笑顔に誘われて…
第29話 気持ちの切り替え



母親の作った味噌汁を口に含み、自分にとって特別な味に、シンプルな喜びを噛み締めていた由香は、斜め右側に座り、娘の真央の世話を焼いている姉と視線をかち合わせてしまい、慌てて視線を逸らした。

やだ、別に視線を逸らす必要はないのに、思わず……

だって照れくさいのだ。昨夜のことが頭にあって……

どうも姉のほうも、由香と同じ気持ちのようで、微妙に気まずそうだ。

泣いちゃったからなぁ。

本音で語り、本音で泣いて……ああいうのって、あとになると、相手が他人よりも照れくさいものだ。

だが、もちろん本音で語り合えて嬉しいと思っている。

姉は、これまで向き合うことを拒否していた事柄と、前向きに向き合うと決意してくれた。

それが姉に取ってどれだけ大変なことか、精神に負担か、由香にも思い至れる。

姉がその気になってくれたいま、どんどんことを進めたほうがいい。

日を置いては、せっかくの決意が弱まるかもしれない。

朝食を食べたら、すぐに吉倉に電話して、これからのことを相談しよう。

姉と腹を割って話し、さらに前向きになってくれたことも報告したい。

きっと、吉倉は自分のことのように喜んでくれる。

吉倉の笑顔を思い描き、わくわくしながらたくあんに箸を伸ばそうとしていた由香は、急に手を止めた。

そ、そうだ……吉倉さんに、わたしの年齢がバレちゃって……

バレたという言葉を使ってしまったことに、由香は顔をしかめた。

バレたなんて……

まるで、わざと内緒にしてたみたいじゃない。そんなつもり、ぜんぜんなかったし……

言い訳がましく考えたものの、ふたりの年齢が明らかにならないように、無意識に避けていた気がするせいで、嫌な気分になってしまう。

それにしても、ほんと、まさかだわ。あんなにしっかりして見えるのに……吉倉さん……わたしより三つも年下だったなんて……

それで頼りなく感じるわけじゃない。ただ、自分が三つも年上だという事実が心にかかって……

ああ……心が重い……

「由香」

母の呼びかけに、由香は我に返り、ぱっと顔を上げた。

「な、何?」

「たくあん、取らないの?」

「え?」

たくあ……?

あ、ああ……

たくあんに箸を伸ばしたままだった。そのまま、考え込んでしまい、身を固めてしまっていたらしい。

そりゃあ、家族の目には不審に映るだろう。

由香は、気まずく顔を赤らめて、ちらりと姉と父を窺った。

父は由香と目を合わせると、軽く眉を上げて視線を逸らしてしまった。だが、姉のほうは、由香の様子をかなり気にしているようだ。

もしかすると、自分に関することを考えて、妹はぼおっとしているのではと考えたのかもしれない。

しかし実際は、自分のことを考えていたわけで……

なんか……き、気まずい。

由香はたくあんを箸で摘み、急いで口に放り込んだ。

いつも母が買ってくるたくあんは、安心させてくれる味だったが、胸にわだかまるものまでは消してくれなかった。





「あの、それじゃ、わたし、これで帰るね」

九時になり、由香はみんなに声をかけた。

「あら、なによ、あんた帰るの? どうせなら、お昼食べてけばいいじゃない」

由香がこんな時間に帰るとは思っていなかったようで、母が止めてきた。

姉が昨日退院してきたばかりなためか、両親とも由香にいてほしいようだ。

「ちょっと用事があるの。またすぐ、顔を出すから」

「今夜も夕食を食べにきなさいよ。もう仕事も休みなんだし……ああ、由香、あんた正月もここで過ごすでしょ?」

「うん。そのつもり。それじゃ、今日の夕食もお願いするかな」

母との会話を終え、由香は玄関に向かった。

姉が何気ない感じでついてくる。

「吉倉さんと会う?」

靴を履いたところを見計らったように、姉が聞いていた。

「う、うん。これからすぐ電話してみる」

「そう」

「それじゃ、また夕方にね」

手を振って背を向けたが、姉に肩を掴まれた。

「うん?」

「う、うん……」

煮え切らないような返事をした早紀は、無言でつっかけを履き、玄関ドアを出る。

由香も姉の後を追い、家の外に出た。

「お姉ちゃん?」

呼びかけると、険しい顔を向けられ、由香はどきりとした。

どうしたのだろう?

ま、まさか、もう気持ちを変えてしまったなんてこと……

「会ったんでしょう?」

ドギマギしていると、そんな問いを向けてくる。

「えっ? あの、会ったって?」

「靖章さんよ。あんた、あのひとと会って、話をしたのね?」

「あ、ああ……」

早紀と目を合わせ、常軌を逸して嫉妬深かった昔の姉を思い出す。正直、胆が冷えた。

だが、これは当然の問い。

由香は、早紀に、靖章は浮気していないと言った。
そう口にする靖章を見て、嘘をついていないと感じたと言ったのだ。

それは、靖章と会ったと言っているようなもの。

靖章と由香が会ったという事実に、姉は気分を害しているのだろうか?

ふたりきりで会ったわけじゃなく、吉倉と真央も一緒で、さらに四人して遊園地で遊び回ったのだが……

そんな事実は、姉を憤らせるだけだろうか?

「そんな顔しないでよ。怒ってないわ。それに、どうせあのひとも一緒だったんでしょう?」

姉の口にするあのひとは、吉倉を指しているのだと、由香は遅れて気づいた。

「う、うん」

「でしょうね。吉倉さん、絶対に、頭を突っ込んでると思ったわ」

姉は気が腐ったように言った挙句、おかしそうにくすくす笑い出した。

その笑い声に由香はほっとした。

「年下とは思えないわねぇ」

しみじみと呟いた早紀は、由香に向けて愉快そうな笑みを浮べる。

「あんただけじゃなく、わたしや靖章よりもね」

「うん。わたしも……そう感じる」

「あら、彼が年下なの、気にしてるんだ?」

俯いてぼそぼそと言った由香に、姉が言う。

由香は、顔を上げて早紀の目を見つめる。

「……気にしてるよ」

もちろん、実際は、付き合ってなどいないのだが……

虚しさが湧き上がってきた。

わたし……自分で気づかないところで……吉倉との未来を、おかしなくらいリアルに意識してる。

馬鹿だ……

「由香?」

「う、うん。そ、それじゃ、佳樹さんに連絡取って、三人で話せる場を早めに持てるようにするね。真央はお母さんたちに預けて、ふたりで買い物に行きたいって言えば、お母さんたちも……」

「由香」

心の痛みを無視してペラペラと口にしていた由香は、姉から呼びかけられて、口を閉じた。

「信じなさい」

ひどく真面目な顔をして、早紀が言った。

「えっ?」

由香は目を見開いて叫んだ。

早紀が表情をゆるめて、悪戯っぽく笑う。

「吉倉さんを信じるって、あんたが言ったんじゃないのよ。吉倉さんが『愛を信じてほしい』って、わたしに言ったあと、家族の前だってのに、彼に向かって『信じます』って真顔で答えたのはどこのどいつよ。まったく、あんときは、顔が引きつってどうにかなりそうだったわ」

そ、そのとおりだ。確かに、自分はそう口にした。しかも、家族の前で……

こうして姉から指摘されると、巨大な恥を感じ、顔が熱を帯び充血してくる。

「いまさら、顔を赤くして、なにやってんだか。もう遅いっての」

頭をポンと叩かれた由香は、さっと背を向け、エレベーターに向かって一目散に駆け出した。

「由香、今日でなくてもいいからね」

姉の声が飛んできて、エレベーターに飛び込んだところだった由香は、渋々顔だけ出した。

「都合がついたら、今日になるんだからね」

後ろ向きなことを言う姉に言い返し、由香は顔を引っ込めた。

「もおっ、今日でなくても……」

エレベーターの扉が閉まり、姉の声は途中で途切れた。

当たり前だろうけど、姉にはまだまだためらいがある。

ここはやはり、ためらいに先んじるためにも、早く行動したほうがよさそうだった。


自分の車に乗り込んだ由香は、携帯を取り出したものの、なかなか吉倉にかけられなかった。

姉のために早くと気が急いているくせに……わたしときたら、ほんと土壇場で意気地がない。

だって……吉倉とこれ以上関わることは、自分のために危険な気がするのだ。

彼への好意が、いまよりもっともっと強くなってしまったら……

だが、彼は年下なのだ。

吉倉ならば、いくらでも若くてきれいな子を恋人に望める。自分なんて、駄目に決まっている。

妹の同僚だということで、たまたまふたりは顔を合せ、なんだかよくわからないまま、流れで一緒に過ごし、さらに色々と世話になってしまった。

考えたら……わたしがお世話になってばかりなのよね。

由香のほうは、なんの役にも立っていない。

もともと吉倉は、妹のことを相談したくて、自分に会いに来たというのに……

いいひとなのよね。困っているひとを見捨てられない、やさしいひと……そして頼りがいがある。

胸が切なく疼き、由香はもどかしく息を吐き出した。

それでも……相談に乗ってもらっていいのよね?

彼のほうから、申し出てくれたのだ。関わるのが嫌なら、昨日の招きにだって、応じたりしないはずだもの。

閉じた携帯を指先で撫でながら、由香はひどく虚しい気分でため息をついた。

吉倉とどうにかなりたいなんて、おこがましい気持ちを抱いているものだから、電話がかけづらくなるのだ。

よーし!

由香はぎゅっと目を閉じ、気持ちを切り替えた。

うん、もう考えない。彼を恋愛対象としてみたりしない。絶対に。

気持ちを固めた由香は、吉倉に電話をかけるべく、携帯を開いたのだった。





   

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