笑顔に誘われて… | |
第40話 大ダメージ 朝の目覚めの時間を、ぼんやりまったりと楽しんでいた由香は、突然始まったドンドンドンという只事ではない音に驚いて目を開けた。 な、なんなの? 誰かがドアを叩いている。 これって、なにか緊急事態ってこと? 布団から転がり出るように起き上った由香は、床に置いてある荷物の角で、足の小指を思い切り打った。 「うくっ!」 激しい痛みに全身を固める。 「ユカバン! ユカバン!」 間抜けな苦痛に耐えていると、声が聞こえた。 真央だ。 「おーきーるーよーお!」 大きな声で叫ぶように言う。 「真央ちゃん、何かあったの?」 真央に聞いたところで、欲しい返事などもらえないだろうが、痛みで動けぬため、つい問いかけてしまう。 「ごはん食べるのよー」 そう口したあと、トタトタと駆け去って行く足音が聞こえた。 な、なんだ……誰かに言われて、わたしを起こしに来ただけか。 あー、びっくりした。また何事か悪いことでも起きたかと…… 足の小指から発していた痛みも、ようやく和らいできた。 ほっと息をついた由香は、自分を痛い目に遭わせたプラスチックのケースを睨み、軽く蹴ってやる。 「朝っぱらから、痛い目に遭わせて。冗談じゃないわよ」 小声で文句を言い、うさを晴らして、まずは布団を畳む。 部屋そのものに空いているスペースがほとんどないから、布団を畳んでも、部屋は雑然としたままだ。 お姉ちゃんと、真央の荷物…… それを眺めて、口元が自然とほころぶ。 靖章さんとお姉ちゃんがよりを戻したら、この部屋もまた元に戻るんだわ。 嬉しくて涙が滲みそうになる。 修復は無理だと思ったのに、こんな風に一気に解決の道に進むなんて……まさかのまさかだわ。 時期的に、サンタクロースが願いを聞き届けてくれたのだと信じ込むのが、一番ファンタジックで、素敵かも。 でも、わたしにとってのサンタクロースは…… 「佳樹さん……」 知らず声に出して呟いてしまい、由香はハッとして口を塞いだ。 やだ、わたしってば……恥ずかし過ぎる。 歳を考えろ、歳を…… 思わず自分を諌め、自分の諌めに気落ちする。 ため息をついた由香は、寝間着からルームウエアに着替えて部屋を出た。 「おはよう」 顔を洗って居間に入ると、母と姉がソファに座っていた。真央は、床に置いてあるおもちゃで遊んでいる。 「えっ、いまって何時?」 首を回して時計を見た由香は、ぎょっとした。 「えっ、うそっ。もう九時過ぎ?」 まだ八時前だと…… 「何度か起こしに行ったんだけど、あんた、ぐっすり寝てたから」 母の言葉を引き取る様に、姉が口を開く。 「もう起きるだろうって、真央に行かせたのよ。大きな声でねって言ったら、ほんと、この子凄まじい声出してわね」 早紀は娘の手を取り、顔を覗き込むようにしてにっこり微笑む。 「真央、ママ、びっくりしちゃったわ」 楽しげな姉の笑みを目にし、胸がくすぐったい。 昨夜はとんでもない大騒動になり……あのあと相当落ち込んでいた姉だが、一夜明けて、色々と消化できたようだ。 「真央、びっくり?」 「ええ。ユカバンも、びっくりだったって」 「ユカバン、びっくり?」 姪っ子から期待するような顔を向けられ、由香は苦笑しつつ「びっくりよ」と答えてやる。 喜んだ真央は、自分の手を握り締めている母の手を乱暴に振り切り、由香に飛びついてきた。 「あん、真央ったら」 不服そうな顔をしている姉に、優越まじりににやついて見せ、由香は真央を抱き上げた。 ついでにくるくるとその場で回る。 真央はきゃっきゃっと声を上げて喜び、もっともっととせがむ。 「ほら、由香。さっさと朝御飯食べちゃいなさいよ」 「は、はーい」 いい加減目が回りそうだった由香は、ほっとして母に答え、「やーん、もっと」と駄々をこねる真央を姉に引き渡した。 ひとりで朝食を食べていると、姉が向かい側に座ってきた。 「あの、実はね」 「うん?」 「今日から仕事休みなんだって……それで会うことにしたの」 「それって……靖章さんとだよね?」 「そ、それしかないでしょ……」 姉は頬を赤らめ、小声でぼそぼそと肯定する。 「ここにくるの?」 「それはちょっと……なんか、母さんたちに恥ずかしいし……」 「そう。それじゃ、靖章さんが迎えに来てくれるの?」 姉は車を持っていない。 「ええ」 「真央も一緒?」 「もちろん。会いたがってるし、会わせてあげたいから」 「わたしもそれがいいと思う」 「うん。でね、今日は佳樹さんと会うことになってたじゃない」 「あ、ああ……」 もしかして、佳樹に相談する必要はもうなくなったと言いたいのだろうか? 離婚の原因となった出来事を、ふたりが追求しなくていいのであれば…… 「彼のほうは、キャンセルするの?」 「そうじゃなくて、あんたんちで話しできるといいなって」 「あ、ああ……わたしの」 「午前中は、靖章のアパートに行って……きっと散らかりっぱなしだと思うし」 「そうだね。綺麗に掃除してあげるといいわね。なんなら、そのまま一緒に暮らしたら?」 「ちょ……あ、あんたね。やめてよ」 「どうして? 何か不都合でもある?」 「あんた、からかってるでしょ?」 からかって? 由香は首を横に振った。 「そんなつもりないわよ。ほんと良かったなって思ってる」 早紀は由香の顔をじーっと見つめてくる。何か言いたそうで、でも言えないでいるようで、由香は話を続けた。 「大晦日、年明けを一緒に祝えるね」 「う、うん」 恥ずかしそうに視線を外した姉の目が潤んだのに気づき、由香はそしらぬふりをして、食事に戻った。 胸はいっぱいだったけど、朝食はしっかり胃に収まった。 さて、そろそろ支度をしようと部屋に戻った由香は、はたと気づいた。 し、しまった! 着る服がない。 ルームウエアとか、普段着ならあるのだが…… 佳樹さんに会うのに……こんな服じゃ。ど、どうしよう。 置いてある服を全部ひっくり返して確認したが、どれもこれも似たようなもの…… 時計の針は刻々と、十時に向かっている。 それなりに身綺麗な姿で会いたかったのに…… 顔をしかめ、とにかく化粧をしようと部屋から出た。洗面所でないと鏡がない。 「ほらほら、真央、きれいきれいしないと」 「いやっ!」 洗面所には先客がいて、親子が騒々しくやりあっていた。 顔を拭こうとする母の手を、真央は左右に首を振り、嫌そうに跳ね返している。 「もおっ、そんな汚いお顔じゃ、パパをがっかりさせちゃうわよ」 「ちあうっ! 真央のお顔、キレイキレイよ」 真央ときたら、母親から顔をそむけて豪語する。 「お姉ちゃん、大変そうね」 くすくす笑いながら声をかけると、背を向けていた姉が振り返ってきて渋い顔をする。 「あら、あんた、まだ着替えてないの? もう十時になるのに」 「き、着替えてるし」 「えーっ、それ?」 ありえないと言う様に驚かれ、由香は顔をしかめた。 「昨日、直接こっちに送ってもらっちゃったから、着替えの服を持ってきてないの。だからこんなのしかなくて……そんなにおかしい?」 「おかしくはないわよ。けど……」 そう口にした姉は、急に瞳を輝かせた。そして由香の腕を掴み、洗面所から彼女を連れて出る。 「お姉ちゃん、どうしたの?」 「姉としては、恋人と会う妹を、そんな恰好じゃ行かせられないわ」 「えっ?」 姉の部屋に連れてゆかれた由香は、五分後、姉の服に身を包んでいた。少し派手めで、由香がけして買わないような色と柄、そしてデザインの服。 「ほんとにおかしくない? わたしには派手じゃないかな?」 「わたしより若いくせに、何言ってんのよ。あんたは普段から地味すぎるの。もっと派手なの着たっていいくらいよ。ほら、これも」 さらにクリーム色の暖かそうなコートを手渡される。 「これ、お姉ちゃんがすごく気に入ってたやつだよね? 借りちゃっていいの?」 「よかったら、あんたにあげる」 「ええっ?」 「白なんて、独身のうちよ。子どもがいたら絶対着られないんだから」 「ユカバン?」 由香の足元にじゃれついている真央が、上を見上げて呼びかけてきた。 顔を向けると、少々不思議そうな顔をする。 「この子ってば、あんたの変身に、これはユカバンなのかって、戸惑ってるみたいね」 「そんなに違って見える?」 「心配そうな顔しないの。悪くない変身よ。その髪も今日は垂らしていきなさい。ああ、そうそう、その服に似合いそうな髪飾りがあったっけ……」 姉はごそごそと引き出しを探り、赤いシックなデザインの髪飾りを取り出してきた。 「そ、それつけるの?」 「何を引いてるのよ。つけるわよ。いいこと、絶対はずしちゃ駄目よ」 「えーっ」 拒む由香の手を払い、早紀は髪飾りをつけてしまう。 「ほら、いい感じよ。鏡に全身映して見てごらんなさいよ」 姉の言葉に従い、鏡の前に立った由香は顔を強張らせた。 「な、なんか、もうしゃれすぎちゃってて、絶対におかしいと思うんだけど」 吉倉の失笑を買ったりしたら……立ち直れない。 「おかしくないってば。ほら、もう十時になるわよ。彼を待たせたくないでしょ、さっさと行きなさいよ」 姉ときたら、由香を追い出そうと、ドアに向かって強引に背を押す。おまけに真央まで、母を真似て足を押しはじめた。どうやら遊びだと思ったらしい。 受け入れられない由香は、必死に足を踏ん張った。 「で、でも……駄目だって、こんなんじゃ」 「真央、ユカバン綺麗よね?」 「ユカバン?」 真央は首を傾げて、由香を見上げてくるばかりだ。 「ほ、ほら、やっぱりおかしいのよ」 「もおっ、三歳児相手に、何言ってんのよ!」 「お姉ちゃんが、真央に聞いたんじゃない!」 そのとき、インターフォンが来客を告げた。 「あっ!」 「ほーら、迎えが来ちゃった。もう覚悟を決めてさっさと行きなさい」 「か、覚悟? 覚悟を決めなきゃならないような姿なわけ?」 「そういうことじゃないわよぉ。待たせちゃ悪いから、さっさと行けって言ってんの」 「だ、だって」 揉めていると、「ちょっと早紀」とドアの向こうから母が声をかけてきた。 「お母さん、なに?」 「や、靖章さんよ。来たわよ。出ないと」 興奮と焦りいっぱいに母が言い、目を見開いた早紀はその場でおろおろしはじめた。 「ど、ど、どうしよう? 由香」 「知らないし。さっさと出ればいいじゃない」 「出ればって……まだこんな格好なのよ。靖章ってば、まだ時間じゃないのに、なんで来るのよお」 「約束、何時だったの?」 「十時半よ!」 「お姉ちゃん、もう諦めて出たら」 先ほどの仕返しに、にやにやしながら言ってやる。 「玄関まで迎えに来てくれたんだもの、とにかく家に上がってもらって、それから着替えればいいじゃない」 姉をなだめ、部屋から押し出す。 玄関先では、両親揃って靖章の相手をしていた。 両親とは顔を合わせづらいようだったのに、靖章さんもやるときはやる……え? 「由香」 その呼びかけに、由香は心臓が止まりそうになった。 なんと吉倉が、靖章と並んで立っている。 「あらあら、由香ってば、ずいぶんとおしゃれしちゃってえ」 母のからかいは、由香の心に大ダメージを食らわせた。 一瞬にして真っ赤になった由香は、全員の視線を感じて、ぎゅっと目を瞑ったのだった。 |