笑顔に誘われて…
第39話 現実逃避中



現状がさっぱり理解できない三人は、互いに顔を見合わせた。

「靖章さんと……」

「出てってってば!」

クッションが凄い勢いで飛んできた。由香の脇を掠め、壁に当たった。

三人はまた顔を見合わせ、どうする? と、目で相談し合う。

父が固く頷き、早紀のほうにすっと歩み寄る。

「真央、おいで」

父は真央に手を伸ばして、早紀の腕から引き離そうとした。

「いやっ!」

叫んだ姉は、そうさせまいと、真央を抱きしめた腕に力を込める。そのせいで真央はさらに恐怖を煽られたようだ。

「真央を連れてかないで!」

「早紀!」

父が辺りに響く大声で怒鳴りつけた。

普段温厚な父の怒号に、姉が「ひっ」と身を竦める。その隙に、父は真央を取上げた。

「い、いやっ」

「落ち着け。何があったか知らんが、娘をこんな風に怖がらせる権利はお前にはないぞ。自分の気持ちを真央に押し付けるなっ!」

早紀は、仁王立ちになって叱りつけてくる父を恐れるように見上げている。

父はこちらに振り返ってきて、真央を母に手渡した。

「真央ちゃん、大丈夫よ。ほらほら、泣かないのよ」

やさしくなだめながら、母は息ができないほど泣きじゃくっている真央を部屋の外に連れ出す。

真央がいなくなり、ドアがパタンと閉じた。

数秒、シーンと静まり返っていたが、「わっ」と早紀が泣き出した。

膝を抱え、身も世もなく泣いている姉をどうしていいかわからなかったが、背中を父に押され由香は前にでた。

父は、こいつのことはお前に頼むと言うように、由香の肩を叩く。

頷いた由香は、姉の様子を窺いながら側に座り込んだ。

父が出て行ったらしく、背後でドアの開閉する音がする。

「……ご、ごめん」

啜り泣きながら、不意に姉が口にした。

「お姉ちゃん……」

「ごめん。あ、あんたの携帯……」

「えっ?」

「ごめん。……知らない間に投げちゃった」

な、投げた?

姉は顔を膝にくっつけたまま、腕を前に伸ばす。その先に目を向けると、確かに、彼女の携帯が転がっている。

由香は携帯を取り上げた。

「こ、壊れてたら、ごめん」

声を絞り出す様に姉が言う。

確認してみたら、別に壊れてはいないようだった。

「壊れてないよ」

「そ、そう……よかった。けど、傷がついちゃったかも……」

「傷くらいいいよ。それより……何があったの? 聞かせてくれる?」

静かに問うと、早紀ははーっと息を吐き出した。

先ほどはパニックにかられていたようだが、少しは落ち着けたようだ。

「もうっ、馬鹿みたい……」

そう呟いた早紀は、またしくしく泣き出す。

「お姉ちゃん?」

「離婚して……半年もすぎたのよね。……け、けど……あの馬鹿っ! 最低っ!」

馬鹿? 最低? そ、それって……靖章さんのことを言ってるんだよね?

「靖章さん……何を言ったの?」

また姉の感情を高ぶらせるかと不安だったが、事がわからないことには始まらないと、勇気を出して聞いてみる。

「言いたくない」

「ええっ」

「ううっ……最低! まだ半年なのにっ。ありえないわ。わたしなんて、ず、ずーっと引きずってたのに……」

「あの、なんのことやらわからないんだけど……」

「なんのことやら?」

ぎろりと睨まれ、怒鳴り声を食らう。

「な、なんのことやら、で、です」

睨みが恐くて、引き気味に言うと、姉が手を伸ばし、クッションを握り締めた。

く、くるっ!

クッションが飛んでくるものと身構えたが、姉はクッションを抱きしめて顔を埋めてしまった。

な、なんだ。

ほっと胸を撫で下ろす。

それにしても、これはいったいどういうことなのだ?

姉は靖章と仲直りしたはずで……

これって、もちろん、お姉ちゃんと靖章さんの間で、何かトラブルがあったってことだよね?

そう考えた時、思い出した。

由香が姉の部屋に来たのは、吉倉から電話があったからだ。

吉倉さん、お姉ちゃんの様子を見に行けって……?

あれって、この事態を、彼は知ってたってこと? ……だよね?

な、なんで?

目をパチパチさせた由香は、眉をひそめて姉を見つめ、それからおもむろに口を開いた。

「お姉ちゃん。佳樹さんから、お姉ちゃんの様子を見にいくようにって、電話もらったんだけど?」

クッションから姉が顔を上げた。

目も顔も赤く腫らし、不審な目を向けてくる。

「わたしもよくわかんないんだけど……なんでか、家の電話に……ここの電話番号、あのひと知ってるはずないんだけど……あっ」

口にしている間に、ハッと気づいた。

靖章は吉倉の携帯番号を知っているはず。

もしや靖章さん、吉倉さんにヘルプの電話をした?

由香は、携帯を開き、焦って吉倉に電話をかけた。待つことなく、電話に出てくれる。

「あ、あの」

「早紀さんは?」

「泣いてて……」

「ちょっと、由香。吉倉さんにそんなこと言わないでっ!」

「だ、だって事実だし。……だ、だめっ」

手を伸ばしてきた早紀から携帯を奪われそうになり、由香は慌てて逃げた。

「もしかして、靖章さんから電話が?」

由香は吉倉に早口で聞いた。

「ええ。早紀さんに誤解されたらしい」

「誤解?」

「遊園地ですよ」

「ゆ、遊園地?」

「もおっ、止めてよっ!」

「お姉ちゃん、うるさいっ!!」

「なっ……」

本気で怒鳴りつけたら、姉は怯んだように身を引いた。

「じっとしてて! 話が終わるまで黙ってて!」

睨み据え、姉がおとなしくなったのを確認した由香は、憤りから乱れた息を整えて携帯を耳に当てる。

「すみません。佳樹さん、それで?」

くっくっくっと吉倉の笑い声が聞こえ、由香は眉を寄せた。

「佳樹さん?」

「ごめん。いや、迫力あったなと。君を怒らせないようにしないとと、肝に銘じたよ」

「もおっ、佳樹さん」

「うん。つまり、簡潔に言うと、彼は早紀さんから電話をもらい、ふたりは仲直りできた」

「はい、そうなんです。なのに……」

「靖章さんは、クリスマスの日、真央さんや私たちと遊園地に行ったことを、早紀さんに話そうとしたらしい」

「あっ、ああ……」

「だが、早紀さんはなにやら早合点して、携帯を切った。と、そういうことらしいんだ」

「早合点?」

「クリスマスの日、寂しい思いをさせてごめんなさいと言われたから、迷った末に、実は寂しくはなかったんだと前置きをして事実を話そうとしたら、通話を切られ、慌ててかけ直したがかからなかった。……この説明で、君もどんなことが起こったか、だいたい把握できるんじゃないか?」

「はい……だいたいわかりました。佳樹さん、靖章さんからうちの電話番号も聞いたんですね?」

「ああ。びっくりさせてすまない。靖章さんが、自分は君の実家に電話をかけられないというんでね」

それはそうかもしれない。

靖章と両親の仲は、ひどくぎくしゃくしていたから……まず、吉倉に助けを求めたのだろう。

「そうだったんですね。佳樹さん、靖章さんを安心させてもらえますか?」

「了解」

そう答え、あっさり通話を切ってしまいそうで、由香は「あ、あのっ」と焦って呼びかけた。

「うん?」

「あ、あの……明日は……」

口にしながら、彼に会いたくてならない気持ちがあからさまな気がして、顔が赤らんでゆく。

「ああ、何時に迎えに行けばいいかな?」

その返事に、由香は泣きそうになった。

ちゃんと来てくれるんだ。ふたりの繋がりは、これで終わりじゃない。

「十時くらいに……いいですか?」

「ああ。それじゃ、明日。……おやすみ」

「は、はい。おやすみなさい」

携帯を切って余韻に浸っていた由香は、頭をコンと強く叩かれた。

「い、いたっ。な、なんで叩くの?」

「しあわせそうな顔しちゃってっ! なによっ!」

むっとして怒鳴りつけてきた姉を、由香は冷たく見据えた。

「なっ、なに?」

引き気味に言われ、由香はわざとらしく、はーっと疲れたため息をついてみせた。

「なによっ!」

「なによじゃないし。もおっ、疲れるわーっ」

ほんとのほんとに、ほとほと疲れた……し。

「なっ、なっ……」

「お姉ちゃんさぁ、靖章さんが遊園地に行った話、最後まで聞かずに切ったんだって?」

「だ、だって……靖章、物凄く気まずそうに口にしたのよ。あれは女と行ったに……」

「あのさあ、お姉ちゃんさあ、わたしが真央と佳樹さんと一緒に遊園地行ったこと、忘れてない?」

「えっ?」

声を上げた姉の表情が、ゆるゆると変化する。

「……ま、まさか」

「そのまさかよ」

口をぽかんと開けていた姉は、眩暈を感じたかのようにふらりと身体を揺らし、そのまま床に転がった。

「ちょ……お姉ちゃん」

呼びかけたら、手のひらで目を覆ってしまう。

「あー、消えちゃいたい。もう、やだ……自己嫌悪……最低だわ」

ブツブツ呟いていた姉は、顔を隠したまま、くるりと身体を回転させ、うつ伏せになった。そして背中を丸めて微動だにしなくなった。

どうやら、人生最大の自己嫌悪に陥ったらしい。

由香は、現実逃避中の姉の背中を軽くポンポンと叩き、立ち上がった。

「お姉ちゃん、気が済んだら居間に出てきてよ。真央も気になるでしょ?」

返事をしない姉を置き去りにして、由香は部屋から出た。

まったく、人騒がせな姉だ。

呆れ顔をしていた由香はぷっと噴き出した。

あまりにおかしくて、潜めた声で笑い続けてしまう。

……まあ、ひと雨降るごとに、地が固まるということなのかもしれない。





   

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