笑顔に誘われて…
第66話 土壇場で諍い



一度訪れたことのある吉倉家。

目視で確認できるところまできた由香は、急激に緊張が増してきた。

や、やだ!

緊張するのは愚かしいと思ったはずなのにぃ。

なんなの、この強烈な緊張感!

身体は強張ってくるし、自分でもわかるくらい狼狽えてしまう。

心を浸食してくる動揺を無理やり無視しようとするが、そんな由香の意思など意味はなかった。

ドクンドクンと鼓動が大きくなってゆく。

胸の中で心臓が大袈裟なほど動きを強めていくのを、由香は手で押さえ込もうとぐっと力を込めた。

もちろん、そんな行為も、なんの意味もない。

あ、あ、あ……つ、つ、着いちゃう。

半分泣きそうになりながら、由香は心の中で呟いた。

そうこうしているうちに、車は駐車場に停まった。

あーー、着いちゃったし……

なぜか気落ちし、文句を言いたくなる。

なんかもう、どうしようもないくらい、動転しちゃってるんですけどぉ。どうすればいいの?

『心臓は喉から飛び出そうなほど暴れているし、体調も物凄く悪いので今日はもうこのまま帰りたいです』なんて、吉倉に泣きつきたくなる。

もちろん、そんなこと口にできない。

こんなこと佳樹さんには言えないけど……

わたしが、せめて佳樹さんと同じ年だったら……こんなにも尻込みせずにすんだだろうと思うのだ。

息子よりも年上で、すでに三十路を過ぎている相手だなんて……

佳樹さんのご両親、もっと若いお嬢さんを結婚相手として連れてくると思っているんじゃないかしら?

「由香」

吉倉家の外壁を、息を詰め、緊張マックスで見つめていた由香は、名前を呼ばれたのに気づき、顔を吉倉に向けた。

吉倉はいつの間にやら、助手席のすぐ外にいる。

由香の気付かない間に車を降りて、こちらに回り込んで来ていたらしい。

「あ……はい」

返事をしたら、吉倉が助手席のドアを開けた。

催促はしてこないが、由香が車から降りるのを待っている。

「え、えっと……その……あ、あの、佳樹さん?」

口ごもり、何を言えばいいのか困っていた由香は、気になることがあるのを思い出した。

「うん?」

「え、えっと……わ、わたしが……」

吉倉よりもわたしのほうが年上なのは、伝えてあるんですか? と、口にしようとした由香は、直前で問いを変えた。

「佳樹さん、ご両親になんて話してあるんですか?」

こんな問いを今頃している自分に呆れる。

もっと早く聞いておくべきだったのに、いまのいままで思いつけなかったのだ。

「……」

吉倉の返事を待つが、彼は黙り込んだまま由香を見つめている。

そ、それって?

「ま、まさかと思いますけど……何も言っていないとか?」

吉倉が、気まずそうに頭を掻く。

「ごめん。そのまさかだ。前もって話しておこうかとも思ったんだが……どうにも切り出しづらくて……」

切り出しづらくて……という言葉に、ズーンと落ち込んでしまう。

それって、やっぱり、わたしが年上だから?

顔を強張らせていると、吉倉は困った様子で顔を近づけてきた。

「君に会わせる前から、あれこれ聞かれるのが嫌で……まず君に会わせて、結婚の報告をするほうがいいだろうと考えたんだ」

「……いま、一気に、とんでもなく、物凄――く、ハードルが高くなったんですけど……」

「ハードル?」

吉倉はきょとんとした顔で繰り返す。

「突然お邪魔して、お付き合いさせていただいていますとか……いたたまれませんよ」

しかも、結婚の約束までしてしまっているんです。なんて……

「いたたまれない? どうして?」

吉倉ときたら、由香の気持ちがまるでわからないらしく、眉をひそめて聞いてくる。

「ど、どうしてって? ですから、突然なんて、ありえませんよ」

「そうなのか? 前もって伝えるのが常識なのか?」

「じょ、常識なのかと問われると……困りますけど……こういうこと初めてですし、経験者の話を聞いたことがあるわけでもないですし」

「僕も初めてだ。……なら、これが非常識というわけでもないんじゃないかな?」

「し、知りませんよ!」

土壇場になって、こんな諍いをしていることに苛立ってきて、つい声高に言い返してしまう。

吉倉は由香の反応に、弱り切った顔になる。

「とにかく、ここまで来たんだ。現実を受け入れて……ほら」

吉倉はなだめるように言いながら、手を伸ばしてきた。

由香の二の腕をやさしく掴み、助手席から降りるように促してくる。

「反対されるかもしれませんよ」

「そんなことはない」

不安いっぱいで聞くも、吉倉は笑いながら言う。

もちろん、そんな反応を貰うと、憤りが湧いてしまう。

「それは佳樹さんの意見で……」

引っ張られることに抵抗し、由香は腕をぐいっと引っ張り返した。

「や、やっぱり、先にお伝えするべきですよ。突然というのは、驚かれます」

「先でも後でも同じだ」

「なら、先に」

言葉尻を捉えて言ったら、吉倉は肩を落とし、引っ張るのを止めた。

「わかった。それじゃあ、君はここで待っていてくれ。僕は先に家に入り、両親に話してくる。そして、そのあと君を迎えに来る。それなら、いいかい?」

思わずそれでいいと言いそうになったが、よくよく考えたら、吉倉が両親に告げている間、ひとりでここで待つことになるのだ。

そ、それって、もっといたたまれないわ。

「佳樹さんが話している間、ここでひとりで待ってるなんて……落ち着いてられません」

「……由香」

困った様子の吉倉を見て、罪悪感に取りつかれる。

我が侭を言って、彼を困らせている気がして、気まずい。

「……仕方がない」

呟いた吉倉は、助手席のドアを閉め、車の前を回り込み、運転席に乗り込んできた。

そんな彼に戸惑う。

「あの、佳樹さん?」

「僕の家に行こう。あそこから両親に電話して、君のことを話す。その話の流れで、両親に会ってもらうか、また日を改めるか……」

考え込みながら話していた吉倉が、疲れたようなため息をついた。

由香の罪悪感が急上昇する。

ここは、わたしが折れるべきなの?

吉倉とこれからも一緒にいたいのであれば、彼と結婚したいのであれば、吉倉の両親に会うことは、必須。

なら、心に踏ん切りをつけて、いま……というのが一番なのだろう。

由香、ほら、勇気を出すのよ。

こんなところで臆病風に吹かれて、佳樹さんを困らせるべきじゃないわ。

由香は自分を叱咤し、目をぎゅっと瞑った。

そして大きく息を吐き出してから、吉倉に顔を向けた。

「ごめん」

いままさに口を開こうとしていた由香は、吉倉の謝罪に不意を食らい、言葉を口にできなかった。

「君の言うことはもっともだと思う。照れくさいからという理由で、両親に話さずにいて、こんなふうに君を連れて行こうだなんて、やはり間違いだった」

「佳樹さん?」

「今日は、もういい。しっかり段取りをして、それから両親に会ってもらう」

吉倉はすっかり心を決めたようだった。

吉倉の両親に会う心づもりでここまで来たのに、それがこんな形でお流れになることに、動揺する。

突然は嫌だって言い出したのは自分なのに……

だいたい、もう心を固めて、決意したところだったのに……

由香がもじもじしていると、吉倉はすぐにエンジンをかけた。

エンジン音に焦りが増す。

「あ、あの、佳樹さん?」

車をバックさせようとしている吉倉に、由香は急いで呼びかけた。

「うん?」

吉倉はいつもと変わりない返事をする。

予定を変更することに対して、彼は苛立ったりも由香を責めたりもしない。

わたしの意見を聞いてくれて……

「い、行きます」

「えっ?」

「ご両親にお会いします」

「由香? 君が気にすることは何もないんだぞ。僕が悪かったんだ。君が無理をすることはない」

「どの道、緊張します。佳樹さんのご両親には、ひどく驚かせてしまうかもしれませんけど……」

由香はそう言いつつ、自分の心に踏ん切りをつける意味で、助手席のドアを開けた。

吉倉がエンジンを切り、由香は間を空けず車から降り立った。

改めて吉倉家を見上げ、強烈な緊張が舞い戻ってくる。

スーハ―、スーハ―と、深呼吸していたら、吉倉が側にやってきた。

「本当にいいのか?」

「はい。ここまで来て……ごねちゃってごめんなさい」

顔を赤らめて吉倉に謝る。

「いや、君の気持ちを汲めずに、僕のほうこそごめん」

吉倉が頭を下げてきて、由香は笑いが込み上げてきた。

くすくすと声に出して笑ったら、吉倉が顔を上げてきた。

「由香?」

笑っている由香を見て、吉倉はほっとした表情を見せる。

その瞬間、由香は吉倉への愛を再確認してしまった。

わたし、もうどうしようもないくらい、このひとのことが好きだ。

自分のほうが年上だからと、引け目を感じてしまうのもしょうがないこと。

こうなったら、あれこれ余計なことを考えたりせずに、素直にすべてを受け入れなくちゃね。

「佳樹さんとワーワー言い合ったおかげで、なんか心の準備ができたみたい。……そんなふうに思ったら、なんか可笑しくなっちゃって」

「心の準備か……」

「はい。もう大丈夫です。緊張もしてますけど……不安の種類が変わったみたい」

「不安の種類が……?」

眉を寄せて問い返され、由香は笑った。

「わたしもよくわからないんですけど……覚悟が決まったから……ってことみたい」

「そ、そうか。……それじゃ、行こうか?」

促され、由香は「はい」と答えた。

すると吉倉は、何やら迷うそぶりを見せ、それから先に立って歩き出した。

もちろん、由香を置いて行くようなことはせず、ふたりの距離を開けないようにゆっくりと歩く。

そのことにほっとしつつ、由香は吉倉について行った。

玄関まで辿り着き、インターフォンを押すものと思ったのに、吉倉はポケットから鍵を取り出し、鍵穴に突っ込もうとする。

ま、まさか、佳樹さん、自分で鍵を開けて家に入るつもり?

「ちょ、ちょっと佳樹さん、インターフォンを押したほうがいいんじゃありません?」

そう言ったら、吉倉が戸惑った顔で振り向く。

「だが、ここは僕の実家で……インターフォンなんて、これまで押したことないんだが」

そ、それはそうなのかもしれないけど……

「でも、いまはわたしが一緒にいるんですし。鍵を開けて勝手に入るなんて、絶対ありえませんから」

必死に説得する由香を、吉倉は考え込んで見ていたが、それもそうかと思ってくれたのか、鍵をポケットに戻した。

ほっとしたが、そのぶん由香は、どっと疲れた。

「……ごめん」

吉倉が謝ってきた。けれどその直後、彼は派手に噴き出した。

「佳樹さん!」

諌めるるように名を呼ぶと、「ごめん、ごめん」と繰り返す。

そんな吉倉を見ていたら、こっちまで笑いたくなってきた。

くすくす笑っていると……

「あのお」と背後から呼びかけられた。

ふたりは、ぎょっとして振り返った。





   

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