笑顔に誘われて… | |
第62話 ひとりじゃないから 「少し遠いんだが……綾美が推薦してくれたレストランに行こうと思うんだ。……いいかな?」 映画館を出て、車に乗り込んだところで、吉倉が尋ねてきた。 「綾美ちゃんのお勧めですか。もちろんいいですよ」 泣いてしまったせいで、、腫れぼったくなった瞼を気にしつつ、由香は答えた。 どんなに遠くたって、いまはお正月休みだ。 門限なんてものもないし、何時に帰って来ることになっても自分は構わない。 それどころか、到着に時間がかかったほうがいいくらいで…… レストランで吉倉と向かい合って食事をするのなら、この瞼の腫れが少しでも引いてくれていたほうがありがたい。 けど、予約していかなくても大丈夫なのかしら? 遠いところまで行って、満席でダメとなったら…… そういえば、イブの日に連れて行ってもらったレストランは……運がよかったのか、入れたっけ。 あのときは、たまたまキャンセルがあったみたいだった。 「ああ、そういえば……」 「うん?」 「クリスマスイブに連れて行っていただいたレストラン……あそこも綾美ちゃんのお勧めでしたね」 イブの日、突然呼び出されて……そしたら吉倉が待っていて……妹のことについて相談事があるって……レストランに連れていかれたんだった。 うん? あ、ああ、そうじゃなかったんだわ。 あの日、佳樹さんはわたしに会うために、パーティーを抜け出して工房にきてくれたんだ。 突然の、吉倉の登場を思い出し、いまになって胸がドキドキしてきた。 あのときのわたしは、佳樹さんのことを綾美ちゃんのお兄さんとして見ていたし、接していた。 けど彼のほうは、妹の職場の先輩としてではなく、わたしをわたしとして見てくれていたんだ。 過去が違う色を持ちはじめ、胸が膨らむ。 そんなことを考えていたら、潜めた笑い声が耳に届き、由香は吉倉に振り返った。 「何がおかしいんですか?」 「いや、色々と思い出してしまって……」 何を思い出して笑っているのか、もちろん気になる。 「あの……どんなことを?」 「苦労したんだ」 「はい? 苦労……ですか?」 「ああ。物凄く苦労したんだ」 吉倉ときたら、言葉を繰り返すたびに、実感を込める。 「どんな苦労をしたんですか?」 「運転しながらでは語れないな」 「そんなに深刻な話なんですか?」 なおさら気になってきたけど……吉倉は楽しそうだ。 「深刻な……そのときは、そうだったな」 意味深に言う。 うーん、よくわからないけど…… 「いまは解決してるんですね」 少しほっとしつつ答えたら、吉倉が声を上げて笑い出した。 「佳樹さん?」 「ご、ごめん……ツボに入った」 運転しているというのに、吉倉は笑い止めないでいる。 「そんなに笑っていたら、危ないですよ」 「すまない。無心、無心……」 吉倉ときたら、気難しい表情になり、無心をひたすら繰り返し始めた。 おかげで、今度は由香が笑えてきた。 笑い声を上げないように笑っていたが、吉倉に気づかれた。 「私の笑いが移ったようだな」 「そ、そうみたい」 由香は笑いながら言った。 「いずれ、話すよ」 「聞かせてもらえるんですか? 苦労した話」 「ああ。聞いてもらいたい。君は、いまよりもっと、腹を抱えて笑うだろうな」 「えーっ、笑ったりしませんよ。佳樹さんが苦労した話なんですもの。それに、深刻な話なんでしょう?」 「いや、言葉を間違えた。腹を抱えて笑ってもらいたい」 おかしなことを言う。 けど、それが吉倉の望みってことならば…… 「わかりました。それが佳樹さんの望みであれば、苦労話を聞いたら、腹を抱えて笑います」 「君は……」 「はい?」 「いや、運転しているのが残念で……」 「えっ?」 「いま、君を思い切り抱きしめたい感情が、強烈に込み上げてる」 由香は目を見開いて、吉倉を見つめた。次第に頬が熱を持ってきた。 熱いほどに顔が赤らみ、両頬を両手で覆った。 車は山村に入った。夕暮れ時で、太陽が西に傾き始める。 「もう日が暮れるな……まだ距離があるし、到着時は真っ暗かもしれないな」 「綾美ちゃん、こんなに遠くのレストランまで足を運んでるんですね」 ちょっと感心してしまう。 「友人たちと情報を仕入れては、あちこち行ってるんだろ。いま向かっているレストランは、その中でも選りすぐりのところらしいから、期待できるんじゃないかと思う」 「そうなんですか。楽しみです。あっ、雲の色が綺麗ですね。ピンクとオレンジに染まってますよ」 「本当だ……妙に、胸にくる景色だな」 吉倉が感慨を込めて言う。 由香もそう感じる。 こういう美しい自然を目にすると、生きていることに感謝が湧いてくる。 けど、こんなにもそれを強く感じるのは、ひとりじゃないからだ。 由香は、そっと運転している吉倉を見つめた。 そう……恋しい人が、隣にいてくれるから。 |