笑顔に誘われて… | |
第37話 強烈な安堵 姉の部屋のドアを軽くノックし、由香は返事をもらって中に入った。 「座って」 姉は、自分の前に置いた大きなクッションを叩きながら言う。 由香は、「うん」と答えたものの、クッションには座らず、寝ている真央の顔を覗き込んだ。 「ほんと、真央はかわいいねぇ」 天使という表現が、まさにぴったりくる。 叔母馬鹿というやつかもしれないが、世界中で一番可愛いと思える。 由香は、真央の口元に耳を寄せた。 くー、くーと可愛らしい寝息に、なんとも母性を掻き立てられる。 抱きしめて眠りについたのか、真央の傍らには由香の作ったねこのぬいぐるみ、まーしゃんが無造作に転がっていた。 姉と真央のこの部屋は、色んなものがごたごたと置かれている。 小さな子どもがいると、ものが片づかなくなるらしい。 片づいた部屋の方気持ちがいいし、由香は好きだが…… この部屋には憧れる。とても…… 「早く欲しくなったんでしょ?」 ぼんやりとこの部屋の心地よさに浸っていたため、姉の言葉は由香の意識に遅れて入ってきた。 「えっ?」 ……欲しいって? 顔を上げ、姉を振り返る。 「何が?」 「もちろん、佳樹さんとの、子、ど、も」 早紀は、にやにやしながら人差し指を振りつつ言う。 「お、お姉ちゃん」 「はいはい。照れないの」 「もおっ」 「……あの、由香」 不服を込めて言ったのに、姉はスルーし、おずおずと呼びかけてきた。 「は、話が……その……あるの」 顔を逸らしたまま、ためらいいっぱいに早紀は口にする。 少し緊張した。姉が何を話すつもりなのか、予想がつかない。 「うん、何?」 言い出し難いことなのか、姉は口を開けてはためらい、閉じてはまた開く。 由香は催促したりせずに、姉が語り出せるまで待つことにした。 「き、今日ね」 「うん」 「その……真央がお昼寝して……ここじゃなくて、この部屋じゃなくて……居間だったのね」 居間であることがとても重要であるかのように、姉は念を押す。 「う、うん」 「忘れてた……ううん、そうじゃない。絶対に思い出さないようにしてた記憶……その……思い出した……の……ううん、これも違うわ。ひょ……表現がね、難しいんだけど……。自分の意志で思い出そうとしたってことじゃなくて……こう自然と」 なぜか縋る様な目を向けられ、由香は咄嗟に、わかるよというように強く頷いてみせた。 由香の頷きに、早紀はほっとした笑みを浮かべ、また話に戻った。 「禁じてたものが……ゆるゆるになってて……いつの間にか解けてたみたいに感じた……。あのね、あの部屋でプロポーズされたの」 唐突すぎる言葉に、由香は目をぱちくりさせた。 「そ、そうなの?」 「う、うん」 早紀ははにかむような笑顔を浮かべて頷く。 由香は胸がきゅんとしてしまい、そんな自分に苦笑した。 お姉ちゃんたら……まるで少女みたいな顔してるし。 「そしたらね……一気に……なんて表現したらいいのかわからないんだけど……押し寄せるみたいに思い出したの」 「靖章さんとのこと?」 「ええ。……どうしてなのかしら?」 不思議そうに言い、指を顎に当てて考え込む。 姉のこの変化は、吉倉の言葉に誘引されてのもののような気がする。 彼が口にした、愛を疑わないでほしいという言葉…… 「わたし……ちゃんと愛されてたのに……靖章の愛はぜんぜん足りてないって。こんなにわたしは彼を愛してるのにって。こんなの不公平だって彼を恨んで、さらには疑って、その疑いがどんどん膨らんでっちゃって……見えなくなってた」 「そっか……」 「でも……そう気づいたら……もう自分、死んじゃえ! って気持ちが込み上げてきちゃって。もう苦しくて。……こんなことになったのは全部わたしのせいなんだわ……靖章を不幸にして、真央を不幸にして……悔しくて悔しくて」 「お姉ちゃん……」 「靖章は途方に暮れた顔で、俺は浮気なんてしていないって何度も何度も何度も何度も言ったのに……わたしは彼の言葉を頭から信じようとしなかった。疑ってかかって……拒絶して……靖章、どんなに辛かったかしら……」 小さな声で語る姉の表情が悲痛に歪む。 それを見つめる由香は複雑な気分に囚われた。 姉には靖章を疑うことをやめて、彼を許し、元のさやに納まって欲しい。その思いしかなかった。 けれど、靖章が浮気などしていないと信じるということは……姉は…… 「わたしが何もかも駄目にしちゃったんだわ。わたし、最低なことをしてたの……靖章に対して疑いを持って、それから疑いを晴らすってことをやってたのよ。……馬鹿みたい。……疑いは消えずに、どんどんふくらんでくばっかりだったわ」 そして最終的に、離婚という結末を迎えてしまった。 「そう気づいたら……もう靖章さんに対する罪悪感で、どうにかなりそうだった。わたしが彼を信じなかったせいで、靖章さんは真央と……真央と、ずっと、ずっと逢えなくて……真央が可愛く成長してゆく様子を……彼は見られなかったのよ。……全部わたしせいで……どうしたらいいんだろう? どうしたらいいの? 靖章にどうやったら償える?」 姉は必死の形相で由香を見つめて言う。 「電話したら」 由香はあっさりと答えた。 「えっ?」 叫んだ早紀は、大きく目を見張る。そのままマジマジと由香を見つめてくる。 「いますぐ電話したらいいと思う」 「ええっ! そ、そんな簡単に言わないでよ」 動揺して言い返す姉に向けて、由香は肩を竦めて見せた。 「簡単じゃない。携帯出して番号を押して、電話かけるだけだもん」 「そ、そういうことじゃないわ……そんな勇気……」 勇気と言う言葉に、カッときた。 「償いたいんでしょう!」 怒りが突き上げ、由香は自分を止められず、姉を怒鳴りつけていた。 怯んだ姉を見て、由香は息を吐き出し、自分を落ち着かせた。 「なのに……勇気がどうとかいうの?」 早紀は痛みを感じたように、顔を歪めた。 由香は姉をじっと見据えて口を開いた。 「お姉ちゃん……自分が悪かったってほんとに思ってるの? お姉ちゃんのせいで、真央の可愛い成長を見られなかった靖章さんに対して……」 「そんな風に言わないで! 悪かったって本気で思ってるわ。け、けど……」 「電話しづらいからって、電話するのを渋るのって、お姉ちゃん身勝手すぎだと思う」 「そ、そんな……だって」 由香の言葉は強烈に効いているようだが、姉は踏ん切りがつかないようだ。 そんな姉に、由香は強烈な苛立ちを感じた。苦しんでいる靖章の表情、そして真央の寝顔を眺めていた靖章の辛そうな切なそうな哀しそうな顔が浮かび上がり、怒りすら込み上げる。 「本気で償いたいと思ってるんだったら、行動で見せて! お姉ちゃんがいまどんな気持ちでいようが関係ない。いますぐ電話するべきよ。靖章さんは、今が今、ひとりぼっちで辛い思いをしてる。一秒でも惜しまずに、彼を救ってあげるべきじゃないの?」 見開いた目を床に向けている早紀の両手は、小刻みに震えている。由香はその手を両手で包み込んだ。 「勇気をあげる。だからお姉ちゃん、いますぐ靖章さんを楽にしてあげて、お願い!」 早紀は目をぎゅっと瞑り、噛み切りそうなほど強く唇を噛みしめる。 そんな姉の様子を見守っている間、由香はドキドキしてならなかった。 目を開けた姉は、ゆっくりと周りを見回した。そして、自分のバッグを引き寄せると、中から携帯を取り出した。 だが、携帯を手にして、くしゃりと顔を歪める。 もおっ……お姉ちゃんってば、まだ…… イライラして姉を見ていた由香は、顔を上げてきた姉の表情に顔を曇らせた。 「由香……」 涙を零している姉は、踏ん切りがついていないというようなことではなく、絶望しているように見える。 「お姉……?」 「携帯……使えない……死んでる」 「はあっ?」 この姉ときたら、そんなことで絶望していたのか? ならば、充電すればいいことじゃないか。 そう思ったのだが、姉の携帯は充電では復活しないということが、泣きながらの姉の独白で判明した。 バッテリーそのものが使い物にならなくなっていたのだ。ずっと放置していたらしい。 考えたら、由香もこの最近、姉の携帯に電話した記憶がない。実家の固定電話で用が足りていたし、姉が心を病んでいたせいで、姉妹の関係もぎこちなく、携帯で話す機会も持たなかった。 「どうしよう。もう連絡取れないわ」 まるでこの世の終わりのように泣き出した姉に、由香は呆れた。 連絡なんて、携帯がなくたって、取ろうと思えば取れるというのに……冷静に物事を考えられないでいるらしい。 両手で顔を覆って泣いている姉を見捨て、由香は自分の携帯を取り出した。 ポポポっとボタンを押して操作し、泣き崩れている姉の耳にぐいっと押しつけてやる。 「えっ? な、なに? へっ……?」 呼び出し音を聞いたのだろう、姉は涙に濡れた目で、まじまじと由香を見つめてくる。 由香は黙って姉の目を見つめ返した。 「な、な、なに、これ……だ、誰に?」 まさか、靖章じゃないわよね? という、姉の心の声がだだ漏れの視線を向けられたが、由香はそっけなく顔を逸らした。 「さあね」 「はい」 携帯から男性の声が微かに聞こえた。もちろん、靖章の声だ。 「あ、あ、あ……ややややや……」 早紀ときたら、テンパりすぎて、後ろ向きにそっくり返りそうになっている。 お姉ちゃんってば、笑える。 どうせなら、いっそのこと本当にひっくり返っちゃえばいいのに。 そいで頭でも打てば、その痛みで冷静に戻れるかもしれないのに…… 「ぷはっ!」 脳内の愉快な想像に吹き出した由香は、さっさと立ち上がった。 「えっ? ゆ、由香」 驚いて声を上げた姉に構わず、ドアに向う。 「ど、ど、どこいくのっ?」 「しーらない」 「さ、早紀!?」 靖章の大きな声が聞こえた。 どうやら靖章も仰天しているようだ。 動揺して意味のない動作をしきりに繰り返している姉を置き去りに、部屋から出る。 テンパった同士の会話は、さぞかし面白いだろう。 それを眺めたい誘惑にも駆られるけれど…… この場に……とてもいられない。 顔を強張らせ、由香は居間にまっすぐ歩いていった。 ドアを開けて中に入る。 「あ、あらっ、早かったのね?」 入ってきた由香に気づき、父と一緒にテレビを見ていたらしい母が振り返って言う。 父もまた振り返ってきて、由香は両親を見つめ返した。 「由香……どうしたの?」 「何かあったのか?」 彼女の様子を見て、ふたりはひどく不安そうに聞いてくる。 由香は無言で首を横に振り、訝しげな表情で自分を見守るふたりのほうに歩いていった。 空いているソファにゆっくりと腰かける。 その途端、熱いものがぐっと胸に突き上げてきた。 強烈な安堵と喜びに、胸が破裂しそうだ。 「ふっ……」 一瞬笑った由香の顔は、次の瞬間大きく歪んだ。 「ちょ、ちょっと、どうしたのよ?」 「うっ、うっ……ううっ……」 由香の目から、ボロボロと大量の涙が零れ落ちた。 |