笑顔に誘われて… | |
第58話 味わいたいもの 「コーヒーが冷めてしまったな」 携帯をポケットに戻した吉倉が、カップに視線を向けて言う。 「入れ替えてこよう」 「いいですよ。これで……まだ温かいです」 「いや、駄目だ」 カップを手に取ろうとしたら、吉倉がきっぱり言い、由香より先にカップを手に取る。 「もったいないですよ」 「私が入れ替えたいんだ。私は君に、美味しいコーヒーを飲んで欲しい」 「佳樹さん」 呼びかけたら、吉倉は照れたように顔を逸らしてしまった。 「な、なんだか暑くなってきたな」 カップを手に持ち、そそくさとキッチンに行ってしまう。 座って待っているべきかと思ったが、それも落ち着かず、由香は立ち上がった。 ためらいを感じつつ、吉倉に近づく。 歩み寄ってきた由香に吉倉は気づき、いったんは視線を向けてきたが、すぐに逸らしてしまった。 コーヒーを淹れるのに集中している。 言葉を交わすことなく、由香はコーヒーを淹れる吉倉を見守った。 なんとなく、彼の手元がぎこちない。 気になって、吉倉の顔に目を向けたら、手にしていたスプーンを取り落とし、流し台に落ちた。金属の音が静かな部屋に響き渡る。 「す、すまない」 「佳樹さん?」 様子がおかしく見える吉倉に、由香は小声で呼びかけた。 吉倉は、まるで観念したような表情になり、「ああ」と答える。 「どうしたんですか?」 「いや……どうもしていないんだが……」 まるで、自分でもよくわからないというように吉倉は呟く。 「緊張している。らしい」 「はい?」 言われた意味がわからず、戸惑ってしまう。 「その……君に、色々と話したせいかな……それと、君が」 「わたしが、なんですか?」 「いつもと違うから……遠く感じるというか……。学生の頃、貴女を眺めているだけだった自分に戻ってしまった……みたいだ」 由香は笑おうとして、けれど笑えなかった。 吉倉の気持ちが伝わってきて……笑えなかった。 「振袖なんて、着なければよかったですね」 思ったまま言ったら、吉倉は驚いたように首を横に振る。 「それは違う!」 声を張って叫んだ吉倉は、少し考え込み、それから改めて口を開いた。 「嬉しいんだ。ひどく緊張しても、あの頃の気持ちに戻っても……ここに貴女がいることが……夢のようでね。瞬きしたら、君が消えてしまうような気さえする」 本気でそんな言葉を口にしているらしき吉倉に、由香は顔をしかめた。 腹が立った。それに、不安にもなった。 由香は、吉倉が取り落して転がったままのスプーンを拾い上げ、蛇口をひねってジャバジャバとスプーンを洗った。 「ゆ、由香。ダメだ。そんなことをしたら振袖が濡れて」 吉倉は慌てて水道の水を止め、由香の手をスプーンごと握って止めてきた。 濡れたままの手で、由香は吉倉を力一杯押し返した。 その行為に吉倉が驚いたように手を離し、身を引く。 そして、そのまま固まってしまった。 「わたしは、夢の中になんて住んでませんから」 「……それは。ごめん、怒らせた……」 「貴方はわたしを見てます?」 「えっ?」 「わたしはいま三十歳なんですよ。貴方が好きになった頃のままのわたしじゃないんですよ」 「もちろん、わかっている」 「そうでしょうか? いまの言動とか……そうは思えません」 「由香……」 「あなたは、いまのわたしを通して、女子高生だったわたしを見ているとしか思えません」 「そんなことはない!」 弱々しかった吉倉が、突然意志の力を瞳に宿し、大声で怒鳴った。 「私は二十一の君も、二十三の君も、二十八の君も知っている。ずっと見ているだけだった……その君がいまここにいる。いまの私の心境を、わかってくれないだろうか?」 吉倉は頼み込むように言う。 「三十だって、ちゃんとわかっています?」 「ああ。ちゃんとわかってるさ。……もしかして、君のほうこそ、年齢を気にしているのか?」 痛いところを突かれ、由香は顔をしかめた。 「してますけど」 「私は、いつだって、君の年齢を超えたいと願ってきた。君より先に生まれていたら、状況はもっと違っていたのにってね。でも、まあ……」 何を考えたのか、吉倉は急に明るい顔になった。 「まあ……なんですか?」 気になって催促すると、吉倉がくすっと笑う。 「何がおかしいんですか?」 「よかったなと思って」 「はい?」 「いつもの調子に戻った。君も、私も」 それは確かに……そうだ。 「いまは……もうどうでもよくなった。君が年上なことも、私が年下なことも……由香」 最後の呼びかけは、ひどく甘かった。 ドキリとし、吉倉を見上げたら、ゆっくりと顔が近づいてくる。 息を止め、きゅっと目を瞑る。すると、そっと唇が触れ合った。 心臓が破裂しそうなほど、長く甘いキスを受け取る。 唇が離れ、キスのせいで赤らんだ顔を見られるのが嫌で、由香は顔を伏せた。 「いま、死んでもいいと思った」 真剣な吉倉の声に、由香は思わず顔を上げた。 ふたりの目が合う。 吉倉の唇は、由香の紅が移ったようでほんのり赤い……その唇が、ゆっくりと開く。 「……けど、いま、死にたくはないな」 由香は、知らず微笑んでいた。 「わたしも……ここで死にたくなんてないです。もっと佳樹さんを……」 「私を?」 言葉の続きを促がされ、言うか迷ったが…… 「あ、味わい……たい……です」 躊躇が心にあり、言葉がぶつ切りになる。 もちろん、由香の言ったのは、精神的にということだったのだが…… 取りようによっては、肉体的にということになるわけで…… 気づいた由香の体温は、一気に上昇した。 「あ、あの……いまのはですね」 言い訳をしようとしたら、吉倉に両手を掴まれた。 そのままぐっと接近し、気づいたら密着していた。 「奇遇だな。私と同じだ。私も……もっと君を味わいたい」 囁くように言った吉倉は、再び唇を重ねる。 先ほどとは比べ物にならないほど濃厚な口づけを、由香はたっぷりと味わうことになったのだった。 |