笑顔に誘われて… | |
第61話 一秒ほどのキス アパートに帰り着いたら、すでに吉倉はやってきていた。 「佳樹さん」 車の窓を開けて、自分の車の中にいる吉倉に呼びかける。 「ごめんなさい。待たせてしまって」 「いや、まだ二時じゃないよ。私が早かっただけだから」 「すぐ車を停めてきますから」 「由香、急がなくていいぞ」 慌てている由香を見て、吉倉が苦笑しながら言う。 由香は頬を染めて頷き、車を駐車場へと進めた。 バッグと福袋を手に取り、車を急いで降りて吉倉の車まで駆け戻る。 「お待たせしました」 声をかけて助手席に乗せてもらう。 「どこか、行きたいところとかあるかい?」 「うーん、そうですね」 佳樹さんと一緒なら、わたしはどこでもいいんだけど…… 「佳樹さんは、どこか行きたいところは?」 「君と一緒なら、私はどこでも」 まるきり自分が思っていたまま口にされてしまい、笑いが込み上げる。 「うん? 私は何か面白いことを言ったかな?」 由香は笑いながら手を横に振った。 「私が思っていたのと同じことを、佳樹さんが口にしたから……」 「ああ、そうか……」 佳樹は嬉しそうに笑い、それから考え込む。 「映画を観に行くってのはどうかな?」 「あっ、はい」 「いま観たい映画が、あるかい?」 そう言われて、返事に困る。反射的に返事をしてしまったものの、実のところ、映画なんてここ数年御無沙汰だ。 「ごめんなさい。映画は好きなんですけど、映画館には行っていないんです」 「なら、私と同じだ」 「そ、そうなんですか?」 「ああ。ただ、デートの定番だから、提案してみた」 照れくさそうに言われ、笑いが込み上げるとともに由香の頬も赤らんでしまう。 デートなんだ。そう思うと、ほんと照れくさい。 「それじゃ……とにかく映画館に足を運んでみるかい? 君が観たいと思う映画をやっていたら観ることにして……」 「佳樹さんは?」 「君が観たい映画ならば、私は喜んで付き合うよ」 「そんなの駄目ですよ。佳樹さんが退屈しちゃいます」 「退屈?」 愉快そうに吉倉が聞き返してくる。 「は、はい」 「君と一緒にいるのに、私は退屈なんてしないよ」 一瞬にして顔が熱くなり、由香は両手で顔を覆う。 「よ、佳樹さんったら」 困って文句を言うと、吉倉は笑いながら車を発進させた。 もおっ。佳樹さんってば、ほんとこっちが恥ずかしくていたたまれなくなるようなことを平気で言うんだもの。どうしていいやらわからない。 それに、いまだに笑っているし。 「いい加減、笑うの止めて下さい」 「わかった」 そう言いつつも、吉倉は笑い止まない。 「もおっ、知りません」 ふいっと顔を背けると、「参ったなぁ」と声を上げる。 「胸が弾んで、笑うのを止められないんだ」 うっ! 参ったは、こっちのセリフだ。困りながらも、口元が緩んでならない。 ちらっと吉倉を見ると、彼もちらっとこちらに向く。彼と目を合わせ、由香は顔を逸らして喜びを噛みしめた。 ほんと、馬鹿みたいに舞い上がってる。他人の目には、きっと失笑ものなんだろうけど……それでもいいと思ってしまう。 わたし、いま恋にどっぷりはまっちゃってるんだなぁ。 「由香、もしや、ショッピングセンターに行ってきた?」 吉倉が話しかけてきて、由香は「はい」と答えた。 「みんなと初詣に行ったあと、そのままショッピングセンターに行こうってことになって……けど、車が別々だったので、みんなとは途中ではぐれちゃったんです」 「福袋を買ったんだね」 その言葉に、由香は膝の上に載せている福袋を見る。 「これ、佳樹さんと一緒に行った宝飾店……覚えてます?」 「ああ、もちろん」 「あそこで買ったんです。わたし、イチゴちゃんに会いたくて……」 「ああそうか、残念だったね」 残念? 由香は首を傾げて、「残念って?」と聞き返した。 「あ……いや」 口ごもっている吉倉を見て、由香は首を傾げた。 「佳樹さん?」 「その……実は、わたしも買いたいものがあって、午前中に、あのショッピングセンターに行ったんだ。けど、女性の店員は見かけなかったから……」 宝飾店の前を通ったということらしい。 「そうだったんですか。わたしが行ったときは、ちゃんといましたよ」 イチゴちゃんのことを思い出し、笑みが浮かぶ。 「イチゴ柄の振袖を着てましたよ。帯には大きなイチゴの刺繍がしてあって。河童までくっつけてて……」 「河童?」 「面白いでしょう? どうして河童をくっつけてるのって聞いたら、河童はイチゴが大好きなんだって」 「よくわからないが……なにやら理由があるんだろうな」 「ええ。そんな感じでした」 イチゴちゃんは、あのハンサムな店員さんとすごくいい感じだった。 「これ、指輪とネックレスのセットらしいんです。母にあげようと思って」 「ああ、それは喜ばれるだろう」 「はい」 由香は心を弾ませて返事をし、手にした福袋を撫でた。 映画館に到着し、車を降りたら吉倉が手を差し出してきた。 こっ、これは、手を繋ごうということよね? 持ってもらうような荷物はないんだから…… 由香は恐る恐る手を差し出す。すると、吉倉が手を握る。 うわーっ、なんか恥ずかしいんですけど…… このわたしが、男のひとと手を繋いで歩いてるなんて…… しかも、場所はデートの定番である映画館。 ぽぽっと、頬が赤らむ。 あー、もおっ、わたし、いちいち意識しすぎだわ。これだから、恋愛初心者は…… そう思っても、頬が赤らむのを止められない。 映画館の中に入り、ふたり上映している映画を確認した。 館内はそんなに混んでいないようだ。 「どう、由香、観たい映画があるかい?」 「わたしは……あの、佳樹さんは?」 「今日は、君の観たい映画にしないか? 次は、私が選ばせてもらうから」 「で、でも……」 「ほら、どれがいい?」 これはもう自分が選ぶしかないようだ。ホラー以外ならどれでもいいんだけど…… あと、泣きそうなのとかも……やめておこう。涙で顔がグシャグシャになったりしたら恥ずかしい。 「うーん。あっ、それじゃ、これとか」 コメディらしき洋画を選ぶ。上映時間まで、あと十分くらいでちょうどいい。 だが、予想に反して、その映画は涙を誘うものだった。 映画が終わり、館内が明るくなるころには、泣き腫らして瞼を赤くした由香がいた。 「大丈夫かい?」 「だ、大丈夫です」 やせ我慢して答えるも、まだ映画の余韻が残っていて、涙が込み上げてくるという体たらく。 さらに、鼻水まで啜っているのでは、もう穴があったら飛び込みたい心境だ。 もちろん泣いているのは由香だけではない。半分くらいの女性が泣き腫らした顔をしている。 他の観客が立ち上がって出て行くのを見て、由香も立ち上がろうとしたが、吉倉に制された。 「佳樹さん?」 「そう慌てなくていい。急いでいるわけじゃないし、もう少しだけ待とう」 やさしく言われ、由香は感謝して頷いた。そのほうがありがたい。 とにかく、なんとかこの涙を止めなきゃ…… 平常心、平常心、と心の中で唱えながら、映画の余韻を消し去ろうと頑張る。 スーハ―スーハーと息を吸ったり吐いたりしていたら、「由香」と呼びかけられた。 「はい」 吉倉に顔を向けたら、驚くほど近くに吉倉の顔が迫っていた。 はっと思った時には、ふたりの唇が重なっていた。 一秒ほどのキス。唇を離した吉倉は、悪戯っぽい目をして笑う。 「よ……」 文句を言おうと思ったけれど、吉倉の表情を見て彼女は何も言えなくなった。 「こんなに幸せでいいのかな?」 そんな問いかけをもらい、鼻の奥がツーンとする。 せっかく止まった涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。 |