ハッピートラブル
happy trouble


1 不安的中



いいとこだよねぇ。

眼下に広がる風景を眺め、姫野蓬は満ち足りたため息をついた。

空気も美味しいし……最こ……

「ふ、ふあっ、くっしょん」

ひんやりした風が鼻先を掠め、おかしなくしゃみをした蓬は、ひとり照れ笑いをしつつ窓を閉めようと手をかけた。

「あっと、う、うーん、くっ……もお、まったくこの窓はっ!」

老朽化した窓は、毎回閉めるのに手こずるのだ。

ここは蓬の両親が経営するペンション『アルプリ』。

西洋風のお洒落な建物で、蓬もとっても好きなのだが……

「ああっ!」

しっ、しまったぁ〜。

蓬は外れてしまった金具を見つめ、顔を歪めた。

十数年前、両親が購入したこの中古のペンションは、いまやあちこちガタガタ……

そろそろ建て替えるか、大々的な改築をするかしないと駄目だな、こりゃ。

古い建物だからこその味わいがあるのは否定しないけど……さすがに壊れるようじゃ問題だ。

この窓に限ったことではないのだ。

……そのうち、この天井も落ちてきたりして?

蓬は疑いの眼で、少々変色している天井を見上げた。

彼女は昨年の四月、ここからは少し遠い大学の観光学部に入学した。大学の近くのアパートに、親友の山本丸美と家賃を折半して住んでいる。

春休みに入ったので、実家のペンションを手伝おうと思い帰ってきたのだ。

春休みだからお客さんがそこそこいるだろうと思っていたのに、今日なんてひとりもお客さんがいない。

これまで春休みっていえば、けっこうなお客さんで繁盛してたのに……

やっぱり、そろそろ改築しなきゃならないってことなんだろうな。

そこらへん、お父さんたち、どう考えてるんだろう?

金具を手に、蓬は自分の部屋を出た。

階段を降り、父を捜して外に出る。

ペンションの壁際に、一列に植えらた花が可愛らしい。

「くぅん、くぅん」

 その鳴き声に蓬は顔を向けた。飼い犬のハヤテだ。

名前はすばしっこそうだけど、すっごいドジ犬。

何に対してもすぐに夢中になって、はしゃぎすぎるのが良くないんだと思うのだが……
とにかく落ち着きがないのだ。

ハヤテは蓬の親友、山本丸美の性格にそっくりだ。

彼女は甘えてくる飼い犬の頭をちょっと乱暴なくらい、強く撫でてやった。

ハヤテは喜んで目を細める。

ふふ、可愛いやつ。

「ねぇ、ハヤテ。お父さんを見なかった?」

「くぅ〜ん」

ハヤテの眼差しの揺れは、見てないよと言っている。

「そっか。そいじゃ、家の中だね。行ってみるね」

 愛犬の頭から手を離し、背を向ける。

途端、「く〜」と寂しそうな声が聞こえてきた。

早朝に散歩に行ったし、朝食のあともたっぷり遊んだというのに……

まったく甘えん坊なんだから。

苦笑しつつ、蓬は振り向いてハヤテの頭をポンと叩いた。ハヤテがくしゅっと顔をしかめる。

くふっ、かっわいい!

「また遊んであげるから。そいじゃ、後でね」

家に入った蓬は、リビングに父親の政志の後ろ姿を見つけて笑みを浮かべた。

「お父さん」

歩み寄りながら声をかけてみるが、反応がない。

蓬は、「おとーさん」ともう一度呼びかけながら、父の肩を軽く叩いた。

「う、うん?」

振り返った父の表情は、なんとも冴えない。

お客さんが一人もいないんじゃ、当然か。

「これ」

蓬は、父に金具を差し出した。政志の顔が曇る。

「なんだ? また、どこか壊れたか?」

「うん。わたしの部屋の窓の鍵なんだけど……」

「そうか……」

そう呟いた父は、ひどく疲れの滲むため息をつく。

「あのさ……この家、もう改築しなきゃなんないんじゃない?」

「ああ……まあな」

言葉を濁すように言う政志に、蓬はどきりとした。もしや、改築するだけの蓄えがないのでは?

蓬は顔をしかめた。

胸がチクチク痛む。

蓄えがないとすれば、それはわたしのせいだ。
授業料の高額な、私立の大学になんか入っちゃったから……

卒業まであと三年もあるというのに……いや、このままじゃ大学どころかこのペンションも……

「大丈夫だ。蓬、心配するな」

知らぬ間に俯いていた蓬は、パッと顔を上げて父を見つめた。

胸が詰まった。父はずいぶんやつれて見える。

そんなに追い詰められているのだろうか?

「で、でも……お客様、予約とか、ほとんどないんでしょ?」

ふたりの話を聞いていたのだろう、キッチンにいたらしい母の依子がふたりのところにやってきた。

「あ……あのね、蓬。大事な話があるの」

母親の深刻な表情に、蓬はごくりと唾を飲み込んだ。





  

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