笑顔に誘われて… | |
第64話 じんわり実感 「それじゃ、由香……おやすみ」 アパートの前まで送ってもらい、吉倉の車を降りたところだ。 プロポーズ、そして婚約指輪を受け取り、いまもまだ現実が薄くなってしまっているというか、思考がふわふわしている感じだった。 「お、おやすみ……なさい」 車を降りる寸前にキスされたこともあり、しどろもどろに返事をしてしまう。 真冬だというのに顔が熱く、冷たい夜気がとても心地よく感じた。 「寒いから、早く部屋に入って」 「佳樹さんを見送ります」 「いや、それでは私が心配だから……君が部屋に入るのを見届けたいんだ」 そう言われては、部屋に戻るよりない。 「そ、それじゃ……」 「うん。明日、十時に迎えにくる」 そう言われて、ちょっと緊張してくる。 明日は吉倉の実家を訪問しなければならない。 顔を合せることを考えると、ひどく落ち着けないのだ。 それに、綾美ちゃんとも顔を合せることになるし…… 明日までに、綾美ちゃんに電話して話をしておこうかしら? 由香は吉倉に手を振り、部屋に戻った。 急いで南側の窓まで駆け寄り、カーテンを開けて吉倉の車が停められた場所を確認する。 車はまだあり、由香は手を振った。すると吉倉は手を振り返し、帰って行った。 車が見えなくなっても、由香はしばらくぼおっとして窓辺で佇んでいた。 携帯が鳴っている音に、由香はハッとして顔を上げた。 玄関の上り口に転がしたままだったバッグの中から着信音がする。 佳樹さん? でも、彼は運転中だから……かけては来られないはず。 慌てて携帯を取り出してみたら、姉の早紀からだった。 「も、もしもし」 「あら、出た」 出たって…… 「電話がかかって来たんだから、出るに決まってるでしょう」 「佳樹さんは?」 「いまアパートまで送ってくれて、帰って行ったとこ」 「ふーん。一緒に過ごさないんだ」 「一緒にって……」 それって、夜を一緒ってことだよね。そう考えて顔が赤らむ。 「まだ……その……」 「まだ? あらら、そうなのぉ」 早紀ときたら、意味ありげに言う。由香は頬を膨らませた。 「もおっ、からかわないで」 「まあ、いいわ。それにしても、奥手だわねぇ……佳樹さんも、なかなかどうして」 「よ、佳樹さんが、何?」 「言いたいことをまとめると、大事にされてるのねってことよ」 言葉に笑いがある。まったく、この姉ときたら、恋愛に疎い妹が愉快らしい。 まあ、いいけど…… 「明日はご両親に会いに行くんだったわね?」 「そう。そのせいで、いまから緊張しちゃって」 「結婚を前提に付き合うんですって、報告するのよね?」 「そ、そうなるのかな」 「それで?」 「それでって?」 「重大な報告があるんじゃないのかなぁ……と、思って」 「重大な報告?」 「そう」 先ほどからずっと、早紀は何やら含みを込めて話している。 「お姉ちゃん、いったいなんなの?」 「……だからね。いまわたしの可愛い妹の左手の薬指には、キラキラした素敵なものが嵌まってるんじゃないのかなぁと思って」 「えっ」 由香は固まった。 な、なんで当てられて……いや、なんで姉がこの指輪のことを知っているのだ。 「サイズはピッタリだったの?」 あっ…… ようやくわかった。 確かに、指輪は由香の指にぴったり。つまり…… 「お姉ちゃん、佳樹さんに指のサイズを?」 「ピンポーン」 どっと疲れを感じたものの、笑いが込み上げてきた。 「もう、あんたと話したくて、邪魔になっちゃったら悪いなぁと思いつつ、かけちゃったわけ」 早紀は一気にまくしたて、最後に声を上げて笑う。 姉の笑い声に、心が弾んでくる。 「お姉ちゃん、ありがとう」 「うん。よかったね、由香。おめでとう」 笑っていた早紀の声は、一転涙声に変わった。 「うーん、これはちょっと畏まり過ぎだわ」 身体に当てた服を、由香はクローゼットに戻し、次の服を取り出す。 「これは、おしゃれすぎるみたい」 またクローゼットに戻し、次を手に取る。 「……地味……かな。やっぱり、さっきの服で良かったかしら……色合いは悪くない。……でも、デザインは凝り過ぎかな。もっとシンプルなほうが……」 両手に服を持ち、由香は疲れを感じてその場にしゃがみ込んだ。 明日、吉倉家を訪問するための服。寝る前に決めておいた方がいいと思って、始めたのだが…… 駄目だ……決められない。どれもこれも駄目な気がして…… いいかなと思ったものを何枚か選んではいるのだが…… それに、靴やバッグも合せわなきゃならない。服に合うとしても、使いこんで痛んだような靴を履きたくないし、バッグも同様…… 「はあーーっ」 もう、やだっ! 服もバッグも靴もぜんぜん決まらないし…… 吉倉の両親と対面しなければならないことが頭から離れず、緊張のせいで胃の調子がおかしい。 みんな、こんな思いをしてるのかなぁ? お姉ちゃんも、靖章さんと結婚する前に、こんなふうだったのかな? 少し涙目になり、由香は時計に目をやり、時間を確認する。 もう十一時だ…… あっ、しまった。綾美ちゃんに今日のうちに電話しとくつもりだったのに……もうこんな時間じゃ、電話できない。 まったくもおっ、わたしってば、何をやってるんだろう? 少しでも早く寝ないといけないのに…… 睡眠不足でひどい顔になっちゃったら……最悪だわ。 思考がまとまらずに、気持ちは落ち着かないし、イライラする。 ……どうしたらいいんだろう? 誰かに助けてもらいたくて、携帯を取り上げていた。 誰にかけよう? お姉ちゃんは、もう寝ちゃったかな? 追い詰められた気分で、由香がかけた相手は母だった。 「由香」 母の声を耳にし、どうしてか涙が零れた。 「お、お母さん」 「あらら……どうしたの?」 「なんかもう、どうしていいかわかんなくなっちゃって」 「えっ? 佳樹さんと何かあったの?」 「佳樹さんとは、別に何も……そうじゃなくて、ほら、明日は佳樹さんのご実家に挨拶に行かなきゃらないから」 「緊張して眠れないの?」 「緊張もしてるけど……そうじゃなくて、明日着て行く服が決められなくて……」 「寝なさい」 「えっ?」 「何も考えずに寝なさい」 「そ、そんなわけにいかないの。だって、明日着る服が決まってないんだもの!」 怒ったように叫んだら、母が笑い出した。 「真剣に言ってるのに」 「わかるわよ。……明日、朝にそっちに行って、お母さんが選んであげる。だから、もう安心して寝なさい」 言い聞かせるように言われ、由香はひどく恥ずかしくなってきた。 「……わたし、馬鹿みたいよね?」 「そうね。馬鹿みたいだわ。でも……母としては……言葉にできないくらい嬉しいわ、由香」 「お母さん……」 「指輪、もらったんですってね」 「う、うん」 「これから忙しくなるわね」 「忙しく?」 「もちろん、結婚式に向けてよ」 「そんな話、ま、まだ、早いから」 「早くないと思うわよ。婚約したら、結婚までは半年から一年……佳樹さんの様子だと、もっと早くと思ってるんじゃないかしら?」 それは否定できない……のかな? 「しあわせになってちょうだいね、由香」 「……お母さん」 「それじゃ、明日の朝、何時ごろに行けばいいの?」 「う、うん。佳樹さんは十時に迎えにきてくれることになってるから……」 「それじゃ、九時でいいわね」 「うん。……あの、お母さん、ありがとう。これで寝られそう」 「ええ。お母さんにドーンと任せておけばいいから、あんたはさっさと寝なさい」 「そうする」 感謝を胸に、由香は携帯を切った。 いつでも自分を見守ってくれている母……そして家族のありがたさを、由香はじんわりと噛みしめた。 |