笑顔に誘われて… | |
第75話 ともに踏み出す 「これで終わりかい?」 玄関先で紙袋を受け取り、佳樹が言う。 今日はアパートの引っ越しの日。 ほとんどの荷物は引っ越し業者のトラックに積み込み、先ほど両親のマンションに向けて出発していった。 向こうでは、両親と姉夫婦が、引っ越し業者のトラックを出迎えてくれることになっている。 「ええ。これで終わりです。でも、最後にもう一度、忘れ物がないか一通り確認しておきます」 「わかった」 そう答えた佳樹は、紙袋を玄関先に置き、靴を脱いで上がってきた。 「佳樹さんも、確認の手伝いをしてくれるんですか?」 「いや、君が全部ひとりで確認したほうがいい。ふたりで手分けしてしまうと、どこを確認したかが曖昧になって、君はあとで気になるかもしれないだろ?」 それはそうかも。 「わかりました。急いで確認するので、待っててくださいね」 「ああ。そんなに急がなくていいよ。引っ越し業者のトラックは、君のご両親のマンションにまず荷物を下ろしてから僕のマンションに向かうんだ。そんなに早くはいけない」 由香は頷いたものの、眉を寄せてしまう。 「ほんとによかったんですか?」 「よかったとは……僕のところに、君の荷物を運び込むことを言ってるのか?」 「ええ」 このアパートに引っ越してきて、色々と家具を揃えてしまい、両親のところに戻るには必要のない電化製品や家具がかなりあった。 それらは処分するしかないと思っていたのだが、佳樹が自分のところにいくつかの家具を引き受けてくれることになったのだ。 引っ越し業者は、まず両親のマンションに荷物を下ろし、残った荷物を佳樹のマンションまで運んでくれることになっている。 由香と佳樹のふたりは、彼のマンションで引っ越し業者を待つわけだ。 けど、一応そちらには綾美ちゃんが待機してくれているのよね。 そういうことになったものの、いまだに由香は躊躇いを感じている。 もちろん、いずれふたりは結婚し、彼のマンションで一緒に暮らすことになる。 佳樹は、由香が自分のものを置いておけば、泊まるのにいちいち着替えなどの荷物を持ってくる必要もなくなると言うのだ。 それはその通りなんだけど…… 佳樹のマンションの部屋を頭に思い浮かべ、由香はつい顔をしかめてしまう。 「由香?」 「なんか……いいのかなって、やっぱり思うんです」 「やれやれ。このことについては、もう納得してくれたはずだろ?」 「そうなんですけど……だって、佳樹さんの部屋……モデルルームみたいに統一感があって、洗練されてて……そこにわたしの荷物が入っちゃったら、統一感が損なわれちゃいますよ」 「君ときたら、なんでそんなことにこだわるのかな? そんなこと気にしなくていい。だいたい一部屋を君に提供したんだ。統一感とか、関係ないだろ?」 「まあ、そうなんですけど……」 わたしにと用意してくれた部屋だけが、浮いちゃうことになるわよね。 どうにも申し訳ない気がするんだけど…… 佳樹さんはちっとも気にしてないようだから、あれこれ言えないし…… でも、ほんとにいいのかしら? 「あの部屋は、これから君の好きに使ってくれていいんだ。それより、ほら、確認するんだろ?」 佳樹に急かされ、由香は話を止めて確認作業に入った。 まずキッチンに入り、シンクの引き出しや戸棚を開けて確認していく。 よし、キッチンは大丈夫そうね。 次に洗面所に向かおうとして、由香は窓辺に佇んでいる佳樹に視線を向けた。 彼は窓の外の景色を眺めているようだ。 なんか絵になる人だなぁ。 好きなひとだから、こんなにも特別に見えるのかしら? 恋愛感情って、不思議かも。 佳樹さんに関わるものは、なんでもかんでも特別に思えるんだもの。 知らず彼に見惚れていたら、視線に気づいたのか、佳樹が振り返ってきた。視線を逸らす間もなく、目が合ってしまう。 「由香?」 なんだいというように呼びかけられ、非常に決まりが悪い。 彼に見惚れてぽおっとしていたなんて、恥ずかし過ぎる。 「あ……キ、キッチンの確認を終えたので、次は洗面所に……」 口にしながら、顔がじわじわと熱を持ってくる。 い、いやだ。別にこんな報告いらないし…… 動揺してるのが、佳樹さんにバレバレなんじゃないかしら? 「どうかしたのか? なんだか……」 「な、なんでもないんです。確認してきます」 佳樹にみなまで言わせず、由香は洗面所にすっ飛んで行った。 あー、恥かしかった。何やってんだか、わたし…… 自分に呆れつつ、洗面台の引き出しを確認していたら、佳樹がやってきた。 ちょっと慌ててしまう。 「ああっと……も、もう少しです」 佳樹は頷いたが、由香を見て笑みを浮かべる。 やっぱり、わたしの言動が変で、笑われちゃったんだわ。 は、恥ずかしいぃ。 「君は……ほんとに……」 そう口にした佳樹に、由香は抱き締められた。 「よ、佳樹さん?」 「抱き締めたくなった。君があまりに……」 「えっ?」 わたしがあまりに、なんだというのだろう? 「衝動を引き起こされる。抗いがたくて……止められない」 佳樹は苦笑しつつそう言うと、ふたりの唇を重ねる。 「ん……んんっ」 短いけれど、欲望を煽るような口づけに、心臓がバクバクする。 「んっ、……はあっ」 唇を離した佳樹が、切なげな声を上げる。 その声にきゅんとしてしまい、胸が苦しくなる。 由香は佳樹の胸に顔を寄せ、赤らんでしまった顔を隠した。 「由香、ひとつ提案があるんだ」 「提案ですか? あの、どんな?」 「君の子どもたちの部屋を作ろうと思うんだ」 真面目な顔で言う佳樹に、由香は目を丸くした。 「は、はい? こっ、子ども? い、いくらなんでも、気が早いんじゃ」 狼狽えて答えると、佳樹が悪戯っぽい笑みを浮かべる。 「僕らの子どもじゃない。君の子どもたちだ」 「えっ?」 戸惑いの声を上げた由香は、ようやく佳樹がなんのことを言っているのか気づいた。 「それって……ぬいぐるみのことを言ってるんですね?」 からかわれたことにむっとして、由香は佳樹を睨んだ。 「ごめん、ごめん。それで? どうかな、この提案は」 「そ、それは……」 佳樹さんのマンションに……ぬいぐるみの部屋? 「ふと思いついてね。それで、色々構想を練ってみたんだ。アイディア次第で楽しいことになると思わないか?」 「構想って、どんなものですか?」 「君と僕が寛げる部屋がいいなと思ってる。うたぶんの特注も、工房に注文したいな」 「本気ですか?」 うたぶんというのは、おでぶなうさぎのぬいぐるみのことだ。 姪っ子の真央にあげたら、彼女がそう命名して、いまでは由香と佳樹もその名で呼んでいる。 うたぶんは、嬉しいことにかなり人気で、これまで特注品もいくつか作らせてもらったのだ。 「特注品は、とんでもなく大きいんですよ。もうワンランク小さなものでも……」 「いや、特注がいい。真央さんが遊びにきたときに、びっくりするんじゃないかと思うんだ」 瞳をキラキラさせている佳樹を見て、由香は笑いが込み上げ、噴き出した。 「おっきなうたぶんがいるって、それは目を丸くしてびっくりしますよ」 そういえば…… 以前に、うたぶんと遊んでいる真央を見て、佳樹さんが自分もひとつ欲しいと言ったんだった。 そしたらお姉ちゃんが、信じられないという目で佳樹さんを見て…… そうしたら、佳樹さん……部屋の空間がとてもあたたかくなりそうだって…… ぬいぐるみの良さをわかってくれている佳樹さんに、わたしはすっごく胸が熱くなっちゃったんだっけ…… 最後の確認を終え、ついにアパートを後にすることになった。 靴を履いた由香は、その場で空になった部屋をもう一度眺め回した。 胸がいっぱいになる。 このアパートに引っ越すことを決めたとき、わたしはどうにもならない重いしこりを胸に抱えていた。 由香が引っ越しすることになったのは、姉の早紀が離婚して、娘の真央を連れて両親のマンションに戻ってきたからだった。 病んだような姉の目に、胸がつぶれそうに痛かった。 両親もずっと沈んだままで…… 重苦しい空気の中で暮らすことを、みんな余儀なくされていた。 なのにいま、すべてがいい方向に転じてくれたのだ。 佳樹さんと出逢ってからなのよね。 このひとと出逢えていなかったら、いまもまだ、あのままだったろう。 佳樹への深い感謝と、喜びが込み上げてきて、泣きそうになる。 「行くかい?」 佳樹にやさしく促される。 由香は彼を振り返り、目尻に滲んだ涙を拭った。 「その涙は……喜びの涙か?」 少し気遣わしげに佳樹が問う。 由香は顔をほころばせて頷いた。 「もちろんそうです」 そう答えると、佳樹も顔をほころばせる。 佳樹の手を取り、由香はぎゅっと握りしめた。そしてアパートの外へと、ともに踏み出した。 End あとがき 「笑顔に誘われて……」これにて完結となります。 「苺パニック」の番外編として生まれたお話。 こうして完結を迎えられ、本当に嬉しいです♪ 最初は、20話くらいで完結と思っていたんですが…… 75話まで、なってしまいました。 でも、とても楽しんで書けました。 苺が時々絡んでくるのが、また楽しくて♪ ここで終わるのが締めがいい感じなので、完結としましたが、 後日談を何話か書きたいなと思っています。 ふたりのちょっとした日常とか、結婚式とか。 そちらも楽しみにしていただけたら嬉しいです♪ 何はともあれ、これまで「笑顔に誘われて……」を、ご愛読下さり、ありがとうございました。 読んでくださる皆様がいてくれることが、嬉しくてなりません。 心からの感謝を込めて fuu(2015/3/28) |