笑顔に誘われて…
第34話 食えない相手に憤り



「それで、ビッグニュースって?」

叱る妹と、ぎょっとしている由香を見事にスルーし、吉倉はふたりに聞いてくる。

「もおっ、お兄ちゃんてば、冗談がすぎるよ」

綾美は、ぷんぷんした顔で文句を言い募りながら、テーブルに置かれたお寿司のひとつを両手で取り上げた。

「あっ、これがサビ抜きだ。わたしのだね。それじゃ、高知さんは、これ」

そう言って、二段目の寿司桶を由香の前に置いてくれる。

どうやら、兄の言動は、行き過ぎた冗談だと取ったらしい。

ちらりと吉倉を見ると、由香を見つめて、くすっと笑う。

由香もまた、小さく笑い返した。

ひどくぎょっとさせられたけど、秘密を共有している者同士だからこそのやりとりが、胸にくすぐったい。

考えれば、綾美の反応は当たり前なのだ。
綾美は、ここ数日の、由香と吉倉のことを知らないのだから……

それがわかっていて、吉倉は冗談として口にしたのだろう。

綾美の反応を楽しみ、由香の反応も面白がったに違いない。

まったく、佳樹さんとき……

胸の内とはいえ、名前で呼んでしまい、由香は焦った。

いけない、いけない……

「高知さん?」

ふと気づくと、綾美が由香の顔を覗き込んできている。

「な、なに?」

「顔をしかめて考え込んでるから……それにほっぺたが少し赤いですよ。この部屋、暑いですか?」

「い、いえ……暑くは……いえ、ちょ、ちょっとだけ暑い……かしら。部屋が暖かいから」

暑くないと言ってしまったら、頬が赤くなった理由が別にあることになってしまうと慌てて言い直したが、由香を見ている吉倉の目に笑いがあるようで、どうにも落ち着かない。

脳内の名前呼びなんて、彼に聞こえているわけがないのだから、きまり悪く思うことはないのに……

「おおっ。ねぇ、お兄ちゃん、これってお兄ちゃんの驕りだよね?」

「うん?」

由香に向けられていた吉倉の視線が、綾美に問いかけられて、そちらへと移動する。

彼の視線が自分から逸れ、由香はほっとした。

「ああ、感謝して食えよ」

「すっごい太っ腹じゃない。これって、特上だよね? おいしそーっ」

「怪我人への見舞いだ。美味い物食えば、それだけ早く治るだろうと思ってな」

「うん、お兄ちゃん、ありがと」

嬉しそうに頷いた綾美だったが、次の瞬間しょんぼりと肩を落とす。

「あーあ、せっかくのお休みなのに……。大晦日もやってくるし、遊び倒そうと思ったのに……お正月までに、この痛み、取れるかな?」

「かなり腫れちゃってるの? やっぱり病院で治療してもらったら? そのほうが早く治ると思うし」

「うーん、どうかな。そんなにひどくは腫れてないと思うんですけど」

湿布が張り付けてあるため、どの程度腫れているかわからない。

「病院に行きたくないんですよ。こいつ、注射が大嫌いでね」

「そ、そんなんじゃ。行かなくてもいいかなぁって、思ってるだけだもん」

綾美はムキになって兄につっかかる。
見ていてあまりに微笑ましく、由香はくすくす笑った。

「どうしてくれるの、お兄ちゃん。高知さんに笑われちゃったじゃない」

「俺のせいか?」

「せいだよ! まったくもおっ」

ほんと、微笑ましいやりとりだ。

「いいですね。兄と妹って」

「えーっ!」

綾美は不服そうに叫ぶ。

「なんだ、その叫びは? 俺に不満だって言ってるように聞こえるぞ」

「当たり前じゃん。だんぜん、お兄ちゃんより、お姉さんがよかったよ。デリカシーないんだもん」

綾美ときたら、遠慮なく兄を否定し、むっとした顔の吉倉など気にも留めず由香に向いてにこっと笑う。

「わたし、高知さんならよかったなぁ」

「えっ、わたし?」

「こんなに清楚で綺麗な姉がいたら、友達に自慢できたのに」

「ほおっ、清楚で綺麗な兄が望みか? なら、これから……」

「そんなの望んじゃいません!」

綾美はからかわれたと腹を立てて怒鳴り返す。

由香の頭の中には、清楚で綺麗な吉倉が浮かんでしまい、ぐっと笑いを堪えたものの、止めようなく吹き出してしまう。

綾美と吉倉が、由香に振り返ってきた。

「いやだ、お兄ちゃんのせいだよ。笑われちゃったじゃん。もおっ、お兄ちゃんのせいで最悪」

勘違いの発言に、由香は慌てた。

「ああ、違うわ綾美ちゃん。そういうんじゃないの。わたしが吹き出したのは……」

取り成そうとして口にしたが、清楚で綺麗な吉倉を想像したとは言えず、口をつぐむ。

ああん、もおっ。わたしってば……おかしな想像ばかりしちゃって。

どうやら、吉倉家にお邪魔し、このふたりとともにいて、テンションが上がってしまっているらしい。と、冷静じゃない頭で、冷静な判断を導き出してみる。

「高知さ〜ん?」

目の前で手のひらをひらひらと振られ、由香ははっと我に返った。

「は、はい?」

「百面相のわけを聞かせてもらえるかな?」

綾美の反対側から、真顔の突込みが入り、由香はぐっと詰まった。

「お兄ちゃん!」

綾美から大声で怒鳴りつけられ、吉倉は口をへの字に曲げる。

「なぜ怒鳴る?」

「なぜ? そんな問いを口にするお兄ちゃんにこそ、なぜと聞きたいわ」

「わからないな?」

首を傾げて、そんなことをひとりごちるように呟いた吉倉は、由香に視線を向けてきた。

嫌な予感に顔をひくつかせていると、「わかるかい?」と由香に聞く。

こ、このひとってば……

まるで爆弾魔みたいだ。

なんの気もなく、ぽんぽんと口から爆弾を吐き出す。

「わかるわけ……」

由香の代わりに兄に噛みつく綾美を、由香は手のひらをかざして制した。

彼女がそんなことをするとは思っていなかったらしい綾美は、驚いたように由香を見る。

由香は綾美に笑いかけてから、吉倉と目を合わせて口を開いた。

「わかります」

彼女の発言を聞き、綾美が「えっ?」と、面食らった声を上げる。

そんな由香に対して、吉倉は最初驚きを見せたが、面白そうに口元をゆるめた。

「説明してほしいな」

「わたしの百面相を、佳樹さんが指摘したからです」

佳樹さんのところを、心持ち強調するように言う。

当然、綾美は目を丸くする。

吉倉のほうは、驚いたのかも知れないが「ああ、そうか」と納得した声を出した。

彼はさすがだと、内心思う。

「ええ。そうです」

すまして答えると、ようやく我に返ったらしい綾美が、どっと疲れたというように、肩を落とした。

そして、すぐに顔を上げ、由香を軽く睨んできた。

「もおっ、高知さんまで、びっくりさせてぇ」

そう言いながら、綾美は両手を振り上げて由香のことをパンパン叩いてくる。

頬を膨らませている綾美が愉快で、由香は声を上げて笑った。





「綾美ちゃん、今日はありがとう。それじゃね」

居間のソファに座ったままの綾美に挨拶し、由香は軽く手を上げた。

「はい。高知さん、今日は楽しかったです。見送りできなくてごめんなさい」

「そんなことを気にしないで。無理をしないほうが早く治るわ」

「ですね。少しでも早く治したいし、数日なんとかおとなしくしてようと思います」

唇を突き出してしょんぼりと言う。

思うように動けないのでは辛いだろうが、痛みは三日くらいで引いてくれるかもしれない。

「あっ、約束、忘れないでくださいね」

「わかってるわ」

お正月、綾美と初詣に行く約束をした。
吉倉家からそう遠くないところに、大きな神社があって、出店がたくさん立つのだという。

友達と行かなくていいのかと聞いたら、仲のいい親友は結婚したばかりで、お正月は彼の実家やら自分の実家やら、忙しいとのこと。ほかの友達も、みんな恋人との予定があり、お正月はつきあってくれないらしい。

正直、どこかで聞いたような話で、身につまされる。

由香の親しかった友人たちは、いま子育て奮闘中の子ばかりだ。

独身の子もいるが、そういう子は、キャリアウーマンで仕事漬け。
自分もある意味、キャリアウーマンの仲間に入るのかもしれないが……

わたしの場合は、お針子だものね。
工房で針をチクチク動かしている、まったく地味な仕事だ。
それが楽しいのだけど。

「それじゃ、ゆきましょうか?」

吉倉に促され、由香は頷いて玄関へと足を向けた。

「お兄ちゃん。もう高知さんに、失礼のないようにしてよ」

背後から小言のように綾美が言い。言われた吉倉が肩を竦める。

「まるで俺が、失礼なことをさんざんしたような口ぶりだな」

「自覚ないわけ?」

「ないな」

すっとぼけたように言い、吉倉は居間からさっさと出た。

「もおっ」

綾美はため息をつきつつ、苦笑している由香を見る。

「高知さん、ほんとにすみません。あんな兄で」

頭を下げられて困ってしまう。
どう返せばいいのかわからず、由香は笑顔だけ向けて、居間から出た。

居間のドアを閉じて振り返りざま玄関に向かおうとした由香は、そこに立っていた吉倉とぶつかりそうになって驚いた。

「ご、ごめんなさい」

頭を下げて謝ったが、吉倉はいたずらっ子のような表情で由香に顔を近づけてきた。ドギマギしていると、「ようやくふたりきりになれたね」と囁くように言う。

意味深な言葉に、心臓が早鐘を打ち始める。

「面白かったな。何も知らない綾美の発言」

心臓の暴走をなだめながら、由香はにやついている吉倉を睨んだ。

「からかいすぎです。心臓に悪いですよ」

「怒った?」

吉倉ときたら不安そうな表情で問いかけてくる。

このひとってば……

こんな顔を向けられたら、とても怒り続けられない。

「お、怒ってはいませんけど……」

「なら、楽しかったと言ってくれるかい? 秘密をわかちあう、仲間として」

やさしい瞳で期待を向けられ、抗う発言などできなくなる。

まったくもおっ、吉倉さんときたら……

「ええ」

笑いが込み上げ、笑い零れながら返事をすると、吉倉は由香の背に手を当て、歩くように促してきた。

並んで歩き出すと、添えられていた手のひらは自然と離れてしまい、少々物足りない気持ちになる。


「もう帰らなければいけないのかな?」

玄関を出たところで、誘いをほのめかすような問いかけをもらい、思わず鼓動が速まる。

「だが、こんな時間だし……先ほどお話しした喫茶店に寄るのは、また日を改めたほうがよさそうですね」

な、なんだ喫茶店……
わたしったら、違う意味に取ってしまって……

「そうですね」

車を停めている駐車場に向けて肩を並べて歩き出しながら、由香は同意して頷いた。けど、少々肩透かしを食らった気分だ。

「また明日……は駄目かな? 予定がありますか?」

「いえ、予定とかありません」

由香は強く首を振って答えた。

こちらが相談に乗ってもらう立場なのだ。吉倉の予定にいくらでも合せるつもりだ。

「わたしはぜんぜん大丈夫です。吉倉さんこそ、いいんですか?」

前を向いて歩きながら話していた吉倉が、足を止めて振り返ってきた。

由香を見つめ、真剣な眼差しで口を開く。

「どんな予定があろうと、貴女と会えるのであれば、キャンセルしますよ」

まるで冗談に聞こえなかった。おかげで、彼女の心臓は、危ういほど胸の中ででんぐりがえった。

吉倉の瞳に魅入られたように固まっていた由香は、軽く腕を叩かれて、我に返った。

吉倉の顔から真剣な光は消え、にっこりと笑みを浮べている。

「ところで、ビッグニュースについて聞かせてもらえるかな、由香」

目を閉じた由香は、憤るまま、大きく腕を振り上げて、食えない吉倉の胸を思い切りどついてやった。





   

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