笑顔に誘われて…
第28話 心が癒えるまで



「あ、あったまってきた?」

風呂から上がり、姉の部屋に入ると、早紀が焦ったように聞いてきた。

早紀の焦りが伝染し、由香もまた「う、うん」と焦って返事をしてしまう。

真央がベッドに寝ているが、部屋はぎこちない空気に包まれ、かなり落ち着かない。

「え、えっと……由香、ほ、ほら、座ったら」

うわずりながら、姉は床に置いてあるクッションを指す。頷いた由香は、急いでクッションに座り込んだ。

部屋が静まり返る。

照れくさいのか気まずいのか……姉はなかなか由香と視線を合わせようとしない。

一時間前、感情が煽られるまま、姉に向けて大声を出してしまったところだから、由香もまた照れと気まずさを感じている。

沈黙があまりに気詰まりで、必死に話題を探していると、姉が先に口を開いた。

「こんなふうに……あんたと並んで寝るなんて……何年ぶりかしらね?」

ベッドに座った早紀は、少しばかり口ごもりながら言う。

「お姉ちゃんの……結婚式前夜……かな?」

結婚と言う言葉が口にしづらかったが、由香は思い切って言った。

早紀がこちらに振り返り、ふたりの目が合う。

苦笑いして見せた早紀はすぐに唇を歪め、由香の視線を避けるようにベッドに寝ている真央の寝顔を見つめる。

泊まる部屋なら、姉と真央の部屋でなくとも、由香の部屋があるにはある。

だが、いまその部屋は、離婚して戻ってきた姉の家具がぎっしり詰め込まれているのだ。

布団を敷くスペースがないことはないが、あの部屋では落ち着かないだろうから、この部屋で寝ればいいと、姉から言い出した。

姉は、由香と話がしたいのだ。

どんな話がしたいのかわからないから、どきどきするが……

「どうして……あんなふうに……言い切ったの?」

少し機嫌悪そうに姉が聞いてきた。

姉が言っているのは、先ほどの由香の発言だろう。

靖章は浮気などしていないと口にしたこと。

「あの……お姉ちゃん……怒らないで聞いてね」

こんな願いを前置きするのもどうかと思ったが、これまでの姉を思うと、どうしても口をついて出てしまう。

姉は侮辱されたと言わんばかりにむっとした顔になる。

由香は思わず身を縮めた。そんな由香を見て、早紀がため息をつく。

「わかったわよ、怒らない……たぶんね」

「たぶんって……安心できないんだけど」

由香はわざと拗ねたように言った。

「浮気……してないと、本当に思う?」

早紀はひどく身を強張らせて聞いてきた。由香は強く頷き返した。

「どうして? ……どうしてそう思う……の?」

涙声で姉は言い、零れ出た涙を手の甲で拭う。

由香は姉に話す前に、深く息を吸い込みながら、吉倉の顔を思い浮かべた。

頭の中の吉倉が、ガンバレというように見つめ返してくれる。由香は吉倉に頷き返し、姉をまっすぐに見つめた。

「お姉ちゃんは、靖章さんが見えてなかったと思う」

「見えて?」

「うん。疑ってかかってたから、本当の靖章さんが見えてなかったと思う」

姉は反論したそうな目をしたが、口元を強張らせて何も言わない。

我慢してくれているのだ。

姉には姉の言い分があるのだから、それを口にしたいはず……でも、堪えてくれているのだ。

由香は、ベッドに座っている姉に近づき、姉の手に手を重ねた。

「靖章さんは浮気していないって言った。わたしはそう口にする靖章さんを見て、このひとは嘘をついていないって感じた」

憤りが姉の目に浮かび、由香は姉の手をぎゅっと握りしめた。

「お姉ちゃんにはお姉ちゃんの言い分があると思う。けど、いまは聞いて」

早紀は大きく息を吐き、自分を押さえるように息を吸うと、由香の目を見つめて頷く。

姉が憤りをあらわにしなかったことに、由香は内心ほっとしながら頷き返し、話を続けた。

「浮気していない。それが真実なら、離婚なんてことにならなかったよね?」

「浮気……していなきゃ……ね」

「うん。そうだよね」

「でも……見たのよ」

突然、早紀は苦しげに囁くような声で言い、由香は驚いた。

「見たって、何を?」

「写真……よ」

「どんな?」

「ふっ……聞くの?」

姉はひどく嫌味な口調で言ったが、ひどく苦しんでいるのが伝わってくる。

「聞く」

由香は姉の目を真っ直ぐに見返して言った。

姉の表情が変わる。

離婚の話になっていた当時、姉はひどく荒んでいた。

両親や由香が離婚の原因を聞こうとする雰囲気だけで、ひどいヒステリーを起こし、まったく聞くことが出来なかった。

「お姉ちゃん。いまだけでも、無理やりにでも、靖章さんは自分を裏切ってなんかいないって信じてみて」

「無理を言うのね」

「うん。無理を言う」

「あんた……」

早紀は笑いかけたが、笑みは浮かべる前に消えてしまった。

「信じたいわ……靖章は浮気なんてしてない」

「うん。してない。してないんだよ」

「……携帯に……送られてきたの……写真……」

「誰から?」

「……靖章」

「はい?」

「靖章の携帯から……浮気相手の女が送ってきたのよ!」

「その写真、あるの?」

「ない。……頭がカッとして……その場で投げつけて壊れたわ」

「あらら」

「あららって、あんたねぇ。なによ、そのあららって」

渋い顔で文句を言われ、由香は顔をしかめた。

「だって。せっかくの犯人からの証拠写真だったのに……」

「犯人?」

「うん。靖章さんとお姉ちゃんを嵌めた犯人の。お姉ちゃんが浮気相手だって思い込んだ女は誰か、わってるの?」

どうしたというのか、それまでカッカと血がのぼっていたようだった姉が、急に静かになり、じーっと由香を見つめてくる。

「お姉ちゃん?」

「信じることにするわ」

「えっ?」

「靖章よ。信じて話をすることにする。カーッとしなくてすみそうだから」

ものすごい歩み寄りの姉の言葉に、由香は胸がジンとした。

正直、感動というくらい胸が熱く膨らんできていたが、由香は表に出さないように我慢した。


「それじゃ、結局、犯人が誰だかわからないままなの?」

「靖章と同じ会社の……社員なんだろうと思うわ」

「うーん。確定じゃないから、決めつけないほうがいいかも。ねぇ、お姉ちゃん、提案があるんだけど」

「なに?」

「靖章さんも一緒に、考えてみるってのは……どう? 早く犯人が割り出せると思うんだけど」

「無茶言うわね」

「無茶……かな?」

「あーっ、もおっ」

姉は急に大声を上げ、ベッドをドンと叩いた。由香は慌てた。

「お、お姉ちゃん。真央が起きるわよ」

「あ、ごめ……」

ハッと我に返り、さっと娘に目を向けた早紀は、真央が起きていないことを確かめ、次に由香を責めるように睨みつけてきた。

「はいはい、わたしが悪うございました」

由香は心にもない謝罪をした。途端、姉に頭を小突かれる。けっこう痛かった。

「痛いよ。加減してよ」

「わたしの心境をわかんなさいよ。わたしはさんざん靖章を責めてきたのよ。もし彼が浮気してなかったってのがほんとなら、わたしは彼に顔を合せられ……ちょっとお、由香。あんたねぇ、まだ彼が、完全にシロと決まったわけじゃないのよ!」

「だから、声が大きいってば」

「憤ることを言うからよ。とにかく靖章は駄目。あんたと違って、感情が抑えられそうもないし」

「お姉ちゃん、ほんと好きなんだよねぇ、靖章さんのこと」

ゴツンと、頭のてっぺんを拳で殴られた。

それでも、いまの由香は痛みを感じなかった。いくらジンジンしても、痛くなかった。

「なんで、文句言わないのよ?」

「嬉しいから」

「はあっ。あんた、叩いた瞬間、頭のねじがはじけ飛んだんじゃないの?」

「そうかも」

由香は、あははと笑いながら言い返した。

姉とこんな風に、思いを露わにして語れている現実が嬉しくてならない。泣きたいほど嬉しくてならない。

「あのひと……佳樹さん。知恵を貸してくれそうじゃない」

姉の言葉に、由香は驚いた。

「えっ? 佳樹さん?」

「うん。信用できるひとだって思う。人柄もいいし……あんなこと言っちゃったけど……由香、あんたいいひとを見つけたよね。あのひとなら、誰かにむざむざ落とし入れられたりしなさそう。それにくらべて靖章は駄目ね」

「お姉ちゃん、それ、ちょっと違うと思うけど……」

姉は強く首を振り、「いーえっ!」と叫ぶ。

「違わない。浮気してないなら、わたしにわからせるくらいの強さを見せろってのよ。やっぱり、どう考えても靖章が悪いわ。あいつがしっかりしてないから、こんなことになったのよ。由香、あんたも、そう思うでしょ?」

同意を求めてくる姉の目を、由香はさっと避けた。

「なんで余所を向くのよ?」

「靖章さんも大変だなと思って」

「まあっ、なんであいつの肩を持つのよ」

「お姉ちゃんの大事な旦那様で、真央のお父さんだもん」

頬を膨らませていた姉が、急にくしゃりと顔を歪めた。

「お、お姉ちゃん?」

「ごめん……頭の中ぐちゃぐちゃになったわ……ううっ、ごめん……うーっ、ごめん、ごめん……」

声を殺して泣き続ける姉を、由香もまた顔を歪めて抱き締めた。

いまは、心が癒えるまで泣いてほしかった。





   

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