笑顔に誘われて… | |
第25話 それでもウキウキ やわらかなものが頬に触れた感触に、ぐっすりと眠り込んでいた由香は「う……ん」と声を発し、ゆっくりと瞼を開く。が、その瞬間、パチンと顔を叩かれ、びっくりした。 「な、なに?」 顔にくっついているものに手をやり、それが何か確認する。 ちっちゃな手だ。 な、なんだ……真央の手か…… 手をわずかに持ち上げてみると、由香の身体に覆いかぶさるように、真央が寝ている。 寝返りを打った拍子に、由香の顔に平手打ちをくれたらしい。 天使みたいな寝顔の真央を見つめて苦笑しつつ、由香は真央を自分から降ろし、布団で包み込んだ。 ベッドに横になったまま、自分の部屋を見回す。 朝方の冷え込みで、空気が肌を刺すように冷たい。 時間を確かめてみたら、もうすぐ八時半になるところだった。 そろそろ起きなきゃ。 今日は早紀が退院する。 わたしは真央を連れてマンションに行かなきゃ。 そうしたら、両親が病院に姉を迎えに行く。 手を伸ばし、エアコンのリモコンを取り上げ、スイッチを押す。 部屋がそれなりに温まるまで、もう少し真央と一緒にぬくもりを味わっていよう。そう決めて、真央を腕に抱きしめ、その幼い匂いを楽しむ。 子どもってやっぱりいい。 姪っ子でもこんなに可愛いのだから、自分の子どもだったら…… 微笑みながら考えていた由香は、そこで笑みを消した。 自分の子どもか……わたしには一生縁がなさそうだわ。 ふっと笑ったものの、哀しい気分になる。 由香は吉倉のことを考えた。 彼が現れてから一緒に過ごした二日間……思い出すのも大変なほど、様々なことがあった。 レストランでイブのディナーをして、なぜか両親のマンションにも連れて行って……さらに靖章も加わっての遊園地。姉のところにも行った。 そうそう、クリスマスのイルミネーションも観に連れていってもらったっけ…… 綺麗だったな……手を繋いで一緒に走って…… 徹夜して、サンタとトナカイの被り物までふたりで作った。 ……出会ったばかりなのに……有り得ないほど親身になってくれて…… 不思議な人だった。 昨夜、彼と靖章が帰ってしまって……夢を見ていたかのような気がしてしまって…… 落ち着かなくなって、真央と一緒にすぐ寝てしまったのだ。 いまだって、あれは現実だと理性ではわかっているのに、吉倉という存在は、自分が作り出した幻のように感じてしまう。 でも…… 由香は、枕元に置いていた携帯を取り上げて開いた。 うん。吉倉さんの携帯番号……ちゃんと入ってる。 ほっとしつつ、吉倉佳樹という名が表示されている部分に、由香はそっと指先で触れた。 その由香の目に、綾美の名が入ってくる。 吉倉佳樹の名の下にあるのは、彼の妹の名。 あのひとは、綾美ちゃんのお兄さんなのよね。 そのはずなのだが、内心、確信を得られないでいる。 綾美ちゃんに、電話してみようかしら……そうすれば、確信が得られ…… で、でも、なんて言うの? イブとクリスマスの昨日、あなたのお兄さんに、とてもお世話になったの…… あっ、ダメダメ。そんなことは言えないわ。 吉倉は、綾美のことを心配して、由香に会いに来たのだった。 確認は諦めるしかないようだ。 姉と靖章の復縁のために、力を貸してくれることになっているのだから、吉倉とは必ずまた会える。 三人で相談した結果、まずは由香が、退院してきた姉の様子を見守ることになった。 そしてこれからどんな手段を講じるか、じっくりと決めていくことになった。 これからよね。頑張りどころは…… 由香は、真央の寝顔を見つめ、ぷっくらした頬を起こさない程度につんつんと突いた。 「真央ちゃん、ユカバン頑張るからね」 真央のほっぺたにくるくると円を描きながら声をかけ、由香はベッドから出た。 そこそこ部屋は温まってきたものの、まだ寒い。 急いでカーディガンを羽織り、靴下も履いた由香は、飾っておいたイチゴサンタちゃんのラッピングの箱の前に歩み寄った。 昨日の朝、開けようかと思ったけど、まだそのままだ。 箱を手に取った由香の脳裏に、イチゴサンタちゃんの笑顔がまざまざと浮かぶ。 由香はにっこり微笑んだ。 また会いに行こう。もうイチゴサンタちゃんではないだろうけど……あの笑顔は変わらない。 胸いっぱいにパワーがみなぎってきた。 「よーっし! やってやるぞぉ」 由香は、真央を起こさないように小声で勢いよく鬨の声を上げたのだった。 「お姉ちゃん、おかえり」 玄関に入ってきた早紀を、由香は笑顔で迎えた。 「うん、ただいま」 早紀は気恥ずかしそうに答え、靴を脱いで家に上がってくる。 母も「ただいま」と言い、父は笑みを浮べ、頷きながら上がる。 家族全員が揃ったことで、おかしなくらい胸がジンとした。危うく涙を零しそうになる。 「真央、お昼寝してるの?」 コートを脱ぎながら早紀が聞いてきて、姉に目を向けて「うん」と頷いた由香は、「あっ」と声を上げた。 「これ?」 早紀は由香に向けて、首にかけているネックレスを指さす。 「う、うん。お姉ちゃんに、似合って思った」 「ほんとよ。由香、奮発したじゃないの。わたしも欲しかったわぁ」 背後にやってきた母が、由香の肩を叩きながら、不服そうに言う。 「お母さん、ハンドバッグが欲しいって言ったじゃない」 「だって、アクセサリーなんて、思いつかなかったんだもの。でも、そのネックレス、ほんと早紀に良く似合うわね」 「うん。わたしもそう思う」 ちょっとおどけるように胸を張って言った早紀は、「真央を見て来るわ」と早口に言い、自分の部屋に小走りで駆けていく。 ドアが閉まり、由香は両親ふたりと目を合わせた。 「お姉ちゃん……」 「ええ。わたしも、少し変わった気がするの。昨日、わたしたちが病院から帰ってから、何か考えるところがあったのかなって思ったんだけど……。あんたがあげたあのネックレス、すごく気に入ってるようよ」 由香は喜びを噛み締めながら頷いた。 三人は居間に入り、そこまでまた会話の続きに入った。 「佳樹君とも会ったと言ってたぞ」 「うん。一緒に行ったの」 「どうして姉の自分に、誰より先に話してくれなかったんだろうって、むくれてたわよ」 それはできない相談だ。由香は笑ってごまかした。 「佳樹さんに失礼なことを言ったって、あの子後悔してたけど……佳樹さん、大丈夫だったの?」 「うん。彼は気にしてないから。ちゃんとお姉ちゃんの状況わかってくれてる」 「だろうな。佳樹君はできた男だ」 頷きながら、父は吉倉を褒める。その様子に、不安が湧く。 あまり彼を気に入られてしまうと、不味いことになりそうだ。 「昨日のお礼もしたいわね。夕食でもご馳走したいから……由香、あなた誘ってみてちょうだい」 「あ、うん。わかった」 「独り暮らしなのか?」 「そ、そう」 確か、そう言っていた。 「夕食は自炊をされてるの?」 それは聞いていない。 実家とマンションを行ったり来たりしているとは聞いたが…… 「あまりしてないみたい」 適当に答えてしまい、冷や汗が出る。 「早紀の退院祝いをするんだろ。今夜、彼を招いたらどうだね?」 「あら、そうよ、それがいいわ。お世話になったし……」 「誘うなら早い方がいいぞ」 「そうよね。買い物に行く前に……ほら、いま電話してごらんなさい」 「え? あ……」 お礼に食事をという話では、由香としても反対できるはずもない。 「う……ん」 思わず頷いてしまい、由香は内心顔をしかめた。 仕事が忙しいかもと口にしようかと思ったが、吉倉の仕事が何かと問われても答えられない。 ここは、このまま話を流した方が良さそうだ。 「そ、それじゃ、誘ってみる」 そう口にし、ドキドキしてきた。 両親のほうは、それぞれやることがあるらしく、母はキッチンに入り、父は居間から出て行った。 ひとりになり、かなりほっとする。 誘ったふりだけしてもいいけど……誘ってみるべきよね。悪いことじゃないんだし…… 正直、誘いたいと思ってしまっている。 けど、誘いに応じてくれるだろうか? 忙しいからと、断られてしまうかもしれないよね。 携帯を取り出し、心臓がバクバクしはじめる。 躊躇しそうになる指を動かし、最後の発信ボタンを思い切って押した。 呼び出し音が鳴りだし、心臓はバクバクどころでない騒ぎだ。 も、もしや、仕事中だったりするだろうか? 電話して迷惑だったり…… ど、ど、どうしよう…… 鳴り続ける呼び出し音に、ビビリが増す。 仕事のことが話題に出た時、吉倉は、一人暮らしのほうが、仕事がスムーズに行くのだと言っていた。 それから、あのゴージャスなケーキを、仕事関係でもらったと…… 病院でくれたチョコ玉も、パーティでもらったものだと言っていたっけ……そして、そのパーティは綾美も一緒に参加していたのだ。 考えてみたら、彼については謎ばかりだ。 わたしって、吉倉さんのことを何も知らないのよね。 いまさらの事実に、ひどく不安を覚えた。 「はい」 不意に呼び出し音が途切れ、吉倉の声がして、心臓が口から飛び出そうになる。 「あ、あのっ……わ、わたし、た、た……」 「由香」 その呼びかけに、高知と名乗ろうとしていた由香は言葉を止めた。 「何かありましたか?」 「い、いえ……何も……」 じゃなくてっ! わたしってば、何をテンパってるのよ。 「嬉しいな」 舞い上がっていた由香は、その吉倉の言葉にきょとんとした。 「は、はい? 嬉しいって……あの何が?」 「用事がなくても、電話をもらえた」 「あ……い、いえ。用事、あるんです。ゆ、夕食、じゃない。あ、姉の退院祝いをするんです。佳樹さんにお礼も兼ねて、お呼びしたいって両親が……」 「……そうでしたか」 「あの……それで、ど、どうですか?」 おずおずと聞く。顔に血が上ったか、ほてって熱い。 「もちろん、喜んで」 「そ、そうですか。良かった。それじゃ、待ってますから」 「由香、ちょっと待って。何時に伺えばいいのかな?」 「えっ? そ、そうですね。ちょっと待ってくださいね」 由香は、キッチンに振り返り、母を探した。 「お母さん、佳樹さんが何時でいいですかって」 「何時でもいいわよ」 「あの、何時でもいいそうです」 「それでは……そうだな、六時くらいで、いいのかな?」 「は、はい。いいです」 「では、由香、六時に」 「は、はい。待ってます」 携帯を切り、由香は息苦しさを感じて深呼吸した。 緊張から疲れを感じたが、それでもウキウキしてならなかった。 今夜また、吉倉に会えるのだ。 |