笑顔に誘われて…

後日談



第1話 根気にとどめ



「う……ん」

目を覚ました由香は、ぼおっとした目で天井を見つめた。

わたしの部屋だ……

子どもの頃から馴染んできた天井を意識に入れて、由香の現実はほんの少し曖昧になる。

えっと……アパートから戻って来たんだったわ……

そう考えて、小さく噴く。

わたしときたら、もう一週間が過ぎるのに……目覚めるたびに、こんな風に戸惑ってるなんてね。

自分を笑い、すぐに笑みを消して、もう一度天井を見つめる。

いまのわたし、夢のような現実にいて……だから、すべてが夢だったのじゃないかと、不安に心が揺れるんだ。

アパートに引っ越す前の、いちばん最悪な時に、いまもいる気がして……

もうすべて解決したっていうのに……

だからこそ、わたしはいまここにいるのよ。

目覚めてから、あれこれ考えている自分と手を切り、由香は勢いよく起き上った。

今日は土曜日、みんなでお花見に行くことになっている。

両親、そして姉家族……

もちろん佳樹も一緒だ。

この最近、いいお天気が続いて、桜はどこもすでに満開のようだ。

……桜、散ってないといいけど……

そんな心配をしつつ、由香はベッドを整えて、パジャマのまま部屋を出た。

すると、自分の部屋の向かい側のドアが目に入り、由香はなんとなく歩み寄って、ドアを開けてみた。

「誰もいない……」

そう呟いて、微笑んでいる自分がいた。

ここは姉の早紀の部屋だ。ベッドはあるけど、以前ほど物はない。

けど、真央の玩具はたくさん転がっている。

「あら、由香。おはよう」

母親の声がして、部屋を覗き込んでいた由香は慌てて振り返った。

「お、おはよう」

「何やってんのよ、そんなところで?」

「あ……ベ、別に、何をやってるってわけでも……」

「ご飯、用意できたわよ。一緒に食べるでしょう?」

「う、うん。ごめんなさい。わたし、起きるの遅かった?」

両親のマンションに戻ってきてからのこの一週間、毎朝母に朝食の準備をしてもらって、おまけにお弁当まで作ってもらっていた。

だから、休日くらいわたしが朝食を作ろうと思っていたのに……

実行できなかったか……

「そんなことないわよ。毎日仕事頑張ってるんだから、休日くらいゆっくりしてていいわよ」

「お母さん。そんな風に甘やかすと、わたし、調子に乗って、どこまでも甘えちゃうわよ」

なぜか自分のほうが、諌めるように言ってしまい、なんか違うと由香は口を閉じた。

「お母さんは、あんたに甘えてもらえるのが嬉しいんだけどねぇ」

「甘やかしてもらってるわ。お弁当まで作ってもらってるし」

「あんたがここに戻って来てくれたのが嬉しいのよ。それに……ほら、いまだけのことだから。……そう思うと、なおさら作りたいし、作らせてもらえることが嬉しいんだけど」

いまだけのこと……か。

そう言われると、何も言えなくなっちゃうな。

半年もしたら、わたしは結婚して、この家を出ることになる。

けど、ほんとに佳樹さんと結婚できるのかしら?

ずっと好きでいてもらえるんだろうか?

なんかぜんぜん自信なくて……不安になる。

わたし、佳樹さんより年上だし……

「何を考え込んでるのよ? ほら、早く顔を洗ってらっしゃい」

母に急かされ、由香は洗面所に向かった。





「それにしても、いい日和になったわねぇ」

卵焼きを作りながら、母が楽しそうに言う。

由香はにっこり微笑んで頷いた。

「ええ、絶好のお花見日和よね」

朝食を食べ終わり、由香は母と一緒にキッチンでお花見のお弁当作りに取りかかっている。

出発は九時の予定だ。

まだ七時だし、充分時間がある。

佳樹は九時にここにやってくる予定だ。

みんなとお弁当を食べたそのあとは、由香は佳樹と別行動を取る。

佳樹の家に行き、今夜はそのまま彼のところに泊まることになっているのだ。だが、そのことを考えると、ちょっとそわそわしてしまう。

彼の家にお泊りとか……まだ慣れないというか……

お弁当がもうすぐ出来上がるというところで、先に姉夫婦が到着した。

由香が玄関に迎えに出る。

「いらっしゃい。早かったのね」

そう言っている間に、真央は足をバタバタ動かして靴を脱ぎ、玩具のある部屋に駆けていった。

その腕には、ネコのまーしゃんを抱えている。

由香は真央を追い、姉の部屋のドアを開けてやった。

「靖章さんは?」

「ちょうど佳樹さんと一緒になってね。ふたりして下でおしゃべりしてるわ」

「えっ……そ、そうなの?」

「なんでそんなに焦るのよ」

くすくす笑ってからかわれ、由香は赤くなった。

「ベ、別に焦ってるわけじゃ……」

そう言ったものの、あからさまに焦っていたわけで……言い訳してしまったせいで、もっと顔が赤らんでしまう。

「ふふ。あんたは幾つになっても可愛いわねぇ」

「も、もおっ、お姉ちゃん、からかわないでよ」

「さてと、お弁当作り、手伝って来るわ」

「ああ、もうほとんどできちゃってるの。あと盛りつけだけで、それももう終わるところ」

「あら、なんだそうなの? 大所帯で量が多いだろうから、ちょっとくらい手伝おうと思って、早めに来たんだけど」

キッチンのほうを気にしつつそう言った早紀は、「由香、真央をお願いね」と言い、居間に行ってしまった。

由香は床に座り込んで玩具で遊んでいる真央の側に行き、自分も座り込んだ。

すると真央が顔を上げて、由香を見つめてきた。

何か物言いたげだ。

「真央ちゃん、なあに?」

そう問いかけてみたら、こくんと頷き、「とーと、くうって」と口にする。

うん?

さっぱり意味が分からず、「とーと、くうって?」と聞き返してみたが、真央はまるで意思が通じて嬉しいというように、こくこくと頷いた。

「はーく、はあくって……とーと、くうのよ」

真央は嬉しそうに言うのだが……

ダ、ダメだ。さっぱりわからない。

真央の言いたいことがだいたいわかっていると、不思議とはっきり聞き取れるのだが、こちらが意味を呑み込めない場合、曖昧な発音は意味不明になる。

お姉ちゃんなら、真央ちゃんが何を言いたいのか、わかると思うんだけど……

おしゃべりしたいだけした真央は、もう満足したのか、いまはもう玩具に夢中になっている。

そ、そうだ。佳樹さんにちょっと電話してみようかしら?

もう下に来てるって言うし……

携帯を取り出し、佳樹に電話をかけることに少々緊張し、コホンと咳払いをしてから、電話をかける。

「ユカバン、コンコン?」

呼び出し音を聞いていたら、真央が心配そうな顔で由香に言う。

まさかの突っ込みをもらい、由香は焦ってしまった。

「あっ、い、いまのはね、別に風邪を引いた咳とかじゃないから、だい……」

真面目に真央に説明していたら、佳樹が出た。

「由香」

「あ……は、はい。もう下に来てるって、姉が言って……」

「うん。靖章さんと、花見をしてるところだよ」

「花見?」

「マンションの入り口に大きな桜の木があるだろう? いまふたりでそれを眺めてる」

「あっ、ああ。大きくて綺麗ですよね」

「先週はほとんど咲いてなかったのに……一週間でこんなに咲くんだな」

うーん。佳樹さんがいま愛でている桜を、一緒に愛でられないのがもどかしいんですけど……

まあ、これから一緒にお花見にいくわけだけど……

「ユカバン、だっこっ!」

真央が両手を広げて、勢いよく抱き着いてきた。

小さな子だとはいえ、思い切り体当たりされて、由香はバランスを崩したが、なんとか真央を抱き止めた。

「ま、真央ちゃん。危ないわよ」

「由香、大丈夫か?」

「は、はい。あっ、真央ちゃん」

由香が手にしている携帯を、真央が取り上げようとする。

やれやれ……

由香は苦笑しつつ、「真央ちゃんに変わりますね」と佳樹に言い、真央の耳に携帯を軽く添えてやった。

「真央さん」

佳樹が真央に呼びかけると、真央の顔が輝く。

「よちち?」

「はい。佳樹です」

「よちち、よちちだ」

「真央さん、佳樹ですよ」

「よちち?」

「いえ、よちちではありません。よ、し、きですよ。よーしーき」

佳樹は、真央に『よちち』と呼ばれるたびに、諦める気はないようで、根気強く訂正に回る。

「よちちぃ!」

真央は高らかに叫び、佳樹の根気にとどめを刺す。

由香は、堪らず噴き出したのだった。





  

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