笑顔に誘われて…
第20話 心の救い



「な、な、何を、い、い、言ってるんですか?」

「焦る君も可愛い」

由香は赤らんだ顔を手のひらで隠しながら、からかいをやめない吉倉に向けて唇を突き出した。

「もおっ、吉倉さん、いい加減にしてください!」

可愛いという言葉など、とても素直には受け入れられない年齢だというのに、連呼されてはもう身の置き所がない。

「からかうのもたいがいに……」

「からかってるわけではないんだが……しかし、可愛いと褒めたのに、憤慨されるとはな」

吉倉ときたら、不服を込めたように言う。おかげで由香の顔はさらに赤らんでしまった。

「褒めてません! 自分のことは自分が一番よくわかってます」

口をへの字に曲げて言葉を飛ばし、由香は吉倉から顔を背けた。

「いや……君はわかってない」

ぼそりと口にされたその言葉は、由香の耳に届かなかった。

「何か言いました?」

聞き返したが、吉倉は返事をせずに車を発進させた。由香は後方へ首を回して靖章の車がついてくるのを確かめてから、顔を前に戻した。

「吉倉さん」

黙ったままの吉倉が気になり、由香は呼びかけた。

「君は、凄いなと言ったんですよ」

「えっ? 凄いって……あの、なんのことですか?」

「自分のことを分かっている貴方が凄いと思って……だって私は、自分のことなのに、自分がよくわからなくなる」

ため息まじりの吉倉の言葉を聞き、由香は言葉に詰まった。

吉倉の言うとおりだ。

そう認めた途端、吉倉が口にした「君は凄い」という言葉が、棘のように心に刺さった。

「ごめん……なさい」

「うん? どうして謝るんです?」

「私は凄くなんかないし……自分のことは一番わかってるなんて言っちゃったけど……吉倉さんの言うとおりだなって……」

「困ったな」

吉倉はそう言って苦笑する。

「貴方を責めたくて口にした言葉じゃなかったんだが」

「それはわかってます。でも……そう……自分がよくわかってないから、選択を誤るんですよね。それで、いまの私の人生は、こんななんだわ」

由香は思わず、ため息とともに本音を漏らしてしまっていた。

「まるで、人生を悔いているように聞こえますよ」

悔いてるんだろうか? 確かに……私は悔いているのだろう。

「もっと、自分を変えられたのかなって……変えられたのに、変えるための選択をしなかったっていうことなのかも」

くすくす笑う声が聞こえ、由香はむっとして吉倉を見た。

「どうして笑うんですか?」

これ以上ないくらい深刻に、真面目に自分の人生を思い返して、考え込んでいるというのに……

「いや、君が、もう何もかも遅いとでもいうように言うから。いまからでも間に合うのにと思って……」

吉倉の言葉に、由香は面食らった。

いまからでも間に合う?

そう、なのだろうか?

「どんな風に変えたいか。相談に乗らせてもらえたら嬉しいな」

そうしてもらえたら、真実嬉しいとでもいうように吉倉は言う。

由香は、胸が苦しくなるほどの喜びを含んだしあわせを感じた。

「吉倉さんって……変わってるって言われません?」

言う言葉を迷い、由香は結局、そんな言葉を口にしてしまっていた。

やさしいひとだということを伝えたかったのに……素直に口にできない。
吉倉は、思ったまま……言ってくれたのに……由香のことを可愛いと……

吉倉が感じさせてくれたしあわせな心地に、微かな危機感を覚えて……それで、わたし……

「変わってる? 私は普通だと思いますが」

一瞬、心に去来した不安な思いを、吉倉の言葉を耳にした由香は、さっと消し去った。

「自分ではわからないんですよ。きっと……さっき、吉倉さん、自分でそう口にしたじゃありませんか。自分のことなのに、よくわからなくなるって……」

吉倉同様に、からかうように由香は言った。

前方に顔を向けているから、吉倉の表情ははっきり確認できないが、彼は苦笑を浮かべているようだった。





「起きてしまうかな?」

ベビーシートでぐっすりと眠っている真央を見つめ、吉倉が問いを向けてきた。

「どのみち、起こすことになりますから。ただ、機嫌よく起きてくれるといいんですけど……」

「真央さんは、寝起きのいい方ですか?」

「そのときによりますね」

「そうか。では、起きることを気にせず、抱き上げるとしましょう」

そう宣言した吉倉は、ためらいなく眠っている真央を抱き上げた。

「あん……」

抱き上げられた反動か、真央が眠たそうな甘えるような声を上げる。

「真央」

「……んん……」

真央はもごもごと何か言うが、何を言っているかはわからなかった。

「真央さん、起きましたか?」

吉倉は、真央の顔を覗き込むようにして、丁寧な口調で問う。

真央は吉倉を見つめながら、小さな口を開けて欠伸をした。

どうやら、寝起きの機嫌は悪くなさそうだ。

車の窓越しに吉倉と真央を見ていた由香は、顔を上げて靖章の車のほうに振り返った。

靖章は、十メートルほど離れた場所に止めてある車の運転席にいる。

ここは姉の早紀が入院している病院の駐車場だ。これから姉のところに、真央を連れて見舞いに行く。

「それではゆきましょうか?」

吉倉から声をかけられて、由香は急いで顔を戻した。

真央を見ると、まだ眠たいらしく、瞼を半分閉じたまま、吉倉に抱かれている。

「真央ちゃん」

「ユカバン」

名を呼ばれた返事の代わりに由香を呼び返した感じだった。持ち上げている頭が重たそうにゆらゆら揺れている。

「まだ、眠たい?」

「ん……とーたんと……」

寝言のように真央が言った。由香は、ぎょっとして真央を見つめ、それから吉倉と目を合わせた。

まずい気がする。姉の前で、真央がとーたんなんて口にしたら……

「気にしないほうがいい」

「吉倉さん?」

「しらばっくれるんです。それに、お姉さんの前で、真央さんがとーたんと口にするのも、けして悪くないかもしれませんよ」

「それって?」

「なるようになる。貴方が罪の意識を抱いていると、うまくゆきませんよ」

「難しいことを言うんですね?」

「厚顔無恥なくらいがいい。焦らない、慌てない」

だから、それが難しいのに……

「吉倉さん」

「何か不味い事態なったら、私がフォローします。ともかく、お姉さんとお会いしてきましょう。真央さん、貴方のお母さんのところにゆきますよ」

吉倉の言葉は、真央には通じなかったようだ。きょとんとしている。

由香は、笑いを堪えながら、吉倉の言葉を翻訳して伝えた。

「真央ちゃん、ママんとこに行こうね」

「ママ?」

真央は嬉しそうというわけでもなく、普通に問いかけてきた。

これから母のところに行くという状況を、きちんと把握できていないのだろうか。

「そう、ママのところ」

「ママ、イタイイタイヨ」

お腹をポンポンと叩きながら、顔を歪めて真央が言う。

真紀の具合が悪かったときのことを覚えているらしい。

「もう痛くなくなったから、大丈夫よ」

安心させるように言ったが、真央は親指を口に含み、じーっと由香を見つめ返してくる。

大丈夫という言葉を疑っているように見えて、由香はどうにも心地が悪かった。


姉のベッドは、二人部屋の窓側。
ドア側のベッドにも入院患者がいるが、かなり老齢のひとのようだった。
寝ているのか、まるで反応がないため、由香はそのまま姉のベッドに歩み寄っていった。

「お姉ちゃん」

ベッド周りのカーテンから中を覗きながら、由香は姉に呼びかけた。

早紀は枕を背に身を起こし、雑誌を見ていたらしい。

顔を上げてきた早紀は、由香を見て眉をひそめた。

「真央は?」

「うん。いるよ」

「あら、お父さんたち、一緒に……えっ?」

由香の後ろから、真央を抱いた吉倉が入ってきたのを見て、早紀の眉が寄った。

「あ、あの……こちら、吉倉さん。あのね、彼も今日、わたしたちと一緒に遊園地に行ったの」

状況が飲み込めず、姉は言葉がない様子で、吉倉と由香を交互に見つめていたが、真央に向けて両手を差し伸べてきた。

「真央」

「マーマ!」

嬉しげに真央が叫び、ダイブするように母親に飛びついた。

吉倉は驚いたようだが、体勢を立て直し、真央を早紀に渡した。

「真央、遊園地、楽しかった?」

「うん。サンタしゃんととーたんね、ぐ〜るぐるう〜って、したの」

「ああ、今日はクリスマスだものね。サンタさんたち、遊園地にもいたのね?」

「いたの」

真央は満足そうな笑みを浮かべて頷く。

早紀は真央を抱き締め、頭をなでながら、吉倉と由香に視線を向けてきた。

「はじめまして。吉倉佳樹です。今日は真央さんとご一緒させてもらい、楽しませていただきました」

「あの。吉倉さん、貴方、妹とはどういったご関係?」

初対面の相手だというのに、厳しい声音で問いかける姉に、由香は眉をひそめた。

「そうですね。単なる知人よりは、はるかに親しい間柄といったところでしょうか」

きつい態度をとる姉に臆することなく、吉倉は冗談めかして言葉を返した。だが、吉倉の受け答えが気に入らなかったらしく、早紀は不機嫌そうに眉を寄せる。

「嫌なひとね。そんなもってまわった言い方しないで、はっきり言ったらどう?」

「お、お姉ちゃん」

刺々しい態度の姉を見るに見かね、由香は責めるように呼びかけた。

「彼女の恋人になりたいと思っています」

吉倉は、姉の言葉を気にすることなく、さらりと返す。

「よ、吉倉さん」

「悪いけど、貴方が妹にふさわしいとは思えないわ」

「お、お姉ちゃん」

早紀の失礼な発言に慌てた由香は、姉に向けて叫んだが、吉倉は彼女の肩を軽く叩いて止めてきた。

「では、私のどういったところが、由香にふさわしくないと?」

「全部よ!」

姉は吉倉に向けて攻撃的に叫び返した。
姉の剣幕に驚きが過ぎて、由香は目を丸くした。

「性格も顔も、その横柄そうな態度も……全部、全部よ!」

あまりにも無礼な姉の言葉に、由香は眩暈がした。
なのに吉倉は、自分が侮辱されていると言うのに、由香のことを気遣い、肩を手でさすってくれている。

こんなにもやさしいひとだというのに……姉は、どうして?

「それにしても、由香、あんたどうしてこのひととのこと、話してくれなかったの?」

「お……」

苛立ちと哀しさが強烈に込み上げてならず、姉に向けて文句を言いかけた由香を、吉倉はまた止めてきた。

由香は、吉倉に顔を向けたが、彼は大丈夫だからとでもいうように、小さく頷く。

早紀の胸に抱かれている真央の心情を、彼は気にしてくれているのだ。母と叔母が激しい口論などしたら、真央を怯えさせてしまう。

それにここは病院。さらに姉は、病を患っている入院患者。

ここに来る前に、吉倉から、姉がどんな態度にでようとも、憤ったり反論したりせずに、冷静に対応するようにと言われた。言われたが……姉の態度は、あまりにもひどい。

「由香。私は外で待っていよう。君はゆっくり、お姉さんと話しておいで」

吉倉は、由香をなだめるように腕にそっと手を触れ、病室から出て行く。

「なーに、あの態度。さも自分は悪くありませんって感じで、嫌味ったらしいったらないわね」

吉倉の後姿を見つめていた由香は、ゆっくりと姉に振り返った。

もどかしかった、哀しかった……

「お姉ちゃん……」

「由香、あんたってば、ちょっといい顔されて調子にのってんじゃないのよ。恋に免疫ないもんだから、すぐに騙される」

「騙す……?」

姉のあまりにひどい言い草に、思わず反論しようとした由香だったが、吉倉の言葉を思い返し、なんとか怒りを飲み込んだ。

「騙されてるに決まってるでしょ。年齢を考えなさいよ。あんな女にもてそうなひとが、あんたなんかに……」

「あんたなんか……?」

由香は呟くように言葉を口にしていた。

あまりに哀しくて、声が震えるのをどうしようもなかった。

早紀はハッとした顔をしたあと黙り込み、俯いて顔を伏せると、娘の真央をすがりつくように抱きしめ、口元を強張らせた。

「あんたが傷つくのなんか見たくないのよ。男なんか信用して、いいことなんかないんだから」

感情的に言い募った早紀は、自分をじーっと見つめている真央の眼差しに気づいた途端、狼狽した様子で慌てて目を伏せると、口元に無理やりな笑みを浮かべ、もう一度真央と目を合わせた。

「まーお」

真央は母を見つめるだけで、返事をしなかった。
幼い瞳が暗く翳っているように思えて、由香の胸が疼く。

「すぐ戻る……」

そう言い置き、由香は姉の返事など待たずにドアに向かっていた。

どうしてもいますぐ吉倉の側にゆきたかった。
彼の側に行けば彼女の心は救われる。そう思った。





   

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