笑顔に誘われて… | |
第50話 ほっとして 「ちゅるちゅるおいちい」 おソバをつるんと食べた真央が嬉しそうに叫び、大人全員が相好を崩した。 今日は大晦日だ。年越しソバと握り寿司が並んだ食卓を、由香はみんなと囲んでいた。 両親に姉夫婦に、姪っ子の真央。 こんなふうに、揃って大晦日を過ごせることになるなんて…… ついつい感慨にひたってしまう。それはみんなも同じだろう。 由香は、この場にいてまだちょっとぎこちない様子の靖章を窺った。 姉夫婦が和解してまだ数日しか経っていない。 靖章は元々シャイな性格であるし、いまはまだこんなものだろう。 姉と真央は、すでに靖章のところで寝泊まりしている。荷物は靖章の車で少しずつ運んでいるようだ。 姉夫婦が元の鞘に収まることになり、両親も、それはもう喜んでいるのだろうが、それでも娘と孫がこの家から出ていってしまうのは、寂しいことに違いない。 わたし、ここに戻ってこないかって言われそうよね。もちろん、そうしてもいいんだけど…… 「佳樹さんも一緒に過ごせたらよかったのにね」 姉が突然振り返ってきてそんなことを言い、ソバを食べていた由香は喉に詰まらせそうになった。 「さ、さすがに今日は無理よ。ご実家で過ごすんだろうから」 「誘ってみたの?」 問われて、由香は顔をしかめた。 誘ってはいない。 「だからね……」 「佳樹君が来てくれたら、酒を飲むのに、もっと盛り上がれたろうにな」 由香の言葉などそっちのけで、父が残念そうに言う。 「ちょっと、お父さん!」 早紀がむっとした顔で父に呼びかけた。 「なんだね?」 「靖章さんが相手じゃ、盛り上がりに欠けるっていうの?」 「お、おい、早紀」 父に文句を言う早紀を、靖章が慌てて止める。 「いまのはそういう意味で言ったんじゃないぞ。……ほら、靖章君は静かに酒を飲むタイプだろう?」 父の言葉を受け、早紀は靖章に視線を向け、彼と目を合わせた途端、なぜか顔を赤らめた。 「大晦日なんだし、ぱっと賑やかにだな」 「佳樹さんがいたら、そうなるっていうの?」 顔を赤くしたことを誤魔化したかったらしく、早紀はこれ見よがしに強気で父に問う。 姉ときたら、結婚前の、靖章と付き合っていた頃に戻ったかのような初々しさ……うーん、それは違うか……あのころの姉は、精神的にひどく不安定な感じだった。イライラしていることが多くて…… 今回のことがあり、姉は大きく変化したようだ。精神的に安定したというか…… ある意味、靖章との恋愛をやり直しているのかもしれない。……変化した心で。 「彼は存在感があるからね」 靖章は、なだめるように妻に言い、さらに苦笑して言葉を足す。 「だから僕も……その、お父さんと同じ意見ですよ」 靖章はひどく照れくさそうに口にし、父までも照れさせた。 困った表情で頬をほんのり染めている父に、由香は笑いを堪えた。 いまはもう、なんでもかんでも笑いたくなってしまう。それくらい以前は辛かったし、こんないまがあることが嬉しくてならない。 「佳樹さんは我が家の功労者なんだし、いっぱいご馳走して、お酒もじゃんじゃん飲ませてあげたかったわねぇ」 母も残念そうだ。 吉倉が来ないと聞いて、母が一番がっかりしていたように思う。 由香も彼がいないのは寂しいけど……なんというのか……恋人になった彼に、どう接していいかわからなくて困っている状態だったりする。 会いたいのに、会うのをためらうって……自分でもわけがわからない。 ……恋愛って、こんな複雑な心境になるものだとは。 「案外、酒癖が悪かったりするかもよ」 ちょっと意地悪そうに姉が言い、由香は思わず顔をしかめた。 「お姉ちゃん、彼がいないと思って、言いたい放題なんだから」 「だって、実際見てみなきゃわからないじゃない。由香あんた、泥酔するほど飲んだ佳樹さんを、もう見たことあるわけ?」 「そ、それはないけど……」 短い間に色々なことがあったけど、まだ一緒にお酒を飲んだことはない。 なにせ、彼と出会ったのは一週間前なのだ。 家族たちは、ふたりはもうそこそこの期間、付き合っていると思っているんだろうけど。 告白されたのが三日前、それで本当に付き合うことになったのだ。 正直、急展開すぎて心がついてゆけていない。 一緒にいても、まだまだぎこちないし…… 高知由香、歳は三十ほど食ってますけど、恋愛の経験値はゼロ。 もうどうしていいやら…… でも……ま……その…… ぎこちなかろうが戸惑うことばかりだろうが、ものすごーく、し、しあわせですけどぉ。 脳内で、あまりに馬鹿なことを考えてしまったせいで、頬が熱を持ち始め、口元の締まりがなくなる。 なんとか抑えようとするが、しあわせパワーが強すぎるものだから、取り繕えない。 「なーに、返事もしないで、にやにやしてんのよ。この子ってば、気持ち悪いわねっ!」 「いたっ!」 ゴンと音がするほど頭を叩かれ、由香は慌てて姉と距離を取った。 「も、もう、お姉ちゃん、ひどいじゃない」 「いやいや、妹のあんたが、こんなにもしあわせそうで、妹思いの姉としては嬉しいなぁと思ってね」 「それ、台詞と行動が噛み合ってないと思うけど……」 「まあまあ、いっぱいどうよ」 誤魔化そうというのか、姉は酒を勧めてくる。 姉も楽しそうだし、誤魔化されておくかと、コップにビールを注いでもらう。 「わたし、あんたが泥酔したところも見たことないし、いっぺんくらい、みんなに披露なさいよ」 「それは駄目よ」 姉に向けてダメ出ししたのは母だった。 「なんでよ?」 「由香は、明日佳樹さんと初詣に行くのよ。二日酔いで初詣なんてことになったら、佳樹さん呆れるわよ」 「そういえば、そう言ってたわね。由香、どこの神社に詣でに行くの?」 「どこに行くとは……。だいたい、ふたりだけじゃなくて、佳樹さんの妹も一緒なの」 そう口にした途端、大人四人が一度に由香に振り向いた。 「はあっ?」 「妹が一緒?」 姉と母が面食らった顔で叫び、「なんで妹!」と、ふたりは声をハモらせた。 「なんでって……」 そ、そうか、そのあたりのこと、全然話していなかったんだったわ。 「佳樹さんの妹の綾美ちゃんは、わたしの職場の後輩なの。すごく慕ってくれてて、だから一緒に」 由香の説明を聞き終えたふたりは、急に態度を変えた。 「なーんだ、妹繋がりで、あんたたちは出会ったってわけ?」 早紀が納得したように言う。 いや、そういうことではないような。と思ったが、面倒なので口には出さずにおく。 「あんたたちが、いったいどこで出会ったんだろうって、すっごい気になってたのよ」 「お母さんもよ。ぬいぐるみ工房なんて職場じゃ、男性との出会いなんてなさそうだから……こうなったら無理やりにでも見合いさせようかって、お父さんと話していたのよぉ」 み、見合い? 「そうか、妹さんねぇ。妹さん、あんたのことが気に入って、それでお兄さんの佳樹さんを紹介してくれたわけね」 早紀の勝手な推測に、母も納得して頷いている。 いやいや、ぜんぜん話が違うんだけど…… 綾美はまだ、ふたりが付き合うことになったとは知らないのだ。 明日、佳樹さん、綾美ちゃんにわたしとのことを言うつもりかしら? いや、すでに話してしまった可能性もある。 な、なんか、滅茶苦茶恥ずかしいんですけど……どんな顔して、明日綾美ちゃんと会えばいいのやら…… 「それでね、由香。……ちょっと聞いてるの?」 少々普段とは違う母の口調に驚いて振り返ると、目の周りが赤くなった母がいた。 どうやら、確実に酔っていらっしゃるようだ。母は酔うと、このように両目の周りが赤くなる。 「あっ、こら母さん。いったいいつの間にそんなに飲んだんだ。すっかり赤パンダじゃないか」 困惑したように父が言い、赤パンダの呼び名に、由香は止めようもなく噴き出してしまった。 姉の早紀も、同じように噴き出している。 「やれやれ、今夜の片づけはわたしと由香でやらなきゃならなくなったわね」 「なーに言ってるのよぉ~。こっのくらいの酒に負けやしないわよっ、ねっ、まーおーたん」 お寿司を頬張るのに夢中な孫に、べったりくっつき、邪険にされる祖母を見る。 「あーあ」 「なーにがあーあよ。ちょっと、由香」 長女に睨みを向けていた母が、何か思い出したらしく、急に由香に話しかけてきた。 「な、なあに?」 酔いの回った母が、どんな話を切り出してくるのか、ヒヤヒヤしてしまう。 「振袖、出しといたからね」 「は、はい?」 「ふー、りー、そー、でっ」 聞えなかったのかと思ったのか、大きな声で繰り返される。 「そんなの必要ないから。着て行く服は選んで持ってきたし」 「だーめ! もう決まってることなの。もう、すっごく楽しみにしてるってぇ」 「は? だ、誰が? 楽しみって?」 眉を寄せて聞くと、「よ、し、き、さ、ん」と一字一字区切って言う。 佳樹さんって……? 駄目だ、かなり酔いが回っているようだ。頭の中で、夢と現実がごっちゃになっているなんて。 目の焦点も揺らいでて、合ってないし…… それから十分後、ソファに横になっている母がいた。 「たいして飲んでなかったのに……ほっとしたんだろうな」 母に毛布をかけてやった父は、母の寝顔を見つめて呟く。 酔いつぶれてしまった母に呆れていた姉は、その呟きに表情を変えた。 「わ、わたしが……」 顔を歪めて何か口にしようとする姉に、父が「早紀」と呼びかける。 「ほんとに親孝行してくれた。母さん、そう言ってたぞ」 「親……孝行……か」 姉は情けなさそうに繰り返す。 「痛いわね。とんでもなく親不孝しちゃって……」 「これからお前は、本当の意味でしあわせになれる。わたしらはそれが嬉しいんだ。離婚しなければ、お前は気づけなかっただろう? どれだけつらかったとしても、お前にとっては、離婚は必要なことだった。そう思わないか?」 「思う……わ」 「早紀」 複雑な表情をしている姉の肩を、靖章がそっと掴んだ。 |