?

このふたりときたら、自分たちだけ理解している話を進めてしまってる。

重要な相談事とはなにかを知らされず、彼女はまるでわかっていないというのに……

「由香」

「は、はい?」

「君のアパートに、お邪魔させてもらってもいいかい?」

重要らしい相談事をするためだろう。もちろん、構わない。

由香はこくりと頷いた。

「それじゃ、ともかく病院に向かおうか? 病院近くに喫茶店でもあれば、そこで靖章さんと私は待つことにしよう」

「俺はひとりで待ってますよ。佳樹さんも行ってください」

「いや……そうだな。会って……由香、一緒に行っても……その、いいか?」

吉倉は考え考え言い、最後にそう聞いてきた。

由香は咄嗟に返事ができなかった。

姉と吉倉を会わせるということは、姉にまで、吉倉との仲を誤解させてしまうわけで……

まあ、どのみち、もう両親にはそう思い込ませてしまっているのだ。これに姉が増えたからって……同じことかもしない。

「いい……ですよ」

即答とは言い難い返事になってしまったが、吉倉は笑いながら頷いた。

「それでは、まずは病院だな」

話がまとまり、彼らは遊園地の門へとまっすぐに向かった。





寝ている真央が起きないように注意しつつ、靖章は背もたれを倒したチャイルドシートに真央を寝かせた。

「あの……靖章さん、これ」

真央の寝顔に見入っている靖章に、由香はピンク色の毛布を差し出した。

娘の寝顔からなかなか視線を離せない靖章は、「え、ええ」と、うわの空で返事をしつつ、振り返ってきた。

「包み込むみたいに、かけてあげてください」

「あ……ああ」

どうしたのか、靖章は由香が差し出しているピンク色の毛布を、まじまじと見つめる。

「あの……靖章さん?」

「う、……あ……ああ」

靖章は、手をそっと伸ばしてきて、毛布を受け取った。
そして両手でぎゅっと握りしめる。

「これ……俺が買った。……会社の帰りに、早紀が紙おむつを買ってきてくれって電話かけてきて……それで、ベビー用品専門店に入って……これが目に入ったら、このうさぎがあんまり可愛くて……」

そこまで言った靖章が、ぐっと唇を噛み締めた。

靖章の目が潤み始めたのに気づき、由香はたまらず目を逸らした。

自分も泣きそうだ。

運転席に座り、後ろに首を回している吉倉と目が合った。

顎を強張らせていた由香は、泣きそうな顔を彼に見られて赤くなった。

靖章に視線を戻すと、真央を起こさないように細心の注意を払いつつ、毛布をかけてやっている。

「靖章さん、まだ後で遊んであげられますよ」

吉倉は元気づけようとするでもなく、淡々とした声をかける。

靖章は顔を上げ、ふっと笑った。

「そうですね。それじゃ、あの、後ろをついてゆきますので」

吉倉が同情したように言わなかったことで、靖章は彼の言葉を素直に受け入れられたようだった。

なんか、やっぱり、吉倉は凄いと思う。

ほんと、このひとには、負けちゃう。

真央から離れがたい様子だったが、靖章は自分の車に戻って行った。

靖章にとって、真央は自分の娘。本当なら、真央と一緒にいるのが当然の立場なのに……

「いまだけを見ているから、哀しいんだぞ、由香」

冗談めかした言葉をかけられ、由香は吉倉に向いた。

「いまだけを見ているから?」

「ええ。いずれ靖章さんは、真央さんと早紀さんと家族として暮らせる」

「……本当に、そんな日がくるんでしょうか?」

「疑いは、明るい未来を約束してくれませんよ」

諭すように言われ、由香は唇を突き出した。

「そうかもしれませんけど……」

「未来には無限の可能性がある。私たちの前には、あらゆる現実が用意されているんですよ。そして、選択するのは私たちだ」

吉倉の言葉は、確かにそうなのかもと思う。けど……

「選択があり過ぎるから、間違えちゃうんですよ。……それで望まない未来になっちゃうんです」

「では、間違えるのは、どうしてだと思います?」

「えっ?」

吉倉の問いに、由香は眉をひそめ、しばし考え込んだ。

「そ、それは……そのときは、間違いだと思わないからですよ。間違いだとわかっていたら、選んだりしません」

「そうかな? 私は、わかっていても、選択することもあると思うが」

「そんなことないですよ。どうして間違いをわざわざ選択するんですか?」

「そうか、つまり君は、これまでそういう経験をしていないのだろうな」

「え……?」

会話が途切れた。吉倉は黙ったまま運転を続ける。

どうしてか由香は、話の途中で自分が吉倉から見放された気がして、落ち着かなかった。

「あ、あの……吉倉さんは、間違った選択をしてしまったことがあるってこと?」

「吉倉に戻ってしまったな……。ああ、そうだ。話を聞くのを忘れていました。あの夫妻……田上さんだったかな……どうして私たちが夫婦という話になったのかな?」

由香は俯き、顔をしかめた。

あのまま、忘れてくれてればよかったのに……

「由香? 聞かせてはもらえないんですか?」

「田上さんが……あそこに偶然通りかかって、私に気づいて」

「ええ、それで?」

「それで、立ち止まってしまって……そうなったら、話をしないわけにはゆかなくなって……そしたら、真央のこと、私の娘だって思われちゃったから……」

「田上さんは、仕事でお世話になっているひとなんでしたね。あの工房で働いていらっしゃるわけではないんですね?」

「ええ。商品を納入している会社の方です」

「では彼は、貴方が独身なのを知らないのか」

吉倉のその思い込みを、一瞬そのままにしておこうかと思ったが、由香は迷った末に「いえ、知ってます」と真実を告げた。

先ほどの、選択がどうのという話が、一瞬、胸をよぎったせいかもしれない。

吉倉には、この場に都合がいいからと誤魔化したりせず、真実を知らせたくなったのだ。

それは、たぶん由香が、吉倉との未来を無意識に望んでいたからなのかもしれない。

この場限りのことにしても構わない相手と、そうでない相手がいるとすれば、吉倉は、いまの由香にとって、そうでない相手になりつつある。

昨日、会ったばかりのひとなのに……

由香は、自分に呆れた。

「知っている? ふーむ。どうやら、この話、思ったより根が深いようだ」

「根が深いなんて……吉倉さん、そんなこと全然ありません。吉倉さん、考え過ぎです」

「そうですか? なら、話して聞かせてもらえるんですね。嬉しいな。すっかり聞かせてもらえたら、すっきりする」

楽しげに言う吉倉に、由香は顔をしかめた。

彼ときたら、まさか、こういう流れにもってゆくつもりで、会話をふってきてたなんてこと?

そんな気がしてならない。

このひと……頭がキレすぎる。

手のひらで転がされてる気がしてきた。

「由香?」

「はいはい。話しますよ。佳樹さん、話せばいいんでしょう?」

ふてくされて言った途端、吉倉が声を上げて笑い出した。

「な、なんで笑うんですか?」

「君が……」

「君がなんですか? 言いたいことがあるなら、佳樹さん、はっきり言ったらどうですか?」

「そう? なら、遠慮なく。君が可愛いかったからだよ、由香」

大きな声で言われ、由香は思わず息を止めた。





   

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