笑顔に誘われて… | |
第47話 新たな事実 玄関ドアが開き、由香が望んでやまなかった光景がそこにはあった。 姉と靖章、そしてふたりが、その小さな手を握り、間に挟んでいるおしゃまな真央。 「いらっしゃい」 由香は胸を熱くして、その言葉を口にした。 こんなことくらいで泣きそうになっている自分がおかしくてならない。 それでも…… 「ユカバン、よちちい」 何を言えばいいのかわからずに立ち尽くしている両親を置いて、真央が勢いよく前に出てきた。 「ま、真央」 靖章が慌てて真央に手を差し伸べる。 「あ、あの……おじゃまするわね」 部屋の中に遠慮がちに視線を回しながら早紀は言い、靖章の背を押して先に入るように促す。 靖章はそんな早紀に振り返り、頷いてから中に入ってきた。狭い玄関だ、部屋に上がらないと玄関のドアが閉められない。 由香は真央を抱え、あがり口に座らせた。靖章がしゃがみこみ、靴を脱がせてやる。 真央は勝手知ったるとばかりに、部屋の中を駆け回り始めた。 ずいぶんご機嫌なようだ。きっと、パパとママ、三人一緒の時間が楽しかったのだろう。 姉はどこかよそよそしい様子で、どうしたのだろうと初め思った由香だが、考えたら、姉がここにくるのは初めてのことだ。 そして、由香がこのアパートで暮らすことになったのは、姉と真央が実家に戻ることになったため…… そのことが、姉の心に微妙なひっかかりを生んでいるのかもしれない。 気にすることないのに…… 由香にとっては、この一人暮らしもいい経験になっている。 あんなことでもなかったら、ずっと両親とともに暮らしていたのだろうから。 ようやく姉夫婦がテーブルの前に落ち着き、吉倉も座り込んだ。 真央は、あちらこちらと歩き回りながら、好きに遊んでいる。 「外寒かったでしょう? 何かあたたまるもの用意しましょうか?」 寛いでもらおうと、由香は立ったまま皆に提案した。 「それじゃ、コーヒーでもいただこうかしら」 姉が即座に答え、靖章と吉倉も、それでいいというように頷く。 由香はすぐにキッチンに入った。 早紀も靖章も、落ち着きなく身体を動かしている。 真央にはホットミルクを用意してやり、四人分のコーヒーを出し、由香は吉倉の隣に座った。 こうして面と向かって座ると、自分ももじもじしてしまう。 四人して顔を見合わせ、ちょっと無言の時間が続く。 わ、わたしが何か言うべき…… 「ええと……その」 焦っていた由香は、姉が口を開いてくれ、ほっとした。 「あの、今回のこと、本当にありがとう」 姉が頭を下げてきて、ぎこちなく身体を動かした靖章も、深々と頭を下げてきた。 「あの、本当にありがとうございました。吉倉さんも、僕らのことで、本当にお世話かけてしまって……」 「あ……ん。よ、よかったよね。ほんとに」 由香は言う言葉を見つけられず、出てきた言葉はそんなものだった。 吉倉のほうは、笑みを浮かべてふたりの言葉を受け止めている。 「ん……」 姉の返事は歯切れの悪いものだった。靖章も、いまいちすっきりしない顔だ。 「あの……ふたりで話したの?」 「話は……その……」 由香の問いに、早紀はそれだけ言って、その先を口にできないでいる。 「話してないの?」 「うん……まあ。……なんかね、地雷を踏みそうで……」 早紀はぼそぼそと言い、靖章になんとも苦い顔を向けた。靖章も、困ったように笑い返す。 「せっかくこうして仲直りできたのに……わたし……またカッと来て、おかしなことになったらって、恐くて」 ああ、そうか、そういうことなんだ。 「だから、ここは吉倉さんに話を仕切ってもらえたら……そのほうがいいのかなって。ねっ、靖章さん」 「うん。僕もそうしてもらえたらと」 ずっと黙って話を聞いていた吉倉が頷き、おもむろに口を開く。 「私は、靖章さんが浮気をした事実はないという前提で話を進めるつもりです。早紀さん、貴女はそれで納得できますか?」 吉倉から問いかけられ、早紀はぎこちなく頷いた。 安心できる反応ではなかったが、吉倉は何も言わず、話を進める。 「では……。早紀さん、貴女は靖章さんが浮気をしているのではないかと疑いを抱いていた。疑いを抱くに至った、はっきりとした理由があるのであれば、教えてもらえますか?」 早紀にとってとんでもなく答えづらい問いだろうが、由香もいたたまれない。けれど、腹を割って話をしないことには解決しないのだ。 姉を窺うと、ひどく顔をしかめて俯いてしまっている。 隣に座っている靖章も不安そうだ。 「わたし……わたしは、嫉妬深くて……靖章さんをまるで信じてなかった。疑ってばっかりだった。頭から疑ってるから、靖章さんの言うことは全部、ごまかしに聞こえて……辛くてイライラして」 苦しげに話す早紀は、身を固くして顔をあげない。姉があまりに辛そうで、由香は靖章を見つめた。 靖章に姉をいたわって欲しいのに、彼は早紀に触れていいものかわからないでいる。 靖章に対して腹立たしさともどかしさを感じていると、吉倉がすっと腕を伸ばし、靖章の腕を軽く叩いた。 靖章はハッとして視線を吉倉に向け、すがる様な眼差しを向ける。 男ふたりして見つめ合っていたが、吉倉の意図を酌んだのか、靖章は早紀におずおずと触れた。 その瞬間、姉がびくりと身を震わせ、その反応に靖章までもびくりとする。 息を詰めて見守っていると、早紀がふうっと息を吐き出し、身体の力を抜いたのがわかった。 由香は誰にも悟られないように、止めていた息を少しずつ吐いた。 あー、なんか心臓が痛い…… 「ごめんなさい、靖章さん、ありがとう」 姉が声を震わせて言った。張り詰めた顔をしていた靖章もまた、ほっとしたように肩から力を抜く。 「実は……洞田課長に偶然会ったことがあって」 早紀の言葉に、靖章が「えっ」と叫んだ。早紀と靖章は顔を合せて見つめ合う。 「洞田課長とは、どなたですか?」 吉倉が質問し、靖章が答えてきた。 「彼女の元上司です。僕らは同じ会社に勤めていて」 「ああ、そうだったんですか。早紀さん、それで?」 「はい。色々と話をしていて……そしたら、気をつけろって冗談めかして言われたの」 「気をつけろって、何に?」 「……靖章さんに……好意を持っている女の子がいるって」 「は? いったい?」 困惑顔で靖章が呟くと、早紀は興奮気味に言葉を続けた。 「君ほどの美人じゃないから、彼はなびいたりしないだろうけど、おとなしくて控えめなタイプだから……椎名君は、そういうタイプに、案外弱いみたいだからね。……みたいなことを言われて」 「いったい誰のことなんだ?」 靖章はむっとしたように叫んだ。すると吉倉は靖章に手で制し、「早紀さん、それで?」と、姉を促す。 「それくらいで……でも、それからその女の子のことがずーっと頭にこびりついて……疑惑と妄想がどんどん膨らんでいっちゃって……」 「ちょっといいかな!」 靖章がイライラしたように口を挟んできた。 「どうぞ」 吉倉が言うと、靖章は怒りに顔を強張らせて声高に語り始めた。 「はっきりいって、洞田課長は信用できない。君と偶然会ったというのも信用できないし、その女の子の話も作り話だ、絶対に」 話しながら興奮が増したようで、靖章は大きく肩を上下させながらまくしたてた。 由香は真央の様子をさっと窺った。 興奮した父親を真央がじっと見つめているのを見て、由香はさりげなく立ち上がって歩み寄った。 「真央ちゃん」 安心させようと、由香はにっこり笑って真央に手を差し伸べた。 真央は由香に体当たりするように抱き着いてきて、そして両親にじっと視線を注ぐ。 由香は真央の背中をやわらかに撫でた。 「洞田課長というひとに、靖章さんは何か感じるものがあるんですか?」 吉倉が声を抑え気味にして問いかける。 由香が動いたことで、興奮していた靖章も我に返れたようだった。 「あのひとは……早紀を気に入っていたんですよ。既婚者ですが……奥さんとはうまくいってなくて……」 靖章は抑えた固い声で言う。 「靖章さん、そんなこと」 反論するように早紀が言うと、靖章はキッと睨み返した。その睨みに、早紀が怯む。 「君と僕が結婚することになって、僕はあのひとに目の敵にされてたんだ。気にすまいとしてたけど……」 そう言った靖章は、手が震えるほどに握り締め、持っていき場がなくなったかのように、テーブルを思い切り叩いた。 突然のドンという大きな音に、由香もびっくりしたが、抱いている真央は由香以上にぎょっとしたようだった。 「う……」 「真央ちゃん。大丈夫だよぉ」 他に言いようがなく、なんでもなさそうに声をかけてみたが、真央は由香の腕を振りきるようにして離れた。 「真央」 早紀が呼びかけ、おいでというように両手を大きく広げる。 「絵本持ってきてるの、出してあげましょうか?」 早紀がやさしく声をかけたが、真央は母親の側に置いてある大きなバッグに飛びつき、真剣な顔で中を引っ掻き回し始めた。 「ま、真央」 靖章は娘をぎょっとさせた張本人であることがひどく気まずいようで、おずおずと呼びかける。 バッグの中から掴み出したものを全部、真央は父親の膝に載せた。 「真央?」 おどおどと靖章が呼びかけると、今度はいま自分が載せたばかりのおもちゃを乱暴に振り落とし、靖章の膝を思い切り叩き始めた。そして興奮したようすで叩き続けながらハーハ―と苦しそうに息を吐く。 「抱き締めてあげて、早く」 早紀に急くように言われ、靖章は慌てて真央を抱き上げ、胸に抱き締めた。 興奮した真央は、持って行き場のない感情を発散するように靖章の胸の中で激しく暴れる。 靖章はどうしていいかわからないようで、情ない顔をしているが、早紀が真央の背中を包み込むように靖章に抱き着いた。 「落ち着くまでこのままで。靖章さんじゃなきゃ駄目なのよ。安心させてやって」 暴れていた真央が徐々に落ち着いてきた。「はあっ」としゃくりあげるように大きく息を吐き出し、おとなしくなった。 両親の不安定な精神が、こうもストレートに伝わるとは…… みんな語るのをやめ、少し冷めたコーヒーを飲んだ。 真央を興奮させてしまったのは可哀想だったけど、新たな事実が明らかになった。 姉の元上司だという人……そのひとが、姉夫婦の関係に故意に亀裂を入れたのだろうか? |