笑顔に誘われて… | |
第65話 君と、前に… いいのかな? これでいいのかな? 姿見の前に立ち、全身を確認するも、不安が消えない。 母がコーディネートしてくれた服なのだが…… けど、もうこれ以上、なんだかんだ言えない状況だったりする。 お母さんが選んでくれるものに、靴がいまいちあっていないみたいだの、バッグの色がどうのと些細なクレームを、いちいち入れちゃったからなぁ。 いまや、母の堪忍袋の緒は、ぶち切れそうな危うさなのに違いなく…… 「由香」 母に呼びかけられ、由香はドキリとして後ろを振り返る。 「は、はい?」 「あなた、朝ご飯はちゃんと食べたの?」 「あ……食べようとしたんだけど……喉を通っていかなくて」 「まったく」 そう口にした母が、くっくっと愉快そうに笑い出した。 「お母さん?」 「あんたは、昔っからそうよね」 「あ……ま、まあね」 「入学式、卒業式、運動会……修学旅行の前とかも……朝ご飯が食べられなくて……」 確かにその通りだ。いつだって、緊張しすぎて朝食が食べられなかった。 「そんなあんたを、家から送り出す母の身になってほしかったわ」 「……」 言葉が返せず、由香は黙り込んだ。 「緊張と空腹のせいで、式の最中に倒れるんじゃないかとか、旅行中に具合が悪くなるんじゃないかって……ほんと心配したわ」 「ごめんなさい」 ここは謝るしかなく、身を小さくして頭を下げる。 「人見知りで、内向的で……神経が細くて……はあっ」 母は思いつくまま口にして、最後に疲れたようにため息を吐く。 おかげで、由香としては、いたたまれない気持ちになる。 「お、お母さん」 「お嫁にもらってくれるひとが現れて、本当によかったわ」 そんな台詞とともに苦笑する母を見つめていた由香は、テーブルを前にして座っている母に歩み寄り、座り込んだ。 「ねぇ、お母さん」 「うん?」 「その……結婚するかもしれない状況になったときって、みんな不安に感じたりしないのかな?」 由香の問いに、眉をくいっと上げた母は、黙り込んだまま由香を見てくる。 見つめられて過ぎて落ち着かなくなった由香は、もじもじしてしまう。 「ひとそれぞれだろうけど……大なり小なり不安を感じるんじゃない。マリッジブルーになる花嫁さんもいるんだし」 「そ、そうよね。あ、あの……ほんとに、この服でいい? 髪型も、これでいい?」 「ええ、完璧。とっても綺麗よ」 「お、お母さん!」 綺麗の言葉に反応して、文句を言うように叫んだら、母がくすくす笑う。 「ほんと、あんたは褒められるのが苦手よね」 「もういいよ。……わたし……」 「うん?」 「あの……怒らないで聞いてくれる?」 「話にもよるけど……まあ、わかったわ。決して怒らないわよ。それで、なあに?」 母ときたら、そんな返事では、話す気になれないのだが…… 「ほら、言ってごらんなさいな」 改めて催促されて、口ごもりつつも、話してみることにする。 「その、わたし……佳樹さんがわたしのことを好きだっていう気持ちが、いつか消えちゃうんじゃないかなって……そうなったら、どうしようって……恐くて」 「うんうん」 母は相槌を打ち、にやにやし始めた。 馬鹿にされなくてよかったけれど、にやにや笑いはいただけない。 「お母さん」 「いえいえ、お母さんも、そんなことを思ったこともあったなぁとね」 「お母さんも?」 「そりゃああるわよ。……佳樹さんも、不安を抱いているんじゃないかしらね?」 佳樹さんも? 吉倉のことを思い返し、ふたりして交わした言葉が頭の中にいくつも蘇る。 頼りがいのある佳樹さん。切なそうな佳樹さん。ひどく不安そうなときもあった…… 「早紀と靖章さんも、なんとか元の鞘に戻れたけど……ふたりの気持ちがちょっと行き違っただけで、あんなふうにうまくいかなくなったりするのよ」 「そ、そうだよね」 「そうよ。……夫婦は一心同体なんて言うけど……そうじゃない。別々の人間よ。心は別々。話をしなくても通じ合えるなんてわけ、絶対にないってこと」 きっぱり言い切った母は、由香の手を取ってぎゅっと握りしめてきた。 「将来がどうなるかなんて、誰にもわからないわ。だから心配してもしょうがないのよ」 由香は頷いた。 母の言葉に納得し、気持ちがとても落ち着いていた。 由香は、自分の左手の薬指に嵌っている指輪を見つめ、指先で触れた。 「佳樹さんは、ほんとセンスがいいわね。その指輪、あんたにとっても似合っているわよ」 由香は微笑み、「うん」と返事をする。 取り去れない不安は抱えていればいいのかも。 それに……不安って悪いものじゃないのかも。 不安があるから……相手の気持ちをわかりたいと思うし、自分の気持ちもわかって欲しいと思うんだもの。 佳樹さんと心を通い合わせたければ、彼に心の内をちゃんと伝えなきゃいけないんだ。 吉倉との約束の時間になる直前に、母は帰って行った。 由香は出掛ける準備を整え、母を見送りがてら外に出て、そのまま吉倉が来るのを待った。 吉倉は約束の時間より少し早くやってきた。 「由香、寒かっただろう? 外で待っていなくてもよかったのに」 顔をしかめて吉倉が言う。由香は笑って助手席に乗り込んだ。 「いま出てきたばかりです。それにコートを羽織っているんだから、ぜんぜん寒くありませんでしたから」 そう言うと、吉倉は手を伸ばしてきて、由香の頬に触れる。 触れられて、トクンと心臓が跳ねた。 「冷たい」 「あったかい」 吉倉の言葉に返すかのように口にし、由香は笑みを浮かべた。 「由香」 「はい?」 「私の言いたいことをわかっていながら……」 吉倉は不満そうに言う。 彼の手はまだ由香の頬にくっついている。 由香は吉倉の手を上から押さえた。 「冷えていたから、佳樹さんの体温を感じられて、わたしは嬉しいんですけど」 そう言葉にすると、吉倉はどんな反応をすればいいのか迷ったようで、渋い顔をする。 由香はくすくす笑った。すると、吉倉も笑い返してきた。 「ほんと予想外だ」 「はい?」 「緊張しているだろうと思っていた」 「あ、ああ」 「意表を突かれて、嬉しくて、なぜか文句が口をついて出た」 正直な気持ちを語る吉倉に、由香は改めて笑い出した。 「さっきまで、物凄く緊張していたんです。けど、母と色々話して……緊張が取れて……」 「それなら、お母さんにお礼をいわなければならないな。……君の緊張を取り除くために、君のところに来てくれたのかな?」 「それは……」 由香は顔を赤らめて照れつつ、昨夜からのことを吉倉に話して聞かせた。 今日、着て行く服が決められずに、パニックになったあげく、母に電話したことまで…… 話を聞きながら、吉倉は笑いを堪えたり噴き出したり……けれど、とても嬉しそうなのが伝わってくる。 「わたしが、どの服にもいちゃもんをつけるものだから、もう少しで母がブチ切れそうになっちゃって」 「それで、その服に決まったわけかい?」 「はい。お母さんがブチ切れる寸前で……」 吉倉が笑い出し、由香も一緒に笑う。 ふたりして笑い止んだとき、吉倉がぽつりと「前に進めているんだな」と呟いた。 「君と、前に進めてる。君と……前に」 吉倉は、まるで自分に言い聞かせるかのように呟きを繰り返す。 吉倉の呟きを胸に入れ、由香は小さな事ばかり気にして緊張している自分がひどく愚かに思えてきた。 佳樹さんと一緒にいられること。 そして佳樹さんと一緒に歩んでいけること。 ……その現実を噛みしめよう。 由香は、そう心から思った。 |